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(その2から続く) ▲本郭と二ノ郭の間の空堀 ▲二ノ郭 〜現地解説板より 二ノ郭は本郭の北側と西側を本郭を囲むように配置されています。三ノ郭とは堀と高さ3.5m〜6mもある土塁によって隔てられています。 ▲出桝形土塁 〜現地解説板より 本郭は空堀と高い土塁によって守られています。さらに土塁にはこのような出桝形(凸状に突き出た箇所)がつくられていて敵軍の侵入が効果的に防げるようになっています。 ▲二ノ郭から南郭へ 南郭は本郭と二ノ郭の位置から一段下がっています。さらにこの先は都幾川です。 ▲南郭 〜現地解説板より この郭は本郭の南側に位置し、他の郭より一段低くなっています。今のところ、どのように利用されていたかは、よくわかっていません。 ▲南郭から見た本郭の土塁 ▲本郭 〜現地解説板より 現存する菅谷館は戦国時代に整備拡張されました。畠山重忠の館もおそらく、この郭の中につくられたのでしょう。 ▲本郭から二ノ郭への土橋 本郭と二ノ郭の間の空堀 (菅谷館・終わり) ●畠山重忠と菅谷館跡〜現地解説板より
畠山忠重は長寛2年(1164)、畠山荘司重能を父とし、相模の名族三浦義明の娘を母として、武蔵国畠山(現大里郡川本町畠山)に生まれました。 治承4年(1180)、源頼朝が伊豆石橋山に挙兵したとき、父の重能が平氏に仕えていたため、弱冠17歳の重忠も平氏に属し源氏方の三浦氏を攻めました。その後間もなく頼朝に仕え、鎌倉入りや富士川の戦いには先陣をつとめ、宇治川や一の谷の合戦では、かずかずの手柄をたてました。また、児玉党と丹党との争いを調停するなど、武蔵武士の代表的人物として人々の信望を集め頼朝からも厚く信頼されていました。 頼朝の死後も和田義盛らとともに、二代将軍源頼家をたすけて政治に参与しましたが、北条氏に謀殺されました。42歳でした。鎌倉時代の史書『吾妻鏡』によると、元久2年(1205)6月19日、「鎌倉に異変あり」との急報に接した重忠は、わずか134騎の部下を率い「小(男)衾郡菅谷館」を出発し、同月22日、二俣川(現横浜市)で雲霞のごとき北条勢に囲まれ、部下とともに討たれたとあります。 嵐山町菅谷にあるこの城郭が、その「菅谷館」ではないかと古くから言われてきました。城郭の西には鎌倉へ通じる街道跡が残されており、この城郭のどこかに忠重の館があったことも充分考えられます。 現在この城郭は、縄張りや土塁・空堀の構造から推定して、戦国時代末頃に最終的に改築されたものと考えられています。 |
武蔵国(埼玉)の城
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(その1からの続き) ▲正坫門と木橋 〜現地解説板より ここは、三ノ郭の出入り口で正坫門とよばれ幅が約5間(9m)あります。発掘調査の結果、西ノ郭より約1m高く盛土していたことがわかりました。 この盛土は、西ノ郭へ渡した木橋に傾斜をつけ、敵軍の侵入が困難となるよう工夫したものと思われます。 調査によって堀の中段から、木橋の橋脚を立てたと考えられる石積みが検出されましたが、現在ある橋はそれをもとに推定復元したものです。しかし、実際の橋がどのようなものであったかは、わかっておりません。 ▲西ノ郭 ここは奥まで入っていくにはちょっとハチヘビが怖い感じでした。 ▲三ノ郭 三ノ郭の脇を通って資料館の南側へ行きます。 ▲建物跡と井戸跡(三ノ郭) 〜現地解説板より 歴史資料館の建設にともなって発掘調査が実施されました。ここには、発見された建物跡、溝跡、井戸跡のうち、2か所の建物跡と1か所の井戸跡を保存して、その位置が示してあります。 ▲空堀道(二ノ郭) 〜現地解説板より ここは三の郭から二ノ郭に通する連絡路と推定されます。この連絡路は幅が狭く、入り組んでいて、敵軍が二ノ郭にかんたんに侵入できないよう工夫されています。 ▲二ノ郭 〜現地解説板より 二ノ郭は本郭の北側と西側を本郭を囲むように配置されています。三ノ郭とは堀と高さ3.5m〜6mもある土塁によって隔てられています。 ▲畠山重忠像 史跡真ん中の小高い丘の上に据えられています。 ▲三ノ郭と二ノ郭の間の水堀 ▲菅谷館石碑 このあたりで半分を見終えました。すでに1時間弱歩いてます。 (その3に続く) ●畠山重忠と菅谷館跡〜現地解説板より
