|
(その2から続く) ▲下乗橋付近からの眺め 弘前城のキャラクターはたか丸君。ひこにゃんに負けるな〜 その3ではいよいよ本丸をじ〜っくり見ていきます。 ▲本丸戌亥櫓跡 〜現地看板より 城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りで、元禄3年(1690)に柿葺の葺替えが終了している。また同9年には、櫓下にあった番所の修復も行われており、北の郭から櫓台下、本丸への通路があった。 ▲本丸未申櫓跡 〜現地看板より ここには、築城当時は五層の天守閣があったが、寛永4年(1627)に落雷で焼失したために、隅櫓が建設された。元禄7年(1694)に石垣を修理した際、不動明王の梵字を刻んだ石が出土し、最勝院に保存されている。櫓の方角を十二支で示したもので、未申は南西に当たる。 ▲御日記蔵跡 〜現地看板より 弘前藩庁御国日記と呼ばれる日記は、寛文元年(1661)に四代藩主津軽信政の初入部以降、明治に至るまで綿々と書き続けられ、津軽藩政のみならず近世幕藩体制を知る重要な史料となっている。この日記は、現在4200冊余が残されているが、これを保管した蔵がここにあった。 ▲御金蔵跡 〜現地看板より 寛文13年(1673)の絵図にすでに記載があるが、延宝8年(1680)に建設されたともいわれている。元禄4年(1691)には屋根が瓦葺であった。入口前には番所も置かれ、有名な古木として五つ葉のヒメコマツがあったという。また「牛こなかせ」とよばれた小高い場所であった。 ▲重要文化財 弘前城天守 〜現地看板より 建築年代 文化7年(1810)九代藩主 津軽寧親 指定年月日 昭和12年7月29日 棟高 16メートル 弘前城は、津軽を統一した津軽為信が計画し、二代藩主信枚が慶長16年(1611)に完成させた。当初の天守は五層で本丸西南隅に構築されていたが、築城から十六年後の寛永4年(1627)に落雷により焼失した。 現在の天守は、江戸時代末期の文化7年(1810)九代藩主寧親により、本丸辰の櫓を解体新造したものである。 建築年代は新しいが、濠側の東・南両面には鉄扉窓をつけず、矢狭間だけとし、また、一・二層にはその中央に張り出しをつけ切妻破風、石落しを設けるなど古形式になっている。 江戸時代に建築され、現存する天守としては、東北地方唯一のものであり、小規模ではあるが、全国の城郭天守の中でも代表的なものである。 ▲本丸御殿の模型 ▲本丸御殿御玄関礎石 〜現地看板より この礎石に玄関の柱が建てられていた。御殿は日常の業務を行う表と、藩主が政務を行う中奥、藩主の日常生活の場の大奥に大別される。また、本丸には能舞台や御武芸所など敷地の七割ほどに各種の建造物があった。 ▲亀石 ▲本丸井戸跡 〜現地看板より 本丸御殿の絵図では、このほかにも数か所の井戸があったことが知られるが、現在確認できるのはここだけである。地元で産する安山岩をくり抜いた堅牢な造りで、周囲は番所や塀が廻されていた。 城主発見!?…地元のおじちゃんに餌付けされてました。 ほぼ半日の時間を丸々見学に充て、写真撮影枚数は約200枚。 現存天守をはじめたくさんの重要文化財が遺されていて、大変満足でした。 ●史跡 津軽氏城跡 弘前城 〜現地看板より
弘前城は、津軽藩主代々の居城で慶長16年(1611)に二代藩主津軽信枚によって築かれた城である。 面積約49万2千平方メートル(約14万9千坪)を有し、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭よりなり三重の濠と土塁でめぐらされた城郭である。 現在城跡には、天守閣をはじめ隅櫓3棟、城門5棟の建造物が残されており、いずれも重要文化財に指定されている。 |
現存12天守
[ リスト | 詳細 ]
日本の城のうち、江戸時代以前に建設され、現代まで保存されている12の天守です。
|
