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(その1から続く) ▲捨曲輪 ▲天狗堂 ▲天狗面の由来 〜現地解説板より このお堂にある天狗面は、昭和34年11月に迦葉山の大天狗面の分身として沼田市観光協会で製作した。顔の長さ3m、顔の幅2m、鼻の高さ1.4m、重さ1トンで木彫りの天狗面としては日本一の大きさを誇る(彫刻者:吉沢俊三郎氏)。同年、市内の祭りに初めて天狗踊りの行列が登場し、全国でも稀な行事として賑わいを見せた。 天狗面は迦葉山弥勒寺の鎮守である中峰尊者の化身だといわれる。 弥勒寺は嘉祥元年(848年)に創建され、康正2年(1456年)に天巽慶順禅師によって曹洞宗に改宗した。禅師に随行した弟子の中峰尊者は数十年間に渡り不況と伽藍の造営に尽くした。禅師が大盛禅師に住職の座を譲ると、「吾迦葉佛の化身にて己に権化化行は終わった。よって今後は永くこの山に霊し末世の衆生を抜苦与楽せん」と誓願して案山峰から昇天し、後に天狗の面が残されたといわれる。それを中峯尊と称して祭り信仰を集めている。 現在、弥勒寺には地元商工会の有志が奉納した顔の長さを6.5m、鼻の高さ2.8mの日本一の大天狗面が安置されている。 ▲名胡桃城方向の眺め ▲平八石の由来 〜現地解説板より 沼田平八郎景義の首級を載せた石、平八郎は沼田城(蔵内城)を築いた沼田氏12代顕泰の側室の子で、摩利支天の再来とまでいわれた勇将。顕泰は城を嫡子朝憲に譲り、平八郎を連れ川場村天神城へ隠居したが、側室とその兄金子美濃守らにそそのかされて、永禄12年(1569年)正月、朝憲を呼びよせて謀殺。そのため顕泰、平八郎は沼田勢に追われて会津へ逃げた。 平八郎は12年の後、沼田城奪還の兵を挙げて沼田に迫った。真田昌幸は戦っては平八郎に勝てないと知り城中に居た金子美濃守をだました。貪欲な美濃守は己が栄進したいため平八郎に会い武装を解き、こっそり城内に入れて「おまえが城主になれるようにしてやる。」と偽り、城内に誘い入れて殺害した。風雲児の最後はまた哀だった。 時に天正9年(1581年)3月14日(一説は15日)42歳。平八郎の首級は昌幸が実検の後、この石の上に置いた。亡骸は町田町の小沢城址に葬り、沼田大明神として祀ったが首級は此処から亡骸を埋めたところまで飛んで行ったという。 ▲沼田城の堀と鐘楼 ▲沼田城石垣(遺構) ▲沼田城石垣(遺構) ▲沼田城石垣(遺構) ▲本丸御門跡 ▲沼田城本丸堀跡 〜現地解説板より 沼田城二ノ丸(野球場)から本丸(現在の花壇)の間に設けられた堀は、幕府に提出した絵図(正保城絵図)によると、本丸側に唯一石垣が積まれた沼田城で最も規模が大きな堀でした。絵図には堀幅12間(約24m)で本丸に入る櫓門付近の石垣高は3間(約6m)と記されています。奥に見える池がこの堀の名残で、右側の石垣は天守があった真田氏の頃の石垣の一部と考えられています。 平成9年に、この植え込みの中を発掘調査したところ、池の石垣に連なる石垣の一部と堀の中に崩された石や多くの瓦が出土しました。おそらく地中にはさらに北側数十mに渡り石垣の下部が現存し、城が破却された際に埋め立てられたおびただしい瓦や石が埋没していると考えられます。 出土した軒丸瓦は三巴紋で、その周囲を巡る珠点は16個を数え、信州の上田城出土瓦などとの類似性が認められています。 ▲二の丸 野球場が二の丸跡として保存されています。 (沼田城おわり) ●沼田城 〜現地解説板より
