人は城 人は石垣 人は堀〜日本100名城を撮る旅日記

日本各所の城や城跡、神社仏閣、古戦場などの歴史探訪記です

下野国(栃木)の城

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勝山城(2011年08月)

栃木県さくら市の勝山城跡です。

数年前、仕事中に通りかかった時に偶然発見して、
やっとじっくり見ることができました。

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▲二の丸北郭

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▲二の丸北郭と本丸の間の空堀

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▲大手付近の空堀と橋脚

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▲大手櫓台 大手に侵入する敵に対しての横矢掛りです。

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▲大手口

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▲本丸

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▲搦手口

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▲二の丸南郭

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▲二の丸南郭から望む鬼怒川

●勝山城跡 〜現地解説板より
 勝山城は、鬼怒川を見下ろす崖端城(断崖を利用して築かれた城)として鎌倉時代末頃に氏家氏によって築かれ、その後慶長2年(1597)の廃城までおよそ300年の歴史を持っています。現在の塩谷町から芳賀町まで広がる氏家郡24郷支配の拠点ですが、また宇都宮氏の配下として北辺を守る役割も果たす重要な場所でした。南北朝期から戦国期を通じては、芳賀駿河守が城主となっています。その間に改修が行われ、城の各所に堅固な設備が見られます。
 現在確認されている城域は、南北450m、東西は北辺で325mあり、段丘先端部の本丸をL字型に二の丸、三の丸が囲む連郭式の縄張り(城の設計をいう)が想定されます。
 本丸は、内径で東西80m、南北70mの方形で一周する土塁は本丸内の高さ3〜5m、堀底からは7〜8mあります。本丸東側の一段低い土塁部分が大手(正面入口で、堀内に四脚の橋が架けられていました。大手北側の櫓台が張り出して横矢掛け(侵入する敵に横から矢を射る施設)の構造を備えています。南西部の搦手(裏側入口、通用門)は土塁の折を利用した横矢掛けの施設と橋があります。

宇都宮城(2010年03月)

江戸時代、日光社参の際に将軍家が宿泊に使用した宇都宮城です。
徳川家康の家臣、本多正純の「釣天井伝説」が残される城跡でもあります。
遺構はほとんどありませんが、本丸の一部が復元されました。

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▲宇都宮城跡の碑 清明館の脇にあります。

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▲宇都宮城本丸の古絵図 資料館にて撮影
資料館のおじちゃんが許可してくれました。丁寧な説明、ありがとうございました。

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▲宇都宮城本丸の模型 資料館にて撮影
赤いラインの左側が復元された場所です。

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▲北側の堀と土塁
復元された宇都宮城本丸の堀は、17世紀前半に掘られたものと考えられています。
古い文献には幅12間(21.8メートル)と記されています。
発掘調査で、堀は最大で幅27メートル、深さは最大7メートルあったことが確認されています。(現地看板より)

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▲清水門跡
宇都宮城本丸正面の出入口が清水門です。
日光社参の時には、将軍もこの門を通って本丸の御成御殿に向かったのです。
清水門の位置・規模は、絵図などに基づいて地面にその位置・規模を示しています。(現地看板より)

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▲清明館から眺める清明櫓

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▲清明館から眺める富士見櫓

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▲清明館脇のヤナギ
見事なヤナギでした。樹齢など全く不明のようです。

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▲伊賀門跡
宇都宮城本丸南側の出入口が伊賀門です。清水門とほぼ同じ規模・構造になっていました。
伊賀門の位置・規模は、絵図などに基づいて地面にその位置・規模を表示しています。(現地看板より)

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▲土橋の石垣跡
これは、三の丸と二の丸をつなぐ土橋の石垣を復元したものです。発掘調査では、土塁が崩れないように大小の石を組んだ石垣が出土しました。
本物の石垣は地下に保存しています。(現地看板より)

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▲富士見櫓
宇都宮城本丸の土塁南西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺きで描かれており、広さ三間(5.9メートル)×四間(7.9メートル)と記録されています。
富士見櫓の名のとおり、まわりに高い建物がなかった江戸時代には、遠く富士山の姿が望めたと考えられます。(現地看板より)

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▲清明台
宇都宮本丸の土塁北西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建ての瓦葺きで描かれており、広さ三間(5.9メートル)×三間半(6.9メートル)と記録されています。清明台のあった部分の土塁は、ほかの部分よりも高く、天守閣の役割を果たしていたのではないかといわれています。広さ三間(5.9メートル)×四間(7.9メートル)と記録されています。広さ三間(5.9メートル)×四間(7.9メートル)と記録されています。(現地看板より)

