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(その3からの続き) ▲駿府城御玄関前御門跡 〜現地解説板より 駿府城の中枢である本丸への出入口には、南側の御玄関前御門、東側の御台所御門、北側の御天守台下御門の三ヶ所があります。 この中で御玄関前御門は、本丸御殿へ至るための最も重要な門で、本丸の正面玄関とも言えます。 門は、二ノ丸側から木橋を渡って高麗門を通り、石垣に囲まれた枡形内を東に折れて本丸へ入る構造になっていました。また、門に面する二ノ丸の一画は、橋をはさんで東と西が石垣造りの土手により仕切られ、敵が容易に進入できない仕組みになっていました。 ▲家康手植のミカン 〜現地解説板より 徳川家康公が将軍職を退いて駿府城に隠居のおり、紀州(和歌山県)より献上された鉢植えのミカンを天守閣下の本丸に移植したものと伝えられている。 このミカンは当地の方言でホンミカンといわれており、鎌倉時代に中国から入った紀州ミカン(コミカン)の一種で、香の強い、種のある小形の実を結ぶ。静岡地方のミカンの起源を知るうえで貴重なものである。 ▲徳川家康公像 ▲本丸跡 ▲本丸堀の石垣 残存遺構です。 ▲本丸堀 〜現地解説板より 本丸堀は、駿府城の三重堀の一番内側の堀で本丸を取り囲んでいます。幅約23m〜30mで深さは江戸時代には約5mありました。石垣は荒割した石を積み上げ、隙間に小さな石を詰めていく「打ち込みはぎ」と呼ばれる積み方です。角の部分は「算木積み」という積み方で横長の石を互い違いに積んで崩れにくくしています。 発掘調査により再び姿をあらわした本丸堀は、江戸時代の雰囲気が感じられる貴重な遺構です。 ▲巽櫓 〜現地解説板より 巽櫓は、駿府城二之丸の南東に位置する木造建折三層二重の建物です。 この巽櫓は、寛永12年(1635)城下から出た火によって延焼焼失し、寛永15年に新たに建設されたといわれています。 巽とは、十二支で表した方位で辰と巳の間、すなわち南東の方角をいいます。また櫓とは、一、武器を納めておくため、一、四方を展望するために設けた高楼、の役割をしたものです。 巽櫓の復元は、「駿府御城内外覚書」や「駿府御城惣指図」の資料をもとにしており、三か年の歳月をかけ、平成元年3月に完成しました。 ▲東御門 ▲城代橋 ▲外堀 ▲大手門の図 ▲駿府城大手御門 〜現地解説板より 駿府城内へ入る正面出入口です。三ノ丸を土橋で渡って、右手へ直角に曲がり渡櫓門から城内へ入る構造になっていました。 歩道には、渡櫓門の柱礎石の位置が記されています。 ▲駿府町奉行 〜現地解説板より 駿府町奉行は、老中直属の組織で、町政全般の掌握から訴えなどの裁き、城下の警備や府中宿の管理などまで、駿府の町民生活に直接関わる広範な業務を担っていました。 寛永9年(1632)に大手組町奉行として駿府城大手御門前のこの地に設置され、明治元年(1868)までに旗本を主に63人が町奉行に任命されました。 町奉行の配下には、与力8人と同心60人がいてその職務にあたっていました。 (駿府城おわり) ●駿府城 〜現地解説板より
今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われました。 徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。 また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。 ●駿府城 〜現地解説板より 駿府城は、外堀・中堀・内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城です。本丸を中心に回字形に本丸・二の丸・三の丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層内部七階)の天守閣がありましたが、寛永12(1635)年に焼失しています。 駿府城が城郭としてその姿を見せるのは、天正13(1585)年に徳川家康公が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べるとひと回り小さいと考えられますが詳細は不明です。 この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長12(1607)年将軍を退き、駿府城に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張・修築しました。 当時の駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていました。 |
日本100名城
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日本城郭協会が定めている日本の100の城や城跡。現存12天守も含まれます。
