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(その3からの続き) ▲駿府城御玄関前御門跡 〜現地解説板より 駿府城の中枢である本丸への出入口には、南側の御玄関前御門、東側の御台所御門、北側の御天守台下御門の三ヶ所があります。 この中で御玄関前御門は、本丸御殿へ至るための最も重要な門で、本丸の正面玄関とも言えます。 門は、二ノ丸側から木橋を渡って高麗門を通り、石垣に囲まれた枡形内を東に折れて本丸へ入る構造になっていました。また、門に面する二ノ丸の一画は、橋をはさんで東と西が石垣造りの土手により仕切られ、敵が容易に進入できない仕組みになっていました。 ▲家康手植のミカン 〜現地解説板より 徳川家康公が将軍職を退いて駿府城に隠居のおり、紀州(和歌山県)より献上された鉢植えのミカンを天守閣下の本丸に移植したものと伝えられている。 このミカンは当地の方言でホンミカンといわれており、鎌倉時代に中国から入った紀州ミカン(コミカン)の一種で、香の強い、種のある小形の実を結ぶ。静岡地方のミカンの起源を知るうえで貴重なものである。 ▲徳川家康公像 ▲本丸跡 ▲本丸堀の石垣 残存遺構です。 ▲本丸堀 〜現地解説板より 本丸堀は、駿府城の三重堀の一番内側の堀で本丸を取り囲んでいます。幅約23m〜30mで深さは江戸時代には約5mありました。石垣は荒割した石を積み上げ、隙間に小さな石を詰めていく「打ち込みはぎ」と呼ばれる積み方です。角の部分は「算木積み」という積み方で横長の石を互い違いに積んで崩れにくくしています。 発掘調査により再び姿をあらわした本丸堀は、江戸時代の雰囲気が感じられる貴重な遺構です。 ▲巽櫓 〜現地解説板より 巽櫓は、駿府城二之丸の南東に位置する木造建折三層二重の建物です。 この巽櫓は、寛永12年(1635)城下から出た火によって延焼焼失し、寛永15年に新たに建設されたといわれています。 巽とは、十二支で表した方位で辰と巳の間、すなわち南東の方角をいいます。また櫓とは、一、武器を納めておくため、一、四方を展望するために設けた高楼、の役割をしたものです。 巽櫓の復元は、「駿府御城内外覚書」や「駿府御城惣指図」の資料をもとにしており、三か年の歳月をかけ、平成元年3月に完成しました。 ▲東御門 ▲城代橋 ▲外堀 ▲大手門の図 ▲駿府城大手御門 〜現地解説板より 駿府城内へ入る正面出入口です。三ノ丸を土橋で渡って、右手へ直角に曲がり渡櫓門から城内へ入る構造になっていました。 歩道には、渡櫓門の柱礎石の位置が記されています。 ▲駿府町奉行 〜現地解説板より 駿府町奉行は、老中直属の組織で、町政全般の掌握から訴えなどの裁き、城下の警備や府中宿の管理などまで、駿府の町民生活に直接関わる広範な業務を担っていました。 寛永9年(1632)に大手組町奉行として駿府城大手御門前のこの地に設置され、明治元年(1868)までに旗本を主に63人が町奉行に任命されました。 町奉行の配下には、与力8人と同心60人がいてその職務にあたっていました。 (駿府城おわり) ●駿府城 〜現地解説板より
今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われました。 徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。 また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。 ●駿府城 〜現地解説板より 駿府城は、外堀・中堀・内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城です。本丸を中心に回字形に本丸・二の丸・三の丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層内部七階)の天守閣がありましたが、寛永12(1635)年に焼失しています。 駿府城が城郭としてその姿を見せるのは、天正13(1585)年に徳川家康公が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べるとひと回り小さいと考えられますが詳細は不明です。 この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長12(1607)年将軍を退き、駿府城に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張・修築しました。 当時の駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていました。 |
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(その2からの続き) ▲清水御門付近 ▲駿府城清水御門跡 〜現地解説板より 二ノ丸へ入る西側の出入口です。 二ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣で囲まれた枡形内を経て渡櫓門から二ノ丸へ入る構造になっていました。門の北側には西喰違御門があり、本丸搦手(裏手)側の御天守台下御門方向へは容易に進入できない仕組みになっていました。 ▲清水御門の図 ▲二ノ丸(南西) ▲駿府城跡発掘調査状況 ▲調査中の坤櫓跡 ▲調査中の二ノ丸御門付近 ▲石垣の刻印 〜現地解説板より 石垣に使われている石材には、「刻印」と呼ばれるさまざまな文字や記号が刻み込まれています。 この刻印の役割は、石垣の工事たずさわった大名の家紋を刻んだものや、石を積んだ職人のサインで、作業を担当した場所を表したとされています。