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福島県福島市にある大鳥城です。 戦国の城跡ではありませんが、悲しい物語の残る城跡です。 飯坂温泉の近く、穴原温泉の宿に泊まった時、 まだチェックインには微妙に早かったのでカーナビで付近をカチカチと眺めていたら、 「大鳥城」の表示があったので見に行ってみました。 歴史ブームとはいえさすがにマイナーな城跡だったらしく人影は全くなし。 「熊注意」の看板がそこかしこにありましたが、 看板が無くても熊が出そうな雰囲気が漂いまくってました。 やっと人がいた!と通り過ぎた地元のおばさんがたくさんの熊鈴をつけていたので、 逆に怖くなったりして…。 正直、落ち着いて見ることができず、本丸跡と矢庫の跡を見て退散です…。 ▲舘の山公園案内図 大鳥城跡は舘の山公園として保存されています。 ▲大鳥城本丸跡 ▲本丸跡にあった石碑 吉川英治先生からのメッセージ「大鳥城誌」も残されています。 【大鳥城誌(吉川英治)】 〜現地看板より
この地は源平時代の歴史に、また古くから謡曲・演劇・平家琵琶などにも語りつがれて、有名な湯ノ庄司佐藤元治の子、佐藤継信・忠信兄弟の生まれたところです。ふるさとの城です。そのころ、奥州平泉の藤原三代の文化もまたみちのくの華でした。佐藤氏は世々平泉の藤原一族として善くこの地方を治め、湯ノ庄司元治が、ここ丸山の頂きに祈願の白鳥を埋めたのを由来として、大鳥城と呼ぶようになったのです。 治承4年、源頼朝の旗上げを知ると、九郎義経は奥州の遠くからただちに平家追討の陣へ馳せつけました。途中、佐藤継信・忠信の兄弟もこの地で義経と主従の約に結ばれたのです。そして屋島の浜合において戦い、兄の継信は主の義経の矢楯になって討死をとげ、弟の忠信もやがてまた義経が不遇に落ちて吉野の奥に隠れ入った後、主に代わってむらがる敵中に消え去りました。 次いで文治5年8月、義経の奥州落ちを追って鎌倉の大軍が差向けられるや、二児を失ってもまだこの地に拠って古武士の気骨を持していた兄弟の父湯ノ庄司元治は、一族をひきいて石那坂に頼朝の大軍をはばみ、目ざましい戦死をとげました。そのことは吾妻鏡にも記録されています。 旅すがら昔の人の心ばえやらもののふのあわれを感じては、よく夏草の跡へ句など手向けて歩いた俳聖芭蕉も、またこの地へきた折、湯ノ庄司佐藤父子の跡をたずねて弔ろうたと奥の細道に記しております。下って私も迂着の新平家物語では、兄弟の事跡をそれに書きましたので、いわば無縁の徒でもありません。 それに近くの飯坂温泉へは、若年しばしば稿を携えてきたゆかりなどある儘、芭蕉翁の真似びには及びませんが、ここに拙文を草して郷土の方々の郷土愛に呈したわけです。 今日に立って昨日を見れば、すべて歴史は生々流転の音楽です。もしこの石の語るものが途上の遊子の胸を吹く旅情の一住にでもなれば倖せです。ここの山河も諸子と共に奏でを合わせてやみます。 ▲矢庫の跡 ここは特に熊がいそうで…、石碑まで近づけませんでした。 ▲搦手の跡 埋まってますが…。 何とか熊と遭遇することなく、無事に脱出(?) その後、近くにあった医王寺へお参りしました。 (医王寺は別記事でアップします) 松尾芭蕉ゆかりの地との事で行ってみたところ、 この大鳥城の歴史がよく分かりました。 大鳥城と醫王寺は、 源義経とその側臣、佐藤継信・忠信兄弟の悲しい物語の舞台でした。 醫王寺の宝物館に、大鳥城の鳥瞰図が遺されています。 かなり大きな城郭だった事が窺える絵図です。 ●大鳥城跡 〜現地解説板より
大鳥城(鵬城)は、西に連なる尾根を切断して空隍とし土塁を築き、山腹に清水井戸を堀り構築された典型的な山城で、白鳥を埋めて守護神としたことから生じた名である。 十二世紀の初め、藤原氏が奥州を支配し平泉に都城を構え、その一族の佐藤氏が信夫荘の荘司(湯の庄司とも称される)となりここに居館を構えた。親族の西行法師が陸奥をた旅しこの地に安らぎを求めた頃は小平泉の観を呈し賑わいをみせていたといわれている。 城主元治の子継信・忠信は源義経に従って出陣、継信は屋島にて義経の身代りに戦死、忠信は吉野山にて義経一行を救うも捕らわれて京都にて自刃、城主もまた丈治5年8月、義経追討の鎌倉勢を石那坂に迎撃し戦死、同月13日落城。今は館跡をはじめ城戸・矢庫・空濠・一二三の取出・清水井戸等の跡に往時を偲ぶのみである。 城主一族の墓所は、対岸(鯖野)の医王寺にあり、俳聖芭蕉の句碑がある。 笈も太刀も五月にかざれ紙幟 にほんブログ村 城・宮殿 ←城ブログがいっぱい! にほんブログ村 戦国時代 ←戦国ブログがいっぱい!
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陸奥国(福島)の城
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