(その1からの続き) ▲北の郭館神跡からの眺め その1では南内門から二の丸に入ったところでした。 その2では、 二の丸下乗橋から天守を眺めつつ、 下乗橋は渡らずに北の郭へ向かいました。 ▲重要文化財 二の丸辰己櫓 〜現地看板より 城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られたもので、防弾・防火のために土蔵造りとなっている。一・二層は四間四方の同面積であるが、三層を小さくし、屋根は入母屋にしている。 この櫓で、藩主が三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列などをご覧になった。 ▲下乗橋 〜現地看板より 本丸と二の丸を結ぶ橋で、この橋の二の丸側に下馬札があり、藩士は馬から降りるように定められていた。築城当初、橋の両側は土留板だったが、文化8年(1811)に石垣に直したものである。 以前は擬宝珠が十二支をかたどったものであった。 ▲重要文化財 東内門 ▲二の丸東門与力番所 〜現地看板より 与力番所とは、城内の主要な箇所の見張り所として配置されたもので、藩政時代には追手門与力番所、三の丸東門与力番所等十二ヶ所に建てられていたようである。 この与力番所の建築年代は定かではないが、柱や梁に残された墨書きは江戸時代初期に建てられた三の丸東門の墨書き跡と酷似し、構築手法は江戸時代中期の様相を呈していることから、古材を利用し、江戸時代中期に一度改修したものと推定される。 廃藩以降取り壊されることもなく、そのまま放置されていたものを、大正4年頃に現在の緑の相談所が建てられている。その東側に曳家移築し、以後公園管理人宿舎や作業員詰所として使用していた。 それを、昭和54年から三ヶ年をかけ、文化庁の指導協力を得て再度復元移築したものである。 ▲重要文化財 二の丸丑寅櫓 〜現地看板より 城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りで、銅板葺(当初はとち葺)となっている。 軒下や出格子の木部は素木のままで飾り気がないが、独特の美しさを見せる。櫓の方角を十二支で示したもので、丑寅は北東に当たる。 ▲北の郭 ▲子の櫓跡 〜現地看板より 北の郭北東隅の土塁上には、藩政時代を通して三層の櫓がありました。櫓の中には、武具の他に藩庁日記なども保管されていました。子の櫓は廃藩以降もその姿を留めていましたが、明治39年(1906)に花火のために焼失してしまいました。 平成13年度の発掘調査により、正方形に並ぶ櫓の礎石と石段が確認されました。櫓の礎石には、石切の際の矢穴や柱を据えた凹みのあるものがあり、中央には束石があります。櫓の規模は4間×4間(約8×8m)であり、二の丸に現存する三棟の櫓と同規模となります。 櫓の基礎及び石段については、発掘調査で確認されたままの状態で表示しました。 ▲籾蔵跡 〜現地看板より ここには、4代藩主信政の生母である久祥院の屋形がありましたが、宝永元年(1704)以降は宝蔵や籾蔵が建てられ、廃藩の頃には籾蔵が建ち並んでいました。 平成12年〜13年度の発掘調査で、籾蔵を構成する礎石列が確認されました。礎石は約1m間隔で並び、東側および南側は後世の建物のために失われていましたが、12間×4間(約24m×8m)の規模であることがわかりました。この籾蔵が建てられた時期は、19世紀前半と考えられます。 発掘された礎石は盛り土により保護しました。その上に石を配置し、区画内の舗装の色を変えることにより、籾蔵の跡を表示しました。 ▲館神跡 〜現地看板より 館神は、2代藩主信枚が太閤秀吉の木像を御神体として安置した場所でした。ここでは、藩主や城内の安全などにかかわる加持祈祷がとり行われており、ここへ出入りできたのは、藩主や神官やその家族などごく限られた人でした。 平成11年〜12年度の発掘調査では、鳥居の礎石や本殿の柱穴、柵列跡等の遺構が確認されたほか、藩政時代の陶磁器や土器が多数出土しました。 発掘された遺構は盛り土により保護し、その上に鳥居の礎石及び柱、本殿の柱、柵列の柱を表示しました。また、通路は遺構の配置や絵図を参考に設置しました。 ▲鷹丘橋と内堀 ▲御宝蔵跡 〜現地看板より この御宝蔵には、青山と呼ばれた琵琶や、小野小町が持っていたと伝えられる琴があったといわれる。このほか本丸には、政庁や藩主の居住区の役目をした御殿や能舞台、藩主の武芸所などがあり、御金蔵や西の御土蔵、御日記土蔵とも呼ばれた蔵も建てられていた。 (その3に続く) ●史跡 津軽氏城跡 弘前城 〜現地看板より