ほかにも、石材の原産地を表していたり、奉行の名を記したといわれたりその役割は今も研究されています。 駿府公園(駿府城)で発見された刻印の数と種類は300以上あり150種類を数えることが出来るそうです。 ▲「切込み接ぎ」と「打込み接ぎ」の石垣モデル 〜現地解説板より 平成21年8月11日に発生した駿河湾を震源とする最大震度6弱の地震により、駿府公園(駿府城跡)の二ノ丸堀の石垣が崩落しました。 石垣の復旧の際に用いた積み方と、二ノ丸堀石垣に見られる積み方を、地震で崩れた石材の中で破損のために再利用できなかった石材で積み上げたものです。 ●打込み接ぎ〜石の角を叩いて割り、割り石(矢穴を開けて割る)を用いて石垣を築く方法です。石の隙間には間詰め石を詰めています。 ●切込み接ぎ〜切石(加工石)で石垣を築く方法です。 ▲二ノ丸橋 ▲中堀(南側) ▲東食違御門の図 ▲駿府城東喰違御門跡 〜現地解説板より 御玄関前御門に南面する二ノ丸の区域や、敵が容易に進入できないよう橋を挟んで東側と西側が石垣造りの土手で区画されていました。ここに残る土手は東側を区画する土手の一部で、北から延びる土手との間に門を設けていました。 (その4に続く) ●駿府城 〜現地解説板より
今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われました。 徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。 また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。 ●駿府城 〜現地解説板より 駿府城は、外堀・中堀・内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城です。本丸を中心に回字形に本丸・二の丸・三の丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層内部七階)の天守閣がありましたが、寛永12(1635)年に焼失しています。 駿府城が城郭としてその姿を見せるのは、天正13(1585)年に徳川家康公が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べるとひと回り小さいと考えられますが詳細は不明です。 この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長12(1607)年将軍を退き、駿府城に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張・修築しました。 当時の駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていました。 |
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(その1からの続き) ▲駿府城下町の図 ▲駿府城の縄張 〜現地解説板より 駿府城は、三重の堀を同心状にめぐらせ、堀に囲まれた区域を内側から「本丸」・「二ノ丸」・「三ノ丸」と呼ばれる「輪郭式」の縄張り構造となっています。本丸には家康の御殿と天守を、また二ノ丸には近親者の御殿などを置き、三ノ丸には重臣の屋敷を配置した構造となっています。 ※図は、家康没後の寛永年間後半(1640年頃)の城の様子を描いたと考えられる絵図です。 ▲駿府城天守の構造 〜現地解説板より 駿府城の天守は、5層7階で、平面規模は10間×12間(約20m×25m)で、屋根には銅瓦や白鑞(しろめ)瓦等の金属瓦も使われていたようです。また、天守台は、大きさが、約46m×56mであり、大日本報徳社蔵の駿州府中城図等の記載により天守台の上にそのまま天守を建てたのでなく、中央に独立させた天守丸構造であったと考えられます。 ▲駿府城鳥瞰模型 ▲二ノ丸水路 〜現地解説板より この水路は、本丸と二ノ丸をつなぐ水路で本丸堀からの水を外へ流す目的で築かれています。幅は約4.5m、江戸時代の深さは約4m、長さは約95mあり、4回折れ曲がっています。本丸堀との接続部分は約2mの段差を設けて本丸堀の水位を保つようになっています。また、水路両側は石垣で底の部分にも本丸側約50mにわたり石が敷かれており、底が洗い流されない非常にめずらしい構造になっています。石垣の下方は家康公築城当初の石垣と考えられ、家康公の威風を示す貴重な遺構です。 ▲紅葉山庭園 二ノ丸跡です。 ▲紅葉山庭園 ▲本丸跡 ▲駿府城北御門・馬場先御門跡 〜現地解説板より 北御門は、二ノ丸へ入る裏手(搦手)側の門で、絵図の中には「不明(あかず)」の門と記されるものがあることから、防御上からも普段はあまり使われなかったものと思われます。 北御門は門を入ると石垣による枡形風の空間を通り、二ノ丸内部へと至ります。二ノ丸へ入るとすぐ西側には石垣造りの食い違い土手構造による馬場先御門があります。この方面には本丸天守へ至る御天守台下御門があるため、特に厳重な造りになっていたものと思われます。 北御門と馬場先御門とをまとめて一つの門構造とする考え方もあります。 ▲北御門の図 ▲駿府城郭全図 ▲二ノ丸土塁(北側) ▲清水御門付近の様子 (その3に続く) ●駿府城 〜現地解説板より