沼田城は、天文元年(1532)に三浦系沼田氏一二代万鬼斎顕泰が約3ヶ月の歳月を費やして築いた。当時蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。 築城して48年後の天正8年(1580)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正18年(1590)昌幸の長子信幸が沼田領二万七千石の領主となり、慶長年間に五層の天守閣を建造した。天和元年(1681)に真田氏五代城主伊賀守が徳川幕府に領地を没収され、翌2年1月に沼田城は幕府の命により破壊された。その後、本多氏が旧沼田領一七七ヶ村のうち四六ヶ村・飛地領合わせ四万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。次いで、黒田氏二代、土岐氏一二代の居館となったが、明治になって版籍奉還し屋形も取り壊された。時を経て本丸・二の丸跡が、現在の沼田公園に変貌した。 ●沼田城の歴史 〜現地解説板より 天文元年(1532年)沼田氏12代の沼田顕泰が築城し柳町の幕岩城から移る。 【上杉氏支配】 永禄9年(1566年)顕泰は子の朝憲に城主を譲り、側室とその子平八郎を連れて川場村天神城へ隠居したが、平八郎を城主にしたいため、同12年正月、朝憲を呼びよせて殺した。顕泰・平八郎は沼田勢に追われて会津へ逃走。上杉謙信が柴田右衛門尉を城代にした。 【北条氏〜真田氏支配】 天正6年(1578年)謙信死去。代って小田原の北条氏政・氏直父子が支配。天正8年(1580年)6月、真田昌幸が入城。翌9年3月、平八郎は沼田城奪還のために来攻したが、昌幸の策に乗った金子美濃守に城内で謀殺され、沼田氏滅亡。 【滝川氏城代】 天正10年、織田信長は滝川儀太夫を城代にしたが、6月信長が本能寺で討たれ、滝川は去り、真田の一族矢沢頼綱城代となる。 【真田氏城主】 天正17年(1589年)真田氏北条氏と和し、北条氏の有となったが翌年北条氏が、真田氏の所領名胡桃城を掠奪したため豊臣秀吉は怒って小田原の北条氏を撃滅し、沼田を真田昌幸に与え、昌幸の長子信幸が初代沼田城主となる。元和2年、子の信吉。寛永12年、信吉の長子熊之助。同16年、信吉の弟信政を経て明暦3年(1657年)信吉の庶子伊賀守信直五代城主となる。 【沼田真田氏滅亡】 天和元年(1681年)11月、幕府は悪政を理由に伊賀守を追放、3万石の領地を没収、五層の威容を誇った沼田城は破却された。 【代官時代】 以来5人の代官が在任。 【本多氏】 元禄16年(1703年)本田正永が城を再建、2代正武、3代正矩が城主。 【土岐氏〜明治】 寛保元年(1742年)土岐丹後守頼稔(寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中を歴任)が駿河国田中から移封されて沼田城主となり、以来12代土岐隼人正頼知が、明治2年(1869年)藩籍を奉還するまで、127年間城主であった。 |
上野国(群馬)の城
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2011年9月に登城した群馬県沼田市の沼田城跡です。 断崖絶壁の高台にあるここに五層の天守があったとの事で、 イマジネーションを掻き立てられる城跡でした。 ▲沼田城入口 沼田市街の中にある沼田公園として保存されています。 ▲沼田城「三の丸」について 〜現地解説板より 城(城の敷地全体)には本丸・二の丸・三の丸といったその場所ほとの命名がされており、この場所は江戸時代の「三の丸」にあたります。 「三の丸」は、東西約380m、最大幅約120mあり本丸・二の丸の南側に位置し、当時「侍屋敷」が在ったと考えられています。 ▲三の丸土居堀 ▲本丸 ▲上野国沼田城絵図(部分) 〜現地解説板より この絵図は、江戸幕府3代将軍家光が正保年間(1644〜1647)に、全国の大名に城の防備体制を絵図に描かせて提出させた、いわゆる正保城絵図の一つで、真田氏4代城主信政の時代の沼田城と城下町の様子が分かる非常に貴重な資料です。原図は国立公文書館内閣文庫に所蔵され、大きさは1.76m×2.34mもあります。 絵図には、城を中心として石垣の高さ、堀や土塁の規模、堀中の流水の有無や城下町の道程等兵法上の秘密となるべき事柄が克明に記されています。真田氏が改易になる天和元年(1681)まで存在していた天守や櫓及び城門等の形態を知ることができます。 ▲沼田城天守 〜現地解説板より 沼田城の天守は、真田氏初代城主となった信之(幸)が慶長年間(1596〜1614)に建造したと伝えられ、城絵図や古文書から規模は柱間で9間×10間(推定18m四方)の5重であったとされています。天守は、この右奥に位置していたと考えられますが、幕府に提出したこの絵図によると、天守東の石垣は堀の底から8間もの高さがあり、屋根には千鳥破風(三角形の屋根)が多くみられ、最上階には高欄が巡っていた様子が分かります。関東における5重の天守は江戸城以外は沼田城だけであったことや、天守付近から金箔瓦(金箔を張った瓦)も見つかっていることから、関東において沼田城は特別な城であったと考えられます。 この名城も、残念ながら5代伊賀守が天和元年(1681)に改易となった後に、幕府によって全て破却されて、以後、天守や櫓は再建されることはありませんでした。 沼田城の別称(倉内城・鞍打城・霞城) ▲利根英霊殿 ▲鐘楼 〜現地解説板より 真田氏が沼田城主時代は城内に建てられていたが、廃城により取りこわされた。明治20年ごろ沼田町役場(藩役所跡・現市役所)東北隅に楼を建て、柳町歓楽院の梵鐘を借りて時の鐘にした。十年後に楼を修復した際その鐘を返し平等寺で保存の城鐘を懸け替えた。 以来鐘楼は鐘撞堂と呼ばれ、戦時下にも供出をまぬがれたその鐘の音は、永く市民に親しまれてきた。昭和39年市役所庁舎建設に際し撤去されたが、市民の熱望により城の本丸跡のここに移して復元新築された。 ▲沼田城関係年表 ▲沼田城復元絵図 ▲沼田城跡西櫓台の石垣・石段 〜現地解説板より 天文元年(1532)頃に沼田顕泰によって築かれた沼田(倉内)城は、上杉・武田(真田)・北条氏などの有力大名の狭間にあり、その属城として幾多の変遷をたどってきたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡以降は正式に真田氏の所有する城となった。真田昌幸の嫡男信幸は、初代城主として城郭の大改修を手がけ、慶長年間(1591〜1614)には五重の天守をはじめ各種櫓や門などを建造して近世城郭として整備を行った。しかし、天和元年(1681)に真田氏が改易になると城は壊された。その後、本多・黒田・土岐氏と城主は代わり明治を迎えたが、城の本格的な復興はなされなかった。 発掘調査により発見されたこの石垣や石段は、西櫓台(前方の小高い部分)に伴うものであり、出土した瓦などから真田氏時代の遺構と考えられる。5代城主信利(信澄)の改易により、翌年城は跡形もなく破却されたと云われていたが、壊されずに地中に埋められていた部分が、300年以上を経て再び往時の姿を現したのである。 発掘部分石垣石段(全長27.5m 石垣の高さ0.8〜2.0m 石段の幅2.4m) ▲沼田城御殿桜(樹齢推定400余年) 〜現地解説板より 沼田城の天守閣か、五層の雄姿を誇っていたところに植えられ、今に残っている沼田城形見の名木である。 沼田城は初め蔵内城と称した。約440年前、沼田氏12代の沼田万鬼斎顕泰が、3ヶ年かかって天文元年(1532年)4月完成させ、柳町の幕岩城が引移った。 顕泰は三男朝憲に13代城主を譲り、川場村天神城に隠居したが、後妻の子4男平八郎景義を城主にせんと企て、永禄12年(1569年)正月、朝憲を謀殺、ために沼田氏は築城後37年間にて亡びた。 以来沼田城は上杉謙信、北条氏政、武田勝頼、織田信長、真田昌幸、北条氏直の支配時代を経て、天正18年(1590年)真田信幸が城主となった。信幸の夫人は徳川家康の曽孫=養女=小松姫である。 信幸は関ケ原戦に徳川方につき、戦功により父昌幸の所領上田城主を兼ねたが、慶長9年(1604年)この御殿桜の処に3階建の隅櫓(水の手曲輪門)を築造。ついで慶長12年(1607年)今の利根英霊の処に5層の天守閣を築造(間口10間奥行9間)本丸の外郭に土塀を築くなど、名城を完成させた。 それから77年後の天和元年(1681年)11月、5代城主信直が徳川幕府に沼田領3万石を没収され、城跡は跡形もなく取壊された。 名城は姿を消したが、この御殿桜は400年の風雪に耐え、根は古塁の石垣をしっかり抱き、春ごとに寂寥の色をたたえた花を開き、興亡の歴史を語りつづけている。 (その2に続く) ●沼田城 〜現地解説板より