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▲清明台から眺める本丸

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▲二の丸土塁・堀跡
ここは、近世宇都宮城の二の丸の堀と土塁があった場所です。
二の丸は城主の御殿があった場所で、ここで日常生活や政務が行われていました。
この地点の発掘調査で、少しずつ土を積んではたたきしめ、強固な土塁を築いた様子がよくわかりました。堀の幅ははっきりしていませんが、深さは6mほどでした。(現地看板より)

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▲南駐車場付近からの眺め

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▲城下町宇都宮
宇都宮に城がつくられたのは、平安時代の終わりごろといわれています。しかし、周囲に水をたたえた堀や石垣・土塁を廻らした本格的な城になったのは、江戸時代に入ってからです。特に、計画的に城と周囲の町を整備したのは、1619年(元和5)城主になった本多正純であり、南北900m、東西850mに及ぶ巨大な城郭になりました。
これが、市街地のもとになっています。(資料館看板より)

●宇都宮城〜現地解説板より
ここは、近世宇都宮城の本丸があったところです。
宇都宮城址公園は、歴史資料や発掘調査結果に基づいた本丸の一部復元、中心市街地の活性化の拠点づくり、防災の拠点づくりを3つの柱として整備したもので、復元した土塁や堀、櫓、土塀は、江戸時代中期の姿を現代によみがえらせたものです。
宇都宮城のはじまりは、平安時代の後期に築かれた館だといわれています。中世には宇都宮氏が500年にわたって城主をつとめ、戦乱の世を乗り切っていきます。江戸時代には譜代大名の居城として威容を誇りました。また、釣天井伝説の舞台、関東七名城の一つとしても有名です。
この城址公園は、宇都宮の新しいシンボルであり、次代を担う子どもたちに宇都宮の歴史を伝えるとともに、市民や多くの来訪者の憩いの場です。

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鷲城(2010年01月)

栃木県小山市の鷲城跡です。
同じ小山市内の祗園城と合わせてみるのがお勧めです。

周囲に駐車場が見当たらず、
やむを得ず徒歩5分ほどのコンビニに停めて歩いて行きましたが、
駐車場は参道の中ほどにありました。

参道を車で入って行っても良いようですが、
さすがにこの狭い鳥居を車でくぐるには抵抗があります。

堀や土塁、櫓跡などの遺構が遺されていて、
なかなか見応えがある城跡です。

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▲入り口の城郭図 上が南になります。

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▲鷲城入り口

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▲虎口

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▲土塁・堀跡

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▲鷲神社

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▲横矢

●鷲城】〜現地案内看板より
康歴2年(1380)から永徳元年(1382)にかけて小山氏10代の義政は、3次にわたって関東公方(足利将軍家の分家)足利氏満の軍勢と戦いました。「小山義政の乱」と言います。
この乱の原因は、勢力を拡大した小山義政を抑圧しようとする氏満の策謀があったとされ、その指令を受けた関東各地の武士たちが、小山に攻め寄せました。最初の蜂起で館(神鳥谷の曲輪か)を攻められた義政は、二度目の蜂起となる康歴3年には鷲城に立て籠もって戦います。しかし義政は結局敗れ、その翌年粕尾(粟野町)で自殺しました。
鷲城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害で、東西約400m、南北約600mで、中城と外城との二つの郭からなり、当時としては広大な城郭でした。中城の空堀・土塁が明瞭に残存し、鷲城の名の由来となった鷲神社が鎮座しています。南北朝時代の城郭がこれほどよく遺存し、関連する文献資料が多数伝来しているのはきわめて稀な例で、貴重な史跡と言えるでしょう。

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祗園城(2010年01月)

栃木県小山市の祗園城です。

小山市にはいくつかの城跡が遺されていますが、
その中のひとつである“小山城”の事を“祗園城”と言います。

上杉攻めのために北へ向かっていた徳川軍は、
この小山の地で西から石田軍が兵を挙げた事を知り、
秀忠を始めとする家臣たちとこの小山で評定を開き、
そして兵を西へと向けることになります。
この後、関ヶ原の合戦となったのでした。

祗園城は城山公園として整備保存され、
曲輪や空堀、馬出しなどが遺されています。

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▲祗園城曲輪図

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▲正面入り口

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▲本丸附近の様子

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▲本丸から見下ろす思川

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▲馬出し

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▲公孫樹
小山市指定文化財の大イチョウ。公孫樹はイチョウの漢名だそうです。落城の折、姫君が井戸に身を投げた際、目印に刺した銀杏が大きくなったという言い伝えがある。

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▲祗園橋と空堀(旧結城道)