今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われました。 徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。 また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。 ●駿府城 〜現地解説板より 駿府城は、外堀・中堀・内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城です。本丸を中心に回字形に本丸・二の丸・三の丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層内部七階)の天守閣がありましたが、寛永12(1635)年に焼失しています。 駿府城が城郭としてその姿を見せるのは、天正13(1585)年に徳川家康公が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べるとひと回り小さいと考えられますが詳細は不明です。 この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長12(1607)年将軍を退き、駿府城に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張・修築しました。 当時の駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていました。 |
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昨年(2011年)9月に行ってきた駿府城です。 駿府城は日本100名城のひとつ、徳川家康公ゆかりの地です。 データ容量の都合で4回に分けて書きます。 その1では、二ノ丸東御門の前からスタート。 中に入らずに、まずは中堀の周囲をひと回りしてから入城します。 ▲東御門遠景 ここでしばしほれぼれ ▲巽櫓と中堀 ▲復旧工事完了のお知らせ 平成21年8月11日に駿河湾で発生した地震で南側の石垣は崩落しました。 ▲復旧された石垣 写真のように復旧しています。 ▲二ノ丸橋と中堀 現在の駿府公園入口にあたります。 ▲二ノ丸御門の図 ▲駿府城二の丸御門跡 〜現地解説板より 二ノ丸へ入る正面出入口で、二ノ丸大手門とも呼ばれてました。 二ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣で囲まれた枡形門を経て渡櫓門から二ノ丸門へ入る構造になっていました。 門は昭和32年に埋められ、約70m東側に新たに出入口が設けられました。(現在の駿府公園入口) ▲駿府古絵図 ▲西門橋 ▲中堀の様子(南西あたり) ▲中堀の様子(北西あたり) ▲北門橋 ▲東御門 〜現地解説板より 東御門は、駿府城二の丸の東に位置する主要な出入口でした。 この門は、二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南・西の多聞櫓で構成される枡形門です。東御門の前が安藤帯刀の屋敷だったことから「帯刀前御門」また、台所奉行の松下浄慶にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用されました。 東御門は、寛永12(1635)年に天守閣、御殿、巽櫓などと共に焼失し、同15(1638)年に再建されました。 復元工事は、この寛永年間の再建時の姿を目指し、復元したものです。 ▲東御門橋と高麗門 ▲東御門の櫓門 ▲東御門の狭間(さま) (その2に続く) ●駿府城 〜現地解説板より
今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われました。 徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。 また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。 ●駿府城 〜現地解説板より 駿府城は、外堀・中堀・内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城です。本丸を中心に回字形に本丸・二の丸・三の丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層内部七階)の天守閣がありましたが、寛永12(1635)年に焼失しています。 駿府城が城郭としてその姿を見せるのは、天正13(1585)年に徳川家康公が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べるとひと回り小さいと考えられますが詳細は不明です。 この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長12(1607)年将軍を退き、駿府城に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張・修築しました。 当時の駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていました。 |
