人は城 人は石垣 人は堀〜日本100名城を撮る旅日記

日本各所の城や城跡、神社仏閣、古戦場などの歴史探訪記です

尾張国(愛知)の城

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那古屋城(2009年12月)

名古屋城ではなく、那古屋城です。

織田信長が幼少期を過ごしたと言われる城が那古屋城で、
今の名古屋城の二の丸跡にあります。

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▲那古屋城石碑 石碑に「那古」の文字が残っています。

●那古屋城 〜現地解説板より
 大永(1521〜28)の初め、今川氏親が名古屋台地西北端に築いたもので、一名「柳の丸」といった。
 氏親は、一族の氏豊を城主として守らせていたが、天文元年(1532)織田信秀のために城を奪われた。その後信秀が居城し、天文3年信長はここで生まれたといわれる。
 同年、信秀は古渡城に、また、弘治元年(1555)信長も清須に移り、一族の信光が居城したが、やがて廃城となった。
 慶長15年(1610)名古屋城築城の際、二の丸の一部となった。


清洲城(2009年12月)

愛知県清須市の清洲城です。
2009年12月に行ってきました。

清洲城は、いわば織田信長の事業発祥の地です。

本丸跡と再現天守閣が建てられている場所は別の場所です。
再現天守閣のほうがランドマーク化しているので目立ちますが、
遺構のほとんどは駅側、本丸跡の周辺に残っているようです。

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▲清洲城跡の碑

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▲清洲城跡の風景
●清洲城の概要 〜現地解説板より
清洲城の始まりは、足利政権の尾張守護であった斯波義重が守護所下津城(現稲沢市)の別郭として鎌倉街道と伊勢街道が合流する要衝の清洲に築城されたと伝えられています。その後、文明8(1476)年に守護所下津城が戦乱で消失して以降、守護所は清洲城に移ったとされています。
この時期には尾張国は守護代の織田氏が力を持つようになり、岩倉の織田氏が尾張の上四郡を、清洲の織田氏が下四郡を分割支配しました。清洲織田家当主信友が守護斯波義統を殺害したのをきっかけに、弘治元(1555)年、那古屋城にあった織田信長は、清洲城を攻め信友を討ち、清洲城に入城し、尾張支配の本拠地とします。永禄3(1560)年に桶狭間の戦いに勝利するなど信長は近隣の大名を次々に倒し、着々と天下統一へ歩みを進めますが天正10(1582)年本能寺の変により雄図半ばで、その夢は断たれます。
信長没後、天正10(1582)年の清洲会議の後は信長の次男信雄が尾張、伊勢、伊賀の領主となります。当初は伊勢長島に居城を構えていましたが、天正地震、木曽川洪水等を契機に本拠を清洲城に移します。この頃、清洲城は大改修が行われたと推測され、天守、居館始め門塀、三重の堀等を築き城郭の規模も東西1.6km南北2.8kmもあったといわれています。
信雄以降、豊臣秀次・福島正則・松平忠吉・徳川義直という錚々たる武将が清洲城主となりましたが、慶長15(1610)年、徳川家康は清洲廃都、名古屋遷都を指令し、三年後には「清洲越し」が完了し、当時の歌として「思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野となろう」が残っています。清洲越しにより清洲城は廃城となり、石垣、橋、武家屋敷などの古材は名古屋城築城に利用され、名古屋城の西北隅櫓(清洲櫓)は清洲城を移築したとも伝えられています。

●再建清洲城 〜現地解説板より
平成元(1989)年「美しい歴史のまちづくり」をめざした清洲町の町制百周年記念事業として、16世紀の戦国の世の郷土の英雄、織田信長公の居城として、かつて「東海の巨鎮」、「天下の名城」と称えられた清洲城を再建しました。
この清洲城は、日本古来の城郭様式を随所に取り入れ再建されました。城郭の周囲には古い様式の石積みや漆喰塀、大手門の両側には信長塀、大小の自然石を野面積みで構築した石垣、更に本瓦葺三層四階望楼付の天守閣がそびえます。

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▲清洲城の石垣(復元) 〜現地解説板より
復元された本石垣は、平成8年に河川事業に伴い実施された遺跡調査により、清洲公園前の五条川右岸(現地は下流200mに銘板で標示)で発見されたもので、清洲越直前の本丸南側の石垣と考えられる。
石垣の基礎は、軟弱な地盤に耐えられる様に松材を用いた「梯子胴木」と呼ばれる構造になっており、石材はこの基礎の上に「野面積み」と呼ばれる戦国時代にかけて用いられた技法により積まれている。

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▲大手橋から望む清洲城天守閣(復元)
天守閣が建てられている場所は、清洲城跡から川を渡った向う側にあります。

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▲再現天守閣

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▲裏門下から望む清洲城天守閣(復元) プラモデルのようです。

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▲清洲城天守閣から見える名古屋城

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▲信長塀 〜現地解説板より
永禄3年(1560)織田信長公が桶狭間へ出陣の途中熱田神宮に戦勝を祈願し、大勝したのでそのお礼に奉納された塀をモデルにしたものです。

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▲濃姫の像
とても分かりにくい場所にありましたが発見しました!
濃姫は信長に生涯付き添った正室。本能寺の変では悲劇の死を遂げました。

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▲織田信長像
線路の下をくぐって清洲公園の反対側へ行くと、寂しそうに立っていました。
清洲城の案内のおじさんが教えてくれたので分かりましたが、教えてもらわなかったら完璧に見落としてました。

●清洲城と歴代城主 〜現地解説板より
清洲城は当初、尾張守護所の下津城の別郭として築城されました。
その後、下津城が戦乱で消失したため文明8年(1476)に守護所が清洲城へ移されたとされています。
戦国の頃、尾張国は守護代の織田氏が実権を握っていました。尾張の上四郡を支配していた岩倉の織田氏と下四郡を支配していた清洲の織田氏が争うなかで、清洲織田家当主の信友を那古屋城主織田信長公は攻め滅ぼして清洲城に入城し、尾張の拠点としました。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元の軍勢を打ち破ったのを手始めに、美濃・近江等の近隣の国々を攻略して着々と天下統一へと歩みを進めていきました。
しかし、天正10年(1582)の本能寺の変によりその志は夢半ばで断たれてしまいました。このように天下統一の礎を築いた織田信長公は郷土の英雄として人々の尊敬を集めています。
清洲城は、「関東の巨鎮」と称えられ、尾張はもとより東国の中心地として発展を遂げました。信長の長男の信忠、二男の信雄以降は名だたる武将が城主となりました。
徳川義直の代の慶長15年(1610)徳川家康は、清洲城の廃都と名古屋遷都を命じ、3年後には、「清須越し」が完了しました。
清洲城は廃城となり、城下町から、美濃路の宿場町へと姿をかえていきました。

 清洲城歴代城主
 1.織田信長 2.織田信忠 3.織田信雄 4.豊臣秀次
 5.福島正則 6.松平忠吉 7.徳川義直

清洲町が町制百周年を迎えた平成元年4月、清洲のふれあい郷土館として清洲城天主閣を再建しました。
平成17年7月に、西枇杷島町、清洲町、新川町が合併し清須市となった後も、清須市のシンボルとして人々に親しまれています。

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