沼田城は、天文元年(1532)に三浦系沼田氏一二代万鬼斎顕泰が約3ヶ月の歳月を費やして築いた。当時蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。 築城して48年後の天正8年(1580)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正18年(1590)昌幸の長子信幸が沼田領二万七千石の領主となり、慶長年間に五層の天守閣を建造した。天和元年(1681)に真田氏五代城主伊賀守が徳川幕府に領地を没収され、翌2年1月に沼田城は幕府の命により破壊された。その後、本多氏が旧沼田領一七七ヶ村のうち四六ヶ村・飛地領合わせ四万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。次いで、黒田氏二代、土岐氏一二代の居館となったが、明治になって版籍奉還し屋形も取り壊された。時を経て本丸・二の丸跡が、現在の沼田公園に変貌した。 ●沼田城の歴史 〜現地解説板より 天文元年(1532年)沼田氏12代の沼田顕泰が築城し柳町の幕岩城から移る。 【上杉氏支配】 永禄9年(1566年)顕泰は子の朝憲に城主を譲り、側室とその子平八郎を連れて川場村天神城へ隠居したが、平八郎を城主にしたいため、同12年正月、朝憲を呼びよせて殺した。顕泰・平八郎は沼田勢に追われて会津へ逃走。上杉謙信が柴田右衛門尉を城代にした。 【北条氏〜真田氏支配】 天正6年(1578年)謙信死去。代って小田原の北条氏政・氏直父子が支配。天正8年(1580年)6月、真田昌幸が入城。翌9年3月、平八郎は沼田城奪還のために来攻したが、昌幸の策に乗った金子美濃守に城内で謀殺され、沼田氏滅亡。 【滝川氏城代】 天正10年、織田信長は滝川儀太夫を城代にしたが、6月信長が本能寺で討たれ、滝川は去り、真田の一族矢沢頼綱城代となる。 【真田氏城主】 天正17年(1589年)真田氏北条氏と和し、北条氏の有となったが翌年北条氏が、真田氏の所領名胡桃城を掠奪したため豊臣秀吉は怒って小田原の北条氏を撃滅し、沼田を真田昌幸に与え、昌幸の長子信幸が初代沼田城主となる。元和2年、子の信吉。寛永12年、信吉の長子熊之助。同16年、信吉の弟信政を経て明暦3年(1657年)信吉の庶子伊賀守信直五代城主となる。 【沼田真田氏滅亡】 天和元年(1681年)11月、幕府は悪政を理由に伊賀守を追放、3万石の領地を没収、五層の威容を誇った沼田城は破却された。 【代官時代】 以来5人の代官が在任。 【本多氏】 元禄16年(1703年)本田正永が城を再建、2代正武、3代正矩が城主。 【土岐氏〜明治】 寛保元年(1742年)土岐丹後守頼稔(寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中を歴任)が駿河国田中から移封されて沼田城主となり、以来12代土岐隼人正頼知が、明治2年(1869年)藩籍を奉還するまで、127年間城主であった。 |
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(その1からの続き) ▲ささ郭の土囲 ▲ささ郭・遠景 ▲名胡桃城之碑・本郭 ▲本郭 ▲本丸虎口 ▲二の丸跡 ▲二の丸跡 ▲喰違い虎口・二の郭 敵の侵入を欺くための工夫です。 ▲三の丸虎口 ▲馬出郭脇の土塁 ▲赤谷川 向かって左側が名胡桃城 ▲名胡桃城観光案内所 ここにボランティアガイドのおじさんがいます。とても丁寧に解説してくれます。崖、ハチ、ヘビなど危険な箇所が多い場所でもあるので、ガイドをお願いしての見学がおススメです。 (名胡桃城おわり) ●名胡桃城 〜現地解説板より