弘前城は、津軽藩主代々の居城で慶長16年(1611)に二代藩主津軽信枚によって築かれた城である。 面積約49万2千平方メートル(約14万9千坪)を有し、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭よりなり三重の濠と土塁でめぐらされた城郭である。 現在城跡には、天守閣をはじめ隅櫓3棟、城門5棟の建造物が残されており、いずれも重要文化財に指定されている。 |
|
▲下乗橋から望む現存天守 定番の眺めです! 現存12天守の1つ、弘前城。 2010年8月に念願の登城を果たした時の写真です。 天守だけでなく5つの門と3つの櫓も重文としてしっかり残され見応え抜群! その1では、 一陽橋口の駐車場に車を停め、四の丸、三の丸、南内門から二の丸へ入ります。 ▲四の丸護国神社 一陽橋を渡ってすぐのところにあります。 ▲重要文化財 四の丸北門(亀甲門) 〜現地看板より 弘前城には、現在5棟の城門が残されているが、この北門は、これらの中でも特に規模が大きく、また形状も異なり最古の形式を呈する城門である。 北門は、もと大光寺城(現在の南津軽郡平賀町)の城門を慶長16年二代藩主信枚が築城にあたり弘前城追手門として移築再建したもので、昭和33年の保存修理工事に当たって、柱などから多数の矢傷跡が発見されている。 弘前城は、移築以来実戦の経験がないため、この北門が城郭内で唯一の実戦の痕跡をとどめる貴重な城門である。 また、棟の両端にある鯱も他の門のものより古い形式のものである点、矢狭間、鉄砲狭間のない点など、見るべきところが多い門である。 ▲四の丸 ▲賀田御門跡 〜現地看板より 築城当初は北門が表玄関で、ここにあった賀田門は、三の丸の北門として旧賀田城(岩城町大浦城)の大手門を移築したと伝えられる。門の内外は直進できないように折れ曲がった枡形が造られていて、堅固な備えを見せている。 ▲重要文化財 東門 賀田門を入らずに丑寅櫓を右手に見ながら三の丸へ抜けて… ▲津軽為信公像 東門の外、弘前文化センターにしっかり立ってます。 ▲重要文化財 三の丸追手門 〜現地看板より 弘前城には、築城当初十棟の城門があったとされているが、現在二の丸南門、二の丸東門、三の丸追手門、三の丸東門、四の丸北門(亀甲門)の五棟が残されている。 弘前城の城門は、周辺を土塁で築き、内外に枡形を設けた二層の櫓門であるが、門の前面に特別の門(高麗門)などを設けていないことや、一層目の屋根を特に高く配し全体を簡素な素木造りとしていることなどから、全国の城門の中でも古形式の櫓門として注目されている。 ▲杉の大橋 〜現地看板より 南内門外の大橋に当たり、名称は杉材を用いた橋ということから付けられたといわれる。文政4年(1821)に濠の両側が石垣となるとともに、桧材によって掛替えされた際に欄干・擬宝珠がつけられたものである。 ▲重要文化財 南内門 ▲重要文化財 二の丸未申櫓 〜現地看板より 城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られたもので、防弾・防火のために土蔵造りとなっている。現存する3つの櫓はいずれも三層建てで同じような姿であるが窓の形など細部の造作に違いが見られる。櫓の方角を十二支で示したもので、未申は南西に当たる。 ▲時太鼓櫓跡 〜現地看板より 城内で時間を知らせるために太鼓を打ち出した場所で、貞享3年(1686)に始められた。時太鼓は、まず数十回捨て打ちして明け六つ(午前6時の前後2時間)を打ち、他の時刻は3回捨て打ちしてから打つという。明治4年(1871)の廃藩置県後に三の丸にあった稽古館とともに、最初に解体された。 (その2に続く) ●史跡 津軽氏城跡 弘前城 〜現地看板より