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(その2からの続き) ▲清水御門付近 ▲駿府城清水御門跡 〜現地解説板より 二ノ丸へ入る西側の出入口です。 二ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣で囲まれた枡形内を経て渡櫓門から二ノ丸へ入る構造になっていました。門の北側には西喰違御門があり、本丸搦手(裏手)側の御天守台下御門方向へは容易に進入できない仕組みになっていました。 ▲清水御門の図 ▲二ノ丸(南西) ▲駿府城跡発掘調査状況 ▲調査中の坤櫓跡 ▲調査中の二ノ丸御門付近 ▲石垣の刻印 〜現地解説板より 石垣に使われている石材には、「刻印」と呼ばれるさまざまな文字や記号が刻み込まれています。 この刻印の役割は、石垣の工事たずさわった大名の家紋を刻んだものや、石を積んだ職人のサインで、作業を担当した場所を表したとされています。ほかにも、石材の原産地を表していたり、奉行の名を記したといわれたりその役割は今も研究されています。 駿府公園(駿府城)で発見された刻印の数と種類は300以上あり150種類を数えることが出来るそうです。 ▲「切込み接ぎ」と「打込み接ぎ」の石垣モデル 〜現地解説板より 平成21年8月11日に発生した駿河湾を震源とする最大震度6弱の地震により、駿府公園(駿府城跡)の二ノ丸堀の石垣が崩落しました。 石垣の復旧の際に用いた積み方と、二ノ丸堀石垣に見られる積み方を、地震で崩れた石材の中で破損のために再利用できなかった石材で積み上げたものです。 ●打込み接ぎ〜石の角を叩いて割り、割り石(矢穴を開けて割る)を用いて石垣を築く方法です。石の隙間には間詰め石を詰めています。 ●切込み接ぎ〜切石(加工石)で石垣を築く方法です。 ▲二ノ丸橋 ▲中堀(南側) ▲東食違御門の図 ▲駿府城東喰違御門跡 〜現地解説板より 御玄関前御門に南面する二ノ丸の区域や、敵が容易に進入できないよう橋を挟んで東側と西側が石垣造りの土手で区画されていました。ここに残る土手は東側を区画する土手の一部で、北から延びる土手との間に門を設けていました。 (その4に続く) ●駿府城 〜現地解説板より
今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われました。 徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。 また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。 ●駿府城 〜現地解説板より 駿府城は、外堀・中堀・内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城です。本丸を中心に回字形に本丸・二の丸・三の丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層内部七階)の天守閣がありましたが、寛永12(1635)年に焼失しています。 駿府城が城郭としてその姿を見せるのは、天正13(1585)年に徳川家康公が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べるとひと回り小さいと考えられますが詳細は不明です。 この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長12(1607)年将軍を退き、駿府城に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張・修築しました。 当時の駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていました。 |
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(その1からの続き) ▲駿府城下町の図 ▲駿府城の縄張 〜現地解説板より 駿府城は、三重の堀を同心状にめぐらせ、堀に囲まれた区域を内側から「本丸」・「二ノ丸」・「三ノ丸」と呼ばれる「輪郭式」の縄張り構造となっています。本丸には家康の御殿と天守を、また二ノ丸には近親者の御殿などを置き、三ノ丸には重臣の屋敷を配置した構造となっています。 ※図は、家康没後の寛永年間後半(1640年頃)の城の様子を描いたと考えられる絵図です。 ▲駿府城天守の構造 〜現地解説板より 駿府城の天守は、5層7階で、平面規模は10間×12間(約20m×25m)で、屋根には銅瓦や白鑞(しろめ)瓦等の金属瓦も使われていたようです。また、天守台は、大きさが、約46m×56mであり、大日本報徳社蔵の駿州府中城図等の記載により天守台の上にそのまま天守を建てたのでなく、中央に独立させた天守丸構造であったと考えられます。 ▲駿府城鳥瞰模型 ▲二ノ丸水路 〜現地解説板より この水路は、本丸と二ノ丸をつなぐ水路で本丸堀からの水を外へ流す目的で築かれています。幅は約4.5m、江戸時代の深さは約4m、長さは約95mあり、4回折れ曲がっています。本丸堀との接続部分は約2mの段差を設けて本丸堀の水位を保つようになっています。また、水路両側は石垣で底の部分にも本丸側約50mにわたり石が敷かれており、底が洗い流されない非常にめずらしい構造になっています。石垣の下方は家康公築城当初の石垣と考えられ、家康公の威風を示す貴重な遺構です。 ▲紅葉山庭園 二ノ丸跡です。 ▲紅葉山庭園 ▲本丸跡 ▲駿府城北御門・馬場先御門跡 〜現地解説板より 北御門は、二ノ丸へ入る裏手(搦手)側の門で、絵図の中には「不明(あかず)」の門と記されるものがあることから、防御上からも普段はあまり使われなかったものと思われます。 北御門は門を入ると石垣による枡形風の空間を通り、二ノ丸内部へと至ります。二ノ丸へ入るとすぐ西側には石垣造りの食い違い土手構造による馬場先御門があります。この方面には本丸天守へ至る御天守台下御門があるため、特に厳重な造りになっていたものと思われます。 北御門と馬場先御門とをまとめて一つの門構造とする考え方もあります。 ▲北御門の図 ▲駿府城郭全図 ▲二ノ丸土塁(北側) ▲清水御門付近の様子 (その3に続く) ●駿府城 〜現地解説板より