南に赤城山、北に谷川連峰、東西を山に囲まれたこの利根・沼田地方は、鎌倉時代より戦国時代にかけて沼田氏が支配していた。沼田氏の全盛期には一族や重臣たちを各地に配して勢力の拡大を図った。名胡桃氏・小川氏・石倉氏・川田氏らである。 戦国時代の天文の頃、小田原の北条氏が赤城山を越えて利根に進攻し、沼田氏を追放して利根沼田一帯は北条氏の支配となった。 永禄3年(1560)越後から上杉謙信が三国峠を越えて進出し、名胡桃城をはじめ山城や砦を攻略し、北条氏の城となっていた沼田城を手中にし、更に前橋・武蔵へと進み北条氏と対戦した。 上杉謙信の利根沼田地方の支配は10年余も続いたが、天正6年(1578)謙信が春日山城内で急死すると、北条氏は沼田に侵攻し再び北条氏の支配となった。 謙信の没した翌天正7年から8年にかけて、武田勝頼の命を受けた真田昌幸が信州から吾妻の岩櫃城、利根に入って名胡桃城を始め他の山城や砦を攻略して天正8年念願としていた沼田城を調略した。その後沼田城をめぐって真田氏と北条氏の間で攻防が続いた。 この頃全国統一に向かって歩を固めていた秀吉は北条氏に対して上洛を促していたが、北条氏は上洛の条件として、真田領となっている利根・吾妻の二郡を北条領として欲しいと要求した。秀吉は昌幸に北条の条件を示したが、昌幸は沼田城は渡しても名胡桃は渡すことは出来なと答えた。天正17年(1589)7月利根川の東と赤谷川の左岸を限って北条領、西は真田領と秀吉の裁定が決まった。しかし北条氏の沼田城代となった猪俣邦憲は名胡桃城を不法にも攻略してしまった。 この事件を知った秀吉は激怒し、大名間の私闘を禁じた惣無事命に反するとして、天正17年11月北条氏に対して戦いを宣し、秀吉は全国の大名に命じて小田原攻めを開始した。北条氏は数ヶ月の籠城後天正18年7月5日、秀吉の前に降伏した。5代・100年わたって関東に覇を唱えた北条氏であったが、この名胡桃城事件が直接の原因となって北条氏は滅亡し、100年余続いた戦国時代に終わりを告げた。 ●名胡桃城の築城について この城は利根川・赤谷川の合流地点の南西の右岸の段丘上に築城されている。城の説明図にある般若郭に古い居館の址が発掘によって明らかになり、掘っ建て柱による建物20ヶ所が確認された。この居館址は名胡桃氏の居館であったと推定される。 名胡桃城は天正7年利根に進攻した真田昌幸によって現在の城址に築城されたものである。 平成4年に始まった名胡桃城の発掘調査によって各郭の周囲には2m余の土塁が築かれていることが確認された。この城は真田昌幸が沼田城を攻略する拠点として築いたものであるが、天正18年北条氏の滅亡後廃城となり、長い年月の間には土塁は壊され畑として利用されてきた。 大正13年名胡桃城址保存会が地元の有志によって設立され、本丸址に徳富蘇峰の書になる「名胡桃城址之碑」が建立された。昭和24年12月、県指定となる。 |
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群馬県みなかみ町月夜野の名胡桃城跡です。 ここで1589年に起きた名胡桃城事件がきっかけで、 北条氏は秀吉を激怒させ、その後の小田原攻めの直接の原因となりました。 ▲名胡桃城の郭図 ▲般若郭 今はここが駐車場になっています。 ▲丸馬出し(馬出郭) ▲三の丸堀 ▲三の丸虎口 ▲二の丸堀 ▲本丸堀 ▲本郭からの眺め 沼田城が見えます。 ▲ささ郭の袖曲輪 ▲物見郭 この先は利根川を見下ろす断崖絶壁です。 (その2に続く) ●名胡桃城 〜現地解説板より