弘前城は、津軽藩主代々の居城で慶長16年(1611)に二代藩主津軽信枚によって築かれた城である。 面積約49万2千平方メートル(約14万9千坪)を有し、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭よりなり三重の濠と土塁でめぐらされた城郭である。 現在城跡には、天守閣をはじめ隅櫓3棟、城門5棟の建造物が残されており、いずれも重要文化財に指定されている。 |
|
別名・白帝城と呼ばれるこの城は、 小牧長久手合戦で豊臣秀吉が布陣した城としても有名です。 現存天守は犬山城以外に、松本城、姫路城、松江城と見ましたが、 やはり模擬天守とは違う雰囲気というか、匂いを感じます。 犬山城は2度目の登城。 存分に見尽くしたつもりでしたが…、有楽苑を見逃していました。 また今度のお楽しみです。 ちなみに、対陣の徳川家康は小牧山に布陣しました。 この小牧山城まで数駅と近く、せっかくなので見たかったのですが、 日も暮れかかって寒く、重い鞄を持ったまま歩きすぎて足がイタイタだったので、 こちらも、また今度のお楽しみ、という事で。 ▲木曽川の川上側から ▲犬山城入り口の石碑 ▲矢来門 〜現地解説板より この位置に矢来門という門があり現在門礎の一部が残っております。 ▲松の丸門 〜現地解説板より 登城道から矢来門を通過し、天守閣又は、松の丸御殿に通じる松の丸門がこの位置にありました。 ▲黒門 〜現地解説板より この位置に黒門という門があり、現在門礎の一つが残っております。 ▲岩坂門 〜現地解説板より 登城道最後の坂を登りつめたこの位置に、岩坂門があったところです。 ▲本丸門 〜現地解説板より 登城道最後の本丸門入口の門で外側が鉄で防禦されていたので鉄門と言われていた。 注 現在の本丸門は旧門とは関係ない。 ▲本丸門からの眺め ▲正面からの眺め あ!飛行機が! ▲いろんな角度から… ▲う〜ん、ほれぼれ… ▲天守閣から見た木曽川(上流方向) ▲天守閣から見た木曽川(下流方向) ▲七曲門(別名見晴門) 〜現地解説板より この位置に七曲門があり、現在門礎が多く残って旧状をよくとどめております。 ▲紅葉にも映えますね ▲また撮っちゃいました 犬山城、結構アングルが難しいかも… ▲木曽川から見た犬山城 美濃国側から見たらこんな風。さすがに後堅固です。 ●犬山城の歴史 〜現地解説板より
犬山城は、天文6年(1537年)に織田信長の叔父にあたる織田与次郎信康によって造られました。戦国時代なので、その後何代も城主が代わりましたが、1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦の頃を中心に、城郭は整備されていきました。 小牧長久手合戦(1584年)の際には、豊臣秀吉は大阪から12万余の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。江戸時代になり、尾張藩の付家老、成瀬隼人正正成が元和3年(1617年)城主となってからは、成瀬家が代々うけついで明治にいたりました。 明治4年(1871年)9代目成瀬正肥のとき廃藩置県で廃城となり、櫓や城門など天守閣を除く建物はほとんど取り壊されてしまいました。 明治24年の濃尾震災で天守閣の東南角の付櫓など、ひどく壊れました。それを修復する条件で再び成瀬家所有の城となりました。その後、伊勢湾台風でも被害を受けましたので昭和36年から昭和40年(1965年)まで4年間かけて解体修理がおこなわれました。 昭和10年(1935年)国宝に、昭和27年規則改正にともない改めて国宝に指定されました。 国宝の犬山城、彦根城、姫路城、松本城の四城のなかでも、最も古い城であります。 平成16年4月、財団法人「犬山城白帝文庫」が設立され、城の所有者は個人から財団法人になりました。 にほんブログ村 城・宮殿 ←城ブログがいっぱい! にほんブログ村 戦国時代 ←戦国ブログがいっぱい!
|