畠山忠重は長寛2年(1164)、畠山荘司重能を父とし、相模の名族三浦義明の娘を母として、武蔵国畠山(現大里郡川本町畠山)に生まれました。 治承4年(1180)、源頼朝が伊豆石橋山に挙兵したとき、父の重能が平氏に仕えていたため、弱冠17歳の重忠も平氏に属し源氏方の三浦氏を攻めました。その後間もなく頼朝に仕え、鎌倉入りや富士川の戦いには先陣をつとめ、宇治川や一の谷の合戦では、かずかずの手柄をたてました。また、児玉党と丹党との争いを調停するなど、武蔵武士の代表的人物として人々の信望を集め頼朝からも厚く信頼されていました。 頼朝の死後も和田義盛らとともに、二代将軍源頼家をたすけて政治に参与しましたが、北条氏に謀殺されました。42歳でした。鎌倉時代の史書『吾妻鏡』によると、元久2年(1205)6月19日、「鎌倉に異変あり」との急報に接した重忠は、わずか134騎の部下を率い「小(男)衾郡菅谷館」を出発し、同月22日、二俣川(現横浜市)で雲霞のごとき北条勢に囲まれ、部下とともに討たれたとあります。 嵐山町菅谷にあるこの城郭が、その「菅谷館」ではないかと古くから言われてきました。城郭の西には鎌倉へ通じる街道跡が残されており、この城郭のどこかに忠重の館があったことも充分考えられます。 現在この城郭は、縄張りや土塁・空堀の構造から推定して、戦国時代末頃に最終的に改築されたものと考えられています。 |
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2011年8月に行ってきた埼玉県嵐山町の菅谷館跡です。 マイナーな城跡ですが、しっかり保存整備され、博物館もありました。 ▲入口の風景 国道254バイパスを走っているとこんな旗を掲げる入口があります。 ▲菅谷館の石碑 入口脇にあります。 ▲二重土塁と泥田堀 〜現地解説板より 目の前にあるわずかな高まりは、発掘調査によって土塁であることがわかりました。この土塁は、後の高い土塁と合わせて二重の土塁となっています。また、バイパスの敷地となっている部分は自然の谷を利用してつくった泥田堀で、菅谷館跡の外堀の役目をはたしていたと考えられています。 ▲搦手門と土橋 〜現地解説板より この搦手門は、城の裏門にあたります。搦手門の幅は約4間(7メートル)あります。門を出た所にある土橋は、空堀を築いたときに掘り残し、盛土してつくられました。 ▲菅谷館の郭配置図 いつもこれ見てわくわくします。 ▲史跡博物館 まずはここで情報収集です。 ▲比企地区の城郭分布図 警備員さんが撮影許可してくれました。ありがとうございます。 ▲三ノ郭 〜現地解説板より 搦手門を入って東西に広がる平地が三ノ郭です。この広い郭は武士や騎馬の集合地として利用されていたのでしょう。 ▲蔀土塁 〜現地解説板より 目の前にある小さな土塁は「蔀土塁」といいます。この土塁は、西ノ郭から三ノ郭内部の様子を直接見通せないようにつくられたものです。 (その2に続く) ●畠山重忠と菅谷館跡〜現地解説板より
畠山忠重は長寛2年(1164)、畠山荘司重能を父とし、相模の名族三浦義明の娘を母として、武蔵国畠山(現大里郡川本町畠山)に生まれました。 治承4年(1180)、源頼朝が伊豆石橋山に挙兵したとき、父の重能が平氏に仕えていたため、弱冠17歳の重忠も平氏に属し源氏方の三浦氏を攻めました。その後間もなく頼朝に仕え、鎌倉入りや富士川の戦いには先陣をつとめ、宇治川や一の谷の合戦では、かずかずの手柄をたてました。また、児玉党と丹党との争いを調停するなど、武蔵武士の代表的人物として人々の信望を集め頼朝からも厚く信頼されていました。 頼朝の死後も和田義盛らとともに、二代将軍源頼家をたすけて政治に参与しましたが、北条氏に謀殺されました。