今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われました。 徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。 また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。 ●駿府城 〜現地解説板より 駿府城は、外堀・中堀・内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城です。本丸を中心に回字形に本丸・二の丸・三の丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層内部七階)の天守閣がありましたが、寛永12(1635)年に焼失しています。 駿府城が城郭としてその姿を見せるのは、天正13(1585)年に徳川家康公が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べるとひと回り小さいと考えられますが詳細は不明です。 この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長12(1607)年将軍を退き、駿府城に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張・修築しました。 当時の駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていました。 |
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昨年(2011年)9月に行ってきた駿府城です。 駿府城は日本100名城のひとつ、徳川家康公ゆかりの地です。 データ容量の都合で4回に分けて書きます。 その1では、二ノ丸東御門の前からスタート。 中に入らずに、まずは中堀の周囲をひと回りしてから入城します。 ▲東御門遠景 ここでしばしほれぼれ ▲巽櫓と中堀 ▲復旧工事完了のお知らせ 平成21年8月11日に駿河湾で発生した地震で南側の石垣は崩落しました。 ▲復旧された石垣 写真のように復旧しています。 ▲二ノ丸橋と中堀 現在の駿府公園入口にあたります。 ▲二ノ丸御門の図 ▲駿府城二の丸御門跡 〜現地解説板より 二ノ丸へ入る正面出入口で、二ノ丸大手門とも呼ばれてました。 二ノ丸堀を木橋で渡って、高麗門を通り石垣で囲まれた枡形門を経て渡櫓門から二ノ丸門へ入る構造になっていました。 門は昭和32年に埋められ、約70m東側に新たに出入口が設けられました。(現在の駿府公園入口) ▲駿府古絵図 ▲西門橋 ▲中堀の様子(南西あたり) ▲中堀の様子(北西あたり) ▲北門橋 ▲東御門 〜現地解説板より 東御門は、駿府城二の丸の東に位置する主要な出入口でした。 この門は、二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南・西の多聞櫓で構成される枡形門です。東御門の前が安藤帯刀の屋敷だったことから「帯刀前御門」また、台所奉行の松下浄慶にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用されました。 東御門は、寛永12(1635)年に天守閣、御殿、巽櫓などと共に焼失し、同15(1638)年に再建されました。 復元工事は、この寛永年間の再建時の姿を目指し、復元したものです。 ▲東御門橋と高麗門 ▲東御門の櫓門 ▲東御門の狭間(さま) (その2に続く) ●駿府城 〜現地解説板より
今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われました。 徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。 また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。 ●駿府城 〜現地解説板より 駿府城は、外堀・中堀・内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城です。本丸を中心に回字形に本丸・二の丸・三の丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層内部七階)の天守閣がありましたが、寛永12(1635)年に焼失しています。 駿府城が城郭としてその姿を見せるのは、天正13(1585)年に徳川家康公が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べるとひと回り小さいと考えられますが詳細は不明です。 この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長12(1607)年将軍を退き、駿府城に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張・修築しました。 当時の駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていました。 |
