人は城 人は石垣 人は堀〜日本100名城を撮る旅日記

日本各所の城や城跡、神社仏閣、古戦場などの歴史探訪記です

常陸国(茨城)の城

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逆井城(2010年04月)

2010年4月に茨城県の逆井城を見てきました。

遺構のほとんどは堀や土塁。
保存状態はとても良いと感じました。

また、復元や移築の建造物がたくさんあって、
青空博物館のようでした。

堀や土塁がしっかり遺っているので、
近所の子供たちの探検ごっこの場になっているようです。

この日は桜まつりの日に当たって大賑わいでした。
桜を見ながら城跡を歩くのも、またオツなものです。


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▲南西方向からの眺め

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▲北側入り口付近の堀と土塁

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▲二層櫓(復元)

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▲関宿城の薬医門(移築)

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▲大台城の主殿(復元)

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▲観音堂(移築・復元)

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▲井楼矢倉(復元)

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▲鐘堀池(遺構)

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▲櫓門と橋(復元)

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▲旧飯沼 この風景一帯が湖だったようです。

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▲比高二重土塁(遺構)

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▲横矢掛り(遺構)

●逆井城 〜現地解説板より
逆井城は、飯沼に臨む標高20mの台地先端にあり、城の北側は飯沼が洗い、西側は入江の蓮沼に接していました。飯沼は江戸時代の新田開発により湖水はなくなりましたが、およそ幅1km・南北30kmにわたり、その名残を残しています。今から約410年前の戦国時代に、この飯沼が小田原の後北条氏と佐竹氏・結城氏・多賀谷氏らの領国の境目でした。
進攻を続ける後北条氏は飯沼に築城をはじめ、天正5年(1557)10月、北条氏繁(玉縄城主)は、藤沢より城の建物をつくるための大鋸引の職人をよんでいます。城主となった氏繁は、盛んに佐竹・下妻方面の動勢を報告していますが、翌天正6年(1558)にこの飯沼城中で没し、その後氏舜が城代となりました。
天正18年、豊臣秀吉は小田原城に後北条氏を滅し、この飯沼城も廃城となりました。

古河城(2010年04月)

古河城をちらっと散策したときの写真です。
城郭は想像以上にに大きくて「ちらっ」では準備不足に加え時間不足でした。
古河駅西口から渡良瀬川に至る広域なエリアが城と城下町となっていたようです。
遺構などが西口一帯のそこかしこに残されています。

古河歴史博物館で入手したまち歩きガイド(有料)を見て、
初めてその広大な城郭の姿が分かりました。

せめて本丸跡の碑だけは見ておきたいと思ったのですが、
本丸跡は渡良瀬川の堤防の向う側、草野球場辺りのようで、
結局石碑がどこにあるのか分からず…残念。

中途半端に巡ってしまいましたが、
ここはしっかりと見ようとしたら、丸1日は必要ですね。

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▲古河歴史博物館の入り口にある石碑
古河歴史博物館の場所が諏訪曲輪(東端の出城)だった場所にあたります。

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▲博物館の桜 しだれ桜でしょうか。綺麗に咲いてました。

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▲御茶屋口跡
歴史博物館からちょっと東方向に歩いたところにあります。

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▲鷹見泉石生誕の地碑
鷹見泉石は江戸時代、日本で初めて雪の結晶を研究したとの事です。
歴史博物館と鷹見泉石記念館に詳しく紹介されています。

●古河城 〜古河市まち歩きガイド『城下町古河を歩く』より抜粋
古河城の創建時期は定かではないが、鎌倉公方、足利成氏が鎌倉から古河に座を移した15世紀中期以降、史料のなかに古河城という表記がみえることから、この時期に従来の陣から城としての整備がおこなわれたとみられる。
その後、小田原北条氏が滅亡し、徳川家康の関東入部にともない古河城には徳川の譜代大名小笠原氏が入部し城の再建に勤めた。江戸期を通して11家が12回にわたって入れ替わり在城している。江戸初期の歴代城主は数万石であったが、奥平家の11万石・永井家の7万石を経て城下も整備拡張され、さらに土井利勝の16万石時代には本丸に御三階櫓が建造され城下の形が整ったとみられる。


栗橋城(2010年04月)