42歳でした。鎌倉時代の史書『吾妻鏡』によると、元久2年(1205)6月19日、「鎌倉に異変あり」との急報に接した重忠は、わずか134騎の部下を率い「小(男)衾郡菅谷館」を出発し、同月22日、二俣川(現横浜市)で雲霞のごとき北条勢に囲まれ、部下とともに討たれたとあります。 嵐山町菅谷にあるこの城郭が、その「菅谷館」ではないかと古くから言われてきました。城郭の西には鎌倉へ通じる街道跡が残されており、この城郭のどこかに忠重の館があったことも充分考えられます。 現在この城郭は、縄張りや土塁・空堀の構造から推定して、戦国時代末頃に最終的に改築されたものと考えられています。 |
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埼玉県行田市の埼玉古墳群内にある丸墓山古墳は、 石田三成による忍城水攻めの際の本陣跡でもあります。 三成の水攻めにも落ちなかった忍城は、 「浮き城」と呼ばれるようになりました。 ▲三成本陣跡 ▲本陣跡から望む忍城 ▲石田堤 〜現地看板より この一段高い桜並木は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命を受けた石田三成が、忍城を水攻めした際の堤の一部です。長さ28km(一説には14km)に及ぶ堤をわずか5日間で築き、利根川と荒川の水を流入させたと言われています。三成の陣は丸墓山古墳の頂上に張られました。 ▲石田堤 桜の季節はたいそう綺麗だそうです。 ●丸墓山古墳(石田三成本陣跡)〜現地看板より
直径105mあり円墳では日本最大です。墳丘は埼玉古墳群の中で一番高く、約19mあります。墳丘に使われた土の量は二子山古墳より多かったという試算もあります。出土した埴輪から、6世紀前半ころに築かれたと推定されています。埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていません。 南側から古墳に至る道は、1590年に石田三成が忍城を水攻めにした時に築いた堤防の跡といわれている「石田堤」です。水攻めの際には、古墳の頂上に陣が張られました。 |
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埼玉県伊奈町の伊奈陣屋跡です。 堀や土塁がしっかり保存されていました。 遺構のほとんどが民有地ですので、見学には注意が必要です。 史跡内の曲がりくねった道が、 当時のまま残されている事を物語っていました。 ▲裏門跡 ▲裏門の障子堀 〜現地看板より ●「裏門跡」伝承地と「障子堀」 〜現地看板より ここは、伊奈氏屋敷跡の「裏門跡」と伝えられているところです。近年の発掘調査によって、堀を折り曲げて、「虎口」(出入口)をつくっていたことがわかりました。公園内の縁石の部分が堀の位置を示しています。発掘された堀は、幅が約5m、深さは2mあり、堀の中には障子の桟のような仕切り(畝)作られているので「障子堀」と呼ばれています。畝の高さは約1.5mありました。「障子堀」は、武者が堀を越えたり、堀の中を移動したりすることが難しいように工夫されたもので、戦国時代の築城技術が良くあらわれています。 ▲二の丸付近の土塁 ▲二の丸跡 ▲郭図 〜表門跡付近の看板より ▲表門付近の水堀 ▲伊奈屋敷遠景 ●伊奈氏屋敷跡 〜現地看板より
天正18(1590)年、関東郡代伊奈忠次は、周囲を泥深い湿田に囲まれたこの台地に、陣屋を構え、その後の関東地方の幕府直轄地を支配する拠点としました。寛永6(1629)年に、三代忠治が川口市赤山に陣屋を移すまでの間、この地が地方支配の中心となっていました。 屋敷跡の規模は、東西350m、南北750mです。陣屋が構えられた頃の様子は明らかではありませんが、当時を偲ばせる土塁や堀が各所に良く保存されているほか、見通しを悪くするためにわざわざ折り曲げた道などが、現存しているとともに、「表門」・「裏門」・「蔵屋敷」・「陣屋」などの呼称も伝承として残っています。 |