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(その1から続く) ▲捨曲輪 ▲天狗堂 ▲天狗面の由来 〜現地解説板より このお堂にある天狗面は、昭和34年11月に迦葉山の大天狗面の分身として沼田市観光協会で製作した。顔の長さ3m、顔の幅2m、鼻の高さ1.4m、重さ1トンで木彫りの天狗面としては日本一の大きさを誇る(彫刻者:吉沢俊三郎氏)。同年、市内の祭りに初めて天狗踊りの行列が登場し、全国でも稀な行事として賑わいを見せた。 天狗面は迦葉山弥勒寺の鎮守である中峰尊者の化身だといわれる。 弥勒寺は嘉祥元年(848年)に創建され、康正2年(1456年)に天巽慶順禅師によって曹洞宗に改宗した。禅師に随行した弟子の中峰尊者は数十年間に渡り不況と伽藍の造営に尽くした。禅師が大盛禅師に住職の座を譲ると、「吾迦葉佛の化身にて己に権化化行は終わった。よって今後は永くこの山に霊し末世の衆生を抜苦与楽せん」と誓願して案山峰から昇天し、後に天狗の面が残されたといわれる。それを中峯尊と称して祭り信仰を集めている。 現在、弥勒寺には地元商工会の有志が奉納した顔の長さを6.5m、鼻の高さ2.8mの日本一の大天狗面が安置されている。 ▲名胡桃城方向の眺め ▲平八石の由来 〜現地解説板より 沼田平八郎景義の首級を載せた石、平八郎は沼田城(蔵内城)を築いた沼田氏12代顕泰の側室の子で、摩利支天の再来とまでいわれた勇将。顕泰は城を嫡子朝憲に譲り、平八郎を連れ川場村天神城へ隠居したが、側室とその兄金子美濃守らにそそのかされて、永禄12年(1569年)正月、朝憲を呼びよせて謀殺。そのため顕泰、平八郎は沼田勢に追われて会津へ逃げた。 平八郎は12年の後、沼田城奪還の兵を挙げて沼田に迫った。真田昌幸は戦っては平八郎に勝てないと知り城中に居た金子美濃守をだました。貪欲な美濃守は己が栄進したいため平八郎に会い武装を解き、こっそり城内に入れて「おまえが城主になれるようにしてやる。」と偽り、城内に誘い入れて殺害した。風雲児の最後はまた哀だった。 時に天正9年(1581年)3月14日(一説は15日)42歳。平八郎の首級は昌幸が実検の後、この石の上に置いた。亡骸は町田町の小沢城址に葬り、沼田大明神として祀ったが首級は此処から亡骸を埋めたところまで飛んで行ったという。 ▲沼田城の堀と鐘楼 ▲沼田城石垣(遺構) ▲沼田城石垣(遺構) ▲沼田城石垣(遺構) ▲本丸御門跡 ▲沼田城本丸堀跡 〜現地解説板より 沼田城二ノ丸(野球場)から本丸(現在の花壇)の間に設けられた堀は、幕府に提出した絵図(正保城絵図)によると、本丸側に唯一石垣が積まれた沼田城で最も規模が大きな堀でした。絵図には堀幅12間(約24m)で本丸に入る櫓門付近の石垣高は3間(約6m)と記されています。奥に見える池がこの堀の名残で、右側の石垣は天守があった真田氏の頃の石垣の一部と考えられています。 平成9年に、この植え込みの中を発掘調査したところ、池の石垣に連なる石垣の一部と堀の中に崩された石や多くの瓦が出土しました。おそらく地中にはさらに北側数十mに渡り石垣の下部が現存し、城が破却された際に埋め立てられたおびただしい瓦や石が埋没していると考えられます。 出土した軒丸瓦は三巴紋で、その周囲を巡る珠点は16個を数え、信州の上田城出土瓦などとの類似性が認められています。 ▲二の丸 野球場が二の丸跡として保存されています。 (沼田城おわり) ●沼田城 〜現地解説板より
沼田城は、天文元年(1532)に三浦系沼田氏一二代万鬼斎顕泰が約3ヶ月の歳月を費やして築いた。当時蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。 築城して48年後の天正8年(1580)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正18年(1590)昌幸の長子信幸が沼田領二万七千石の領主となり、慶長年間に五層の天守閣を建造した。天和元年(1681)に真田氏五代城主伊賀守が徳川幕府に領地を没収され、翌2年1月に沼田城は幕府の命により破壊された。その後、本多氏が旧沼田領一七七ヶ村のうち四六ヶ村・飛地領合わせ四万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。次いで、黒田氏二代、土岐氏一二代の居館となったが、明治になって版籍奉還し屋形も取り壊された。時を経て本丸・二の丸跡が、現在の沼田公園に変貌した。 ●沼田城の歴史 〜現地解説板より 天文元年(1532年)沼田氏12代の沼田顕泰が築城し柳町の幕岩城から移る。 【上杉氏支配】 永禄9年(1566年)顕泰は子の朝憲に城主を譲り、側室とその子平八郎を連れて川場村天神城へ隠居したが、平八郎を城主にしたいため、同12年正月、朝憲を呼びよせて殺した。顕泰・平八郎は沼田勢に追われて会津へ逃走。上杉謙信が柴田右衛門尉を城代にした。 【北条氏〜真田氏支配】 天正6年(1578年)謙信死去。代って小田原の北条氏政・氏直父子が支配。天正8年(1580年)6月、真田昌幸が入城。翌9年3月、平八郎は沼田城奪還のために来攻したが、昌幸の策に乗った金子美濃守に城内で謀殺され、沼田氏滅亡。 【滝川氏城代】 天正10年、織田信長は滝川儀太夫を城代にしたが、6月信長が本能寺で討たれ、滝川は去り、真田の一族矢沢頼綱城代となる。 【真田氏城主】 天正17年(1589年)真田氏北条氏と和し、北条氏の有となったが翌年北条氏が、真田氏の所領名胡桃城を掠奪したため豊臣秀吉は怒って小田原の北条氏を撃滅し、沼田を真田昌幸に与え、昌幸の長子信幸が初代沼田城主となる。元和2年、子の信吉。寛永12年、信吉の長子熊之助。同16年、信吉の弟信政を経て明暦3年(1657年)信吉の庶子伊賀守信直五代城主となる。 【沼田真田氏滅亡】 天和元年(1681年)11月、幕府は悪政を理由に伊賀守を追放、3万石の領地を没収、五層の威容を誇った沼田城は破却された。 【代官時代】 以来5人の代官が在任。 【本多氏】 元禄16年(1703年)本田正永が城を再建、2代正武、3代正矩が城主。 【土岐氏〜明治】 寛保元年(1742年)土岐丹後守頼稔(寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中を歴任)が駿河国田中から移封されて沼田城主となり、以来12代土岐隼人正頼知が、明治2年(1869年)藩籍を奉還するまで、127年間城主であった。 |