2010年4月に幸手権現堂と栗橋城を見てきた時の写真です。

栗橋の地名は埼玉県ですが、栗橋城は茨城県五霞町にあります。
栗橋城跡は、見た、というか通った、という感じでした。
やっとのことで看板が見つかって、その先へ行けば遺構があったようなのですが、
そこは民家の庭のようになっていてとても入りづらい感じ。
その先への侵入は遠慮しました。

遺構の案内板などがあればもう少し分かり易いのでは、
と思いながら、遠慮がちに写真に収めてきました。

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▲幸手権現堂 桜と菜の花で有名な幸手市の権現堂の堤。
ピンク、黄色、緑のコントラストが素晴らしく綺麗です。

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▲栗橋城跡の案内看板 この先は民家の敷地のようで…。

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▲北側からの眺め

●栗橋城 〜現地看板より
今からおおよそ五百年前の室町時代、鎌倉の北条氏照氏がこの北関東の一帯を上杉謙信氏から守りぬいたために、支城として築城させたものであるといわれています。
小山城(小山市)、古河城(古河市)、水海城(総和町)、関宿城(関宿町)、竹山城(八王子)等も氏照氏代々支城として支配していたそうです。
ここ、五霞村城山は、当時の水運の便を考えると、どうしても栗橋城は、必要だったのだと考えられます。
旧権現堂川を掘ったため、城跡は2つにわかれてしまったが、当地は、松本好司氏宅を中心に、北方に若宮八幡、愛宕権現を祀る社にあり、付近には、七曲りと称せられる。浅いところでは、3〜4メートル、深いところでは、10メートル位の空堀が現存しています。

結城城(2010年01月)

茨城県結城市にある結城城址です。

城跡は完全に公園になってしまっていて、
イマジネーションが湧きませんでしたが、
結城の街並みはとても風情ある街並みでした。

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▲ご覧の通り、ただの公園です。

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▲聰敏神社 ここの看板に水野勝成の活躍ぶりが記述されていました。
●聰敏神社由来記 〜現地解説板より
聰敏神社は旧結城藩水野家初代水野日向守勝成公(1564〜1651)を祭神として祀る所である。
勝成公は徳川幕府誕生の時期に於いて親藩、譜代切っての勇将として関ヶ原の役、大阪冬の陣、同夏の陣、島原の乱に参戦してそれぞれ大功あり、特に夏の陣にあっては主要なる攻め口であった大和口の主将として采配を振い、本田忠政(おそらく本多忠政の間違い)、伊達正宗らと相率い、大阪方の城将後藤基次、薄田隼人らを破り徳川方の勝利を決定的たらしめた。その功により大和郡山6万石に封ぜられ、その後、備後福山(現広島県福山市)10万石に封ぜられた。
さらに寛永15年(1638)には75歳の高齢をもって島原の乱に出陣、水野軍一番槍の功を挙げ、島原の乱を平定した。しかし、島原の乱平定以後は平和の時世となるを達観し、治山治水の事に専念し、領主としてひたすら領国経営に精進し今日の福山の基礎を揺るぎなきものとした。なかでも水道事業は江戸神田上水と共に日本最古のものと稱せられる。それ故をもって武将としての勝成よりも裃姿の銅像が福山市に設置され市民に尊敬されている由縁である。
勝成公は当時としては稀に見る長寿であり慶安4年(1651)行年88歳で他界。生前の業績を偲び聰敏大明神と稱せられた。
その後水野家は累代福山に在世したが元禄年間5代勝岑2歳にして逝去、後嗣無きにより一時水野家廃絶の運命となったが、勝成公の戦功と公が家康の母(伝通院)方の従兄弟であった縁故に依り元禄11年下総結城に1万8千石をもって再封された。その後伝統連綿、明治を経て二百九十余年今日に到った。
文化13年結城聰敏神社は福山聰敏神社より分霊勧請せられた。
なお結城城趾たるや古来臥牛城の稱あり。古くは鎌倉時代結城朝光公の本拠たりしが、結城家福井移封の後は多年荒廃に帰した。その間は天領として伊奈代官の治むる所であった。
水野家再封の後は城館を建設したるも明治維新期における戊辰の役で焼亡したと云う。
ここに聰敏神社の由来記に併せて臥牛城の今昔を回顧するものである。