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▲北側の空堀

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▲北側駐車場付近の土塁と空堀

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▲思川

●祗園城(小山城)〜現地解説板より
平安時代に藤原秀郷が築いたという伝承もありますが、正確な築城年代は不明で、記録に見えるのは14世紀後半のころからです。この城を築いたとき、城守りの神として祗園社(現在の須賀神社)をまつったことから、祗園城と呼ばれるようになったと伝えられています。
西に思川をひかえた丘陵を利用して築かれ、築城されたことは現在の城山公園程度の規模と思われ、小山氏の本拠となったのは15世紀になってからのことでしょう。戦国の動乱にさいして、小山氏は越後の上杉氏や小田原の北条氏といった有力な戦国大名に攻略され、天正3年(1575)北条氏照によって祗園城は陥落、小山秀綱は追放されました。その後氏照が大規模に拡張・整備を行ったと思われます。
やがて北条氏も滅亡し、江戸幕府成立後本多正純が3万石で城主となり、最終的な縄張りを完成させ、東西約400m、南北約700mにおよぶ城郭となりました。この正純も元和5年(1619)宇都宮へ転封となり、祗園城は廃城となりました。


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唐沢山城(2009年11月)

2009年11月に行ってきた栃木県佐野市の唐沢山城です。
http://www.karasawayama.com/index.html

紅葉がとにかく素晴らしかったです。


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▲唐沢山城址の紅葉1

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▲唐沢山城址の紅葉2

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▲唐沢山城址の紅葉3

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▲唐沢山城遠景

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▲天狗岩 〜現地案内板より
物見櫓のあったとこで南面に出た岩がちょど天狗の鼻の様であったためこの名がある。

なお、天狗岩のたもとが大手で枡形になっていました。

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▲唐澤山城址の案内図
かなり広い山城です。北城方面および根小屋神社方面は行けてません。

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▲大炊の井 〜現地案内板より
築城のさい厳島大明神に祈請をしその悪霊により掘ると水がこんこんと湧き出たとのことである深さ9米直径8米あり今日まで水がかれたことがない。

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▲神橋 〜現地案内板より
旧名曳橋といい四ツ目堀堀切に架けられた吊橋にて架撤自在のものなりと伝えられる。大正15年皇太子殿下御成婚記念として地元高齢者の寄進による。

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▲四つ目堀 〜現地案内板より
神橋の下の堀をいう。水のない「から堀」で当時もっと深かったと思われる。なお神橋も当時は外敵にそなえ使わない時は引きあげてしまう曳橋であった。

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▲さくらの馬場 〜現地案内板より
昔武士が馬を訓練した処でさくらが多いところからこの名がある。

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▲唐沢山神社への参道の様子

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▲南城跡 〜現地案内板より
本丸より南方向にある所から南城と呼ばれる。城はいくつかの曲輪(一定の地域を限り、その周囲と区別する為に設けた囲い)により構成されています。その呼び名には一般的に人名、方向等によって呼ばれることが多い。この南城跡は南北18m、東西36mあり、周囲は石垣をめぐらし東側には堀を設けてあります。
天気のよい時には、ここから東京の高層ビルが眺められます。

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▲引局跡

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▲神社の門に映えるもみじ

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▲唐沢山神社 〜現地案内板より
当神社は御祭神秀郷公により平安時代中頃に築城された本丸跡に建てられております。「むかで退治」の伝説や「天慶の乱」の鎮定等から武勇に勝れていたことが知られています。又この乱の鎮定の功により鎮守府将軍に任ぜられました。その後七百年の間多少の変遷はありましたが江戸時代初期の山城禁止令により廃城となりました。明治16年一族旧臣等が公の遺徳を偲び唐沢山神社を建てました。

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▲二の丸跡 〜現地案内板より
奥御殿直番の詰所のあったところで武者詰ともいわれた。

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▲二の丸址から望む本丸 石垣がしっかり残されていて見応えあります。

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▲三の丸跡 〜現地案内板より
賓客の応接間のあったところ

●唐澤山城 〜現地案内板より
唐澤山城は、佐野市の北、高さ240メートルの山全体をいい、往時の広さ550町歩といわれ、周囲を急崖にかこまれ、眺望は、関東平野を一望に、遠く北より日光連山、西に群馬連山、秩父、南アルプス、秀峰冨士、東に筑波と、まことに自然の要塞である。
当社御祭神(藤原)秀郷公により1千年前の延長年間築城とされ、公はこの城を中心に、天慶の乱を鎮定し大功をたてられ、その功により鎮守府将軍として、関東はもとより奥州方面にまで威勢を張られた。その後700年間多少の変遷はあったが、公の子孫佐野家代々の居城として16世紀中ごろに現在の形を整えたとされている。関東7名城の1つに数えられ、中世山城の典型としての旧態をよく今に残し、代々の変遷の跡も見られ近世初期にまで下る整備の跡もうかがわれる。
江戸初期、山城禁止令により、佐野市の城山公園の地に城換となって、唐澤山城の歴史が終わるが、明治になり唐澤山神社が建てられると全山境内地となり、県立自然公園にも指定され四季折々の風景の中に、秀郷公以来の歴史が偲ばれる。

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