南に赤城山、北に谷川連峰、東西を山に囲まれたこの利根・沼田地方は、鎌倉時代より戦国時代にかけて沼田氏が支配していた。沼田氏の全盛期には一族や重臣たちを各地に配して勢力の拡大を図った。名胡桃氏・小川氏・石倉氏・川田氏らである。 戦国時代の天文の頃、小田原の北条氏が赤城山を越えて利根に進攻し、沼田氏を追放して利根沼田一帯は北条氏の支配となった。 永禄3年(1560)越後から上杉謙信が三国峠を越えて進出し、名胡桃城をはじめ山城や砦を攻略し、北条氏の城となっていた沼田城を手中にし、更に前橋・武蔵へと進み北条氏と対戦した。 上杉謙信の利根沼田地方の支配は10年余も続いたが、天正6年(1578)謙信が春日山城内で急死すると、北条氏は沼田に侵攻し再び北条氏の支配となった。 謙信の没した翌天正7年から8年にかけて、武田勝頼の命を受けた真田昌幸が信州から吾妻の岩櫃城、利根に入って名胡桃城を始め他の山城や砦を攻略して天正8年念願としていた沼田城を調略した。その後沼田城をめぐって真田氏と北条氏の間で攻防が続いた。 この頃全国統一に向かって歩を固めていた秀吉は北条氏に対して上洛を促していたが、北条氏は上洛の条件として、真田領となっている利根・吾妻の二郡を北条領として欲しいと要求した。秀吉は昌幸に北条の条件を示したが、昌幸は沼田城は渡しても名胡桃は渡すことは出来なと答えた。天正17年(1589)7月利根川の東と赤谷川の左岸を限って北条領、西は真田領と秀吉の裁定が決まった。しかし北条氏の沼田城代となった猪俣邦憲は名胡桃城を不法にも攻略してしまった。 この事件を知った秀吉は激怒し、大名間の私闘を禁じた惣無事命に反するとして、天正17年11月北条氏に対して戦いを宣し、秀吉は全国の大名に命じて小田原攻めを開始した。北条氏は数ヶ月の籠城後天正18年7月5日、秀吉の前に降伏した。5代・100年わたって関東に覇を唱えた北条氏であったが、この名胡桃城事件が直接の原因となって北条氏は滅亡し、100年余続いた戦国時代に終わりを告げた。 ●名胡桃城の築城について この城は利根川・赤谷川の合流地点の南西の右岸の段丘上に築城されている。城の説明図にある般若郭に古い居館の址が発掘によって明らかになり、掘っ建て柱による建物20ヶ所が確認された。この居館址は名胡桃氏の居館であったと推定される。 名胡桃城は天正7年利根に進攻した真田昌幸によって現在の城址に築城されたものである。 平成4年に始まった名胡桃城の発掘調査によって各郭の周囲には2m余の土塁が築かれていることが確認された。この城は真田昌幸が沼田城を攻略する拠点として築いたものであるが、天正18年北条氏の滅亡後廃城となり、長い年月の間には土塁は壊され畑として利用されてきた。 大正13年名胡桃城址保存会が地元の有志によって設立され、本丸址に徳富蘇峰の書になる「名胡桃城址之碑」が建立された。昭和24年12月、県指定となる。 |
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群馬県高山村にある中山城跡です。 長野から志賀高原、草津を通過し、名胡桃城に向かう途中で見つけました。 中世後北条氏による築城のようです。 名胡桃城と沼田城をゆっくり見たかったため、 あまり時間が取れませんでしたが、知っていたらゆっくり見たかったです。 今回は中に入りませんでしたが、 中に入るには、蛇・ハチは覚悟したほうがよさそうな雰囲気です。 ▲中山城跡の石碑 ちゃんと駐車場完備です。 ▲中山城郭図 ▲三の丸下からの景色 ▲本丸付近の土塁と堀切 ▲西からの遠景 手前が三の丸、奥が本丸です。 ●中山城跡 〜現地解説板より
群馬県史、通史編3、中世は「16世紀に入ると、上野内の築城は第三期を迎え…中世築城の最盛期となる」とし「主な城を挙げると、金山城・箕輪城…長井坂城・中山城…などである」と記している。そして、その築城者は、前記した城は総て後北条氏によるとし、特に、中山城と長井坂城の築城手法は、同じ半折囲郭構造で驚くほど似ている、と指摘している。 その構造は、本丸を北・西・南の三方から囲むような形で二の丸を配置し、堀切と土居で防禦をつくり、二の丸の西にこれを囲むような形に三の丸がつくられていて、要害堅固な城郭をなしているのが付図からもうかがえる。 また、その築城年代については、県教委発行の[群馬県の中世城館跡]によると、北条氏が上野国の主要部を制した後期、天正11年(1583)から14年(1586)と推定されると記している。 |