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▲北側の様子

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▲公園内のポツンと立つ鳥居

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▲公園内に立つ何かの記念碑

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▲東側の様子

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▲帰りに見かけた小学校 お城を模ったような小学校でした。

●結城城 〜現地解説板より
 結城城は治承年間(1177〜1180年)に結城朝光が築いたとされるが確証はない。むしろ南北朝動乱期に築城されたと見るべきであろう。
 その後、結城家は室町時代に関東八家の一に列して勢力をふるい、戦国時代には宇都宮・佐竹氏らと伍して生き残り、天正19年(1591年)徳川家康の二男秀康を17代晴朝の養子にもらい受け、慶長6年(1601年)越前福井への国替えまで関東の雄として栄えた。
 結城氏の転出後、結城城は廃城となったが、元禄13年(1700年)水野勝長(18000石)の入部によって再興され、明治に至るまで水野家の居城となった。
 結城氏の名を不朽にしたのは永享12年(1440年)の結城合戦である。関東公方足利持氏が将軍義教と争って滅ぶと結城家11代氏朝(1402〜1441年)は、持氏の遺児春王丸と安王丸を奉じて兵を挙げた。
幕府は諸将に氏朝らの討伐を命じたが、結城落城まで一年余の歳月を費やし、結城の名を天下に轟かす結果となったのである。



土浦城(2009年02月)

茨城県土浦市の土浦城です。
2009年2月に行ってきました。

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江戸時代郭図

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霞門側からの眺め 内濠と東櫓、手前にある梅(桜?)が咲いたら綺麗でしょうね。

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土浦城 旧前川門 〜現地看板より
この門は、親柱の背面に控柱を立て、屋根を架けた高麗門である。高麗門は城郭の門として建てられた形式の一つで、この門も、武家屋敷であった多計郭と町屋の間を仕切る「前川口門」であったといわれている。江戸時代末期の建築である。
明治18年(1885)に土浦戸長役場(のち町役場)の門として、さらに大正9年(1920)には田宿町(現大手町)の等覚寺山門として移され、その後、寺の寄贈を受けて、土浦城内の二の丸入口にあたる「二之門」のあったこの位置に、昭和56年(1981)移築されたものである。

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太鼓櫓門(現存遺構) 江戸時代前期から遺っています。

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本丸

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土浦城 東櫓

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土浦城 西櫓 〜現地看板より
由来 本建造物は、17世紀初頭元和6・7年頃城主西尾氏の時代に本丸土塁上に東西の櫓が建立されたとされ、西櫓はその一方の櫓である。
土浦城は、その後土屋氏の居城として明治の廃藩置県に至るまで幕藩政治における土浦の中心、象徴として存在していた。
土浦城内の建造物は、明治以降、本丸館を始め多くの建物が火災や移築、取り壊しにより失われ、昭和・戦後に至り、本丸には、太鼓櫓、霞門、西櫓を残すのみとなった。
そして、この西櫓も老朽化と昭和24年のキテイ台風により、小破し、昭和25年に復元を前提として解体された。
その後復元を見ずに今日に至り土塁上には礎石のみが残され、僅かに往時をしのばせるのに過ぎなかったものを市民の浄財をもとに復元したものである。

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亀城のシイ 二の丸に力強く立っています。

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霞門

●土浦城跡および櫓門 〜現地看板より
土浦城は、一名亀城ともよばれ、平城で、幾重にも巡らした濠を固めとする水城でもあった。城は、城跡に指定されている本丸・二の丸を中心に、三の丸・外丸のほか、武家屋敷や町屋を含み、北門・南門・西門を結ぶ濠で囲む総構えの規模をもつものであった。
江戸時代の建物としては、本丸表門の櫓門・裏門の霞門、二の丸と外丸の間に移建された旧前川門(高麗門)があり、復元された建物としては、東櫓・西櫓がある。
戦国時代には、城主は若泉氏、信太氏、菅谷氏と変遷したが、織豊期には結城秀康の支配下に入った。江戸時代の城主は松平(藤井)氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平(大河内)氏と変ったが、土屋政直が再び入城して、以後明治維新に至るまで土屋氏(9万5000石)の居城となった。
明治以降、本丸跡は土浦県庁、新治県庁、新治郡役所、自治会館などに利用されたが、現在は二の丸跡の一部とともに亀城公園となっている。

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