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(その1からの続き) ▲二の丸の南西隅の土塁 ▲本丸石垣と水堀 ▲水堀と太鼓門 ▲東不明門と東不明門前橋 〜現地解説板より 本丸東側には「東不明門」と呼ばれる櫓門がありました。当時の門礎石は保護のために地表下30cmに埋設し、レプリカの門礎石で門のあった位置を示しています。通常この門は閉じられており、太鼓門前橋などが崩落し利用できなくなった時などに通用門として門が開かれたようです。 また、内堀からは折れた東不明門前橋のものと思われる橋脚が見つかりました。 ※この橋は管理用として復元したもので、復元ではありません。 ▲二の丸石場門 〜現地解説板より 二の丸の東には石場門がありました。実物の石場門礎石は地中に保護していますが、門の位置をレプリカの礎石で示しています。土塁の裾部分に立ち並ぶ平石は土塁の土留めや水切りのためのものと思われます。 ▲外堀 〜現地解説板より かつてここには水堀が広がっていました。堀脇には、堀に堆積した土に含まれていた花粉の化石や種をもとに、江戸時代に城内にあったウメ・カキ・クルミなど実のなる樹木を植えています。 ▲二の丸御殿跡 〜現地解説板より 土塁で囲まれた二の丸東側には、二の丸御殿と呼ばれる建物がありました。二の丸御殿には藩主の兄弟などが住んでいたと言われています。御殿は、寛永2(1625)年と享保2(1717)年の火災により建て直されています。発掘調査では御殿の礎石や庭園の池と思われる痕跡を確認しています。江戸時代末には御殿は無くなり、7棟の土蔵が立ち並んでいました。 ▲土塁 〜現地解説板より 主要部である本丸以外の曲輪は、基本的に堀と土塁によって囲まれていました。しかし、史跡指定を受けた頃には、北西側土塁の一部を残すのみで、そのほとんどは削平されていました。 江戸時代後半に行われた千曲川の改修により、川と城の間には百間堀・新堀が造られ、それらの堀際には「不崩の土手」と呼ばれる土塁が築かれました。また幕末の絵図には土塁の中にトンネル状の「埋門」が描かれています。 ▲松代城遠景(北西側からの眺め) とても小さな臨時っぽい観光案内所が二の丸西側に設置されていました。 ここに名城スタンプやパンフが置かれています。 二の丸西側は工事中だったので、整備が終わったらまた見に行きたいです。 (松代城おわり) ●史跡松代城 〜現地解説板より
松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との『川中島の合戦』の際に、武田方の前進基地として築かれた海津城がその始まりといわれており、永禄3(1560)年頃に普請が完了したものと伝えられています。慶長3(1600)年関ヶ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃、二の丸・三の丸を整備し、土塁を石垣に築きなおしたものと考えられています。元和8(1622)年に真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城までの約250年間、松代藩真田家10万石の居城となりました。 松代城は、北西側を流れる千曲川を自然の要害として造られた平城で、最奥部に本丸、南側の城下に向けて二の丸・三の丸・花の丸などの曲輪を構えていました。 明治5(1872)年の廃城以降、建物は無くなったものの、昭和56(1981)年に本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されています。 ●松代城(海津城)跡 〜現地解説板より 松代城は、江戸時代には松代藩主・真田家の居城でした。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城です。 海津城の築城年代は不明ですが、海津城の名が文献に確認できるのが永禄3年(1560)ですので、このころにはすでに築城されていたことがわかります。 戦国時代から江戸時代初頭までこの地を支配した武田信玄や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上での軍事的・政治的に重要な拠点となってました。 元和8年(1622)に真田信之が松代に移ると、松代城本丸に御殿を建築し、松代藩政の拠点としました。 その後、江戸時代の半ばには、御殿が城の南西に位置する花の丸に移ることになり、本丸は機能を持たなくなりました。 にほんブログ村 城・宮殿 ←城ブログのランキングです! にほんブログ村 戦国時代 ←戦国ブログのランキングです!
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