人は城 人は石垣 人は堀〜日本100名城を撮る旅日記

日本各所の城や城跡、神社仏閣、古戦場などの歴史探訪記です

史跡いろいろ

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吉見百穴(2011年08月)

昨年8月に行ってきた埼玉県吉見町の史跡、吉見百穴です。

私がまだ子供の頃、
群馬の田舎から父がよく連れてきてくれた場所でもあります。
父からはコロボックルが住んでいた家だと聞かされて、
想像力をかきたてられていましたが、
看板をよく読んでみると、これは古墳時代の横穴式のお墓なんですね。

すぐ横にある松山城跡を視察する方は、
この吉見百穴は必ず寄ってください。
博物館に松山城の歴史が丁寧に解説されています。

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▲吉見百穴

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▲入口

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▲百穴の斜面にて 頂上まで登って降りるとなかなか良い運動になります。

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▲洞窟内部

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▲ヒカリゴケ

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▲残念です… とても残念な遺跡の落書き。ここはお墓ですよ!

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▲松山城の模型 博物館に展示されています。

●吉見百穴 〜現地解説板より
 「百穴」の名が文献にみられるのは今から約二百年前からで、江戸時代の中頃には「百穴」の名も生まれ、不思議な穴として興味をもたれていたと思われる。吉見百穴が科学的に検討されだしたのは明治になってからで、内外の著名な考古学者によって調査が行われ、横穴の性格をめぐってさまざまな意見が発表された。
 明治20年、坪井正五郎氏(当時東京大学院生)によって大発掘が行われ、人骨、玉類、金属器、土器類が出土した。坪井氏はこの横穴を土蜘蛛人(コロボックル人)の住居として作られたもので、のちに墓穴として利用されたものであると発表した。しかし、大正時代になると、考古学の発達によって、各地で横穴の発見、発掘がなされ、出土品や横穴の構造から、この横穴は、古墳時代の後期に死者を埋葬する墓穴として作られたものであることが明らかにされ、「住居説」は、くつがえされることとなった。そして、大正12年には、「吉見百穴」は我が国の代表的な横穴群として、国の史跡に指定された。
 戦時中、横穴群のある岩山に地下工場の建設が行われ数十基の横穴がこわされたが、戦後、吉見百穴保存会が結成されて、積極的な保存管理が行われ、昭和36年には、吉見村が管理者となって引続き管理がおこなわれ今では「吉見百穴」は多くの人々に愛され親しまれる史跡となっている。
 また、最低部の二つの横穴に、底や壁からかすかな緑色の光を発しているヒカリゴケがある。このコケは、山地に多く、平野にあるのは、植物分布上、きわめて貴重とされ国指定天然記念物となっている。

2010年5月に行った
義経ゆかりの地、富山県の絶景、雨晴海岸です。

阿尾城から古国府城へ向かう途中で見つけたので、
ちょっと立ち寄りました。

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▲雨晴海岸全景
5月で既に海に入ってます。この年はGWあたりから暑かったのです。

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▲義経社
小さな社でした。本殿まで登るのはちょっと抵抗感あります。

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▲岩の上に立つ石碑

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▲義経雨はらしの岩 約800年前、源義経がここで雨やどりをした訳です。

●義経雨はらしの岩 〜現地解説板より
二上山の山裾が富山湾に没するこのあたり一帯は、白砂青松と日本海では数少ない遠浅海岸の「雨晴海岸」です。
この岩は別の名を「義経雨はらしの岩」といい文治3年(1187)に源義経が北陸路を経て、奥州下りの際ここを通りかかった時、にわか雨にあい、この岩の下に家来ともども、雨宿りをしたという伝説があり、亦近在する女岩、男岩と共にこの海岸は秀景をなし、かつ越中国司として伏木に在住した青年歌人大伴家持もこの絶景を多く万葉集におさめています。
〜馬なめていざ打ち行かな渋渓の清き磯みに寄する波見に〜家持

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足利学校(2009年11月)

2009年11月に行ってきた栃木県足利市の足利学校です。
足利学校は日本最古の学校です。

●足利学校サイト http://www.ashikagagakko.jp/

行った日はちょうど、釋奠(せきてん)というおまつりをやっていました。

足利の町中には、至るところに孔子の論語が書かれています。
足利学校の入り口のところは「温故知新」でした。

子日、温故而知新、可以為師矣。
(子いわく「故きを温ねて新しきを知らば、もって師たるべし」と。)
孔子がいった。「古いものを古いとして、すぐに捨てるようなことをせず、
今の世の中に、いかせるものはいかして、その上に、今の世の中の新しいものを考えていく。
そういう人こそ、人の模範といえるだろう。


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▲足利学校前景 秋晴れの青空に映えてきれいです。

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▲入徳門 寛文8(1668)年の創建。天保11(1840)年に入徳の額が掲げられました。

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▲学校門 寛文8(1668)年の創建。足利学校のシンボルとして江戸、明治、大正、昭和そして平成へと継承されています。

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▲孔子像

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▲杏壇門 寛文8(1668)年の創建。明治25(1892)年に、町の大火の飛び火により屋根門扉が焼け、同30年代に再建したものです。杏壇=孔子が弟子たちを教えたところに、杏の木が植えられていたことに由来しています。

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▲孔子廟(聖廟) 寛文8(1668)年徳川幕府四代将軍家綱の時に造営されたもので、中国明時代の聖廟を模したものと伝えられています。

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▲裏門(復原)

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▲方丈と南庭園

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▲旧遺蹟図書館 足利学校が廃校になった以後、明治36(1903)年に遺蹟図書館が開設され、書物を継承し現在に引き継がれてきています。現在の建物は大正4(1915)年に建てられ、市重要文化財に指定されています。

●足利学校 〜案内パンフレットより
足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などありますが、歴史が明らかになるのは、上杉憲実(室町時代)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、庠主(学長)制度を設けるなどして学校を再興したころからです。
鎌倉建長寺の住持の、玉隠永璵は、長享元(1487)年の詩文の中で「足利の学校には諸国から学徒が集まり学問に励み、それに感化されて、野山に働く人々も漢詩を口ずさみつつ仕事にいそしみ、足利はまことに風雅の一都会である」と讃美しております。
また天文18(1549)年にはフランシスコ=ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、「学徒三千」といわれるほどになりました。
江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治5年幕をおろしましたが、足利学校の精神は現在に引き継がれています。
昭和57年「史跡足利学校跡保存整備事業」により、平成2年江戸中期の姿に甦りました。


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