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2011年8月に行ってきた猪鼻城、いわゆる千葉城です。 猪鼻山に立つ天守閣はとても見栄えしますが、これは博物館です。 実際にあったのは天守閣ではなく居館です。 ▲千葉常胤像 良いアングルで撮れました。 ▲模擬天守の博物館 小田原城を模したようです。 ▲神明社 本丸から北西の位置にあります。 ▲猪鼻城石碑 神明社の境内にあります。 ▲お茶の水 〜現地解説板より 治承の昔千葉常胤卿源頼朝公を居城亥鼻山に迎へし時此の水を以て茶を侑む公深く之を賞味せりと傳ふ 爾来お茶の水と稱し星霜八百年清水滾々として今に渇きず ●猪鼻城 〜現地解説板より
千葉氏は、桓武天皇の曾孫高望王の子平良文を祖とした関東の名族で、良文の子孫である千葉介常重は、大治元年(1126)6月、土気の大椎より千葉に移住しました。 この時、常重は千葉の猪鼻山に居館(千葉城)を構築し、城下町を建設しました。その後、千葉氏は13代330年間、この地を治めましたが、その本拠地となった千葉の町は房総の文化の中心として栄え、関東では鎌倉につぐ繁栄を誇りました。 後に、城は一族の内紛により廃されましたが、昭和42年4月に千葉市は、古い歴史と伝統を伝えるシンボルとして千葉氏の城跡に天守閣(郷土博物館)をつくり博物館として市民の利用に供しています。 ●千葉常胤と猪鼻城跡 〜現地解説板より
千葉常胤は、源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉幕府樹立に大きな手柄をたてました。幕府成立後、千葉氏は下総第一の豪族に成長。中世千葉の城下は、千葉氏の居城猪鼻城を中心に栄えました。 現在、城跡には市立郷土博物館、県文化会館、県立中央図書館などがあり、『文化の森』として親しまれています。 |
下総国(千葉)の城
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千葉県流山市の前ヶ崎城跡です。 堀、土塁、郭などが保存されています。 虎口跡や櫓跡などの位置は入り口看板に示されていますが、 入り口以外には看板がないので、印刷して持って歩きたいほどでした。 南東側の遺構は見忘れてしまいました。 ▲北側からの遠景 ▲主郭部想定図 ▲入り口 ▲虎口跡 ▲櫓跡 ▲櫓跡の石碑 ▲南側の土塁 ▲東側の土塁 ●前ヶ崎城〜現地解説板より
前ヶ崎城は16世紀半ばから1590(天正18)年頃まで、松戸市小金城を本拠とする高城氏の支城として機能したと考えられます。 西・北・東側の三方を坂川とその支谷に囲まれた、標高16mの細長い台地上に立地し、水田面とは11mの比高があります。現在地から南160mと350mの二箇所に、かつて堀切りが存在したといわれており、このことから3つの郭を直線状に配置した城と想定されます。付近には刑部郭・追手橋・馬場といった地名も伝承されていますが、城の施設と直接関連するかは不明です。 公園として整備した範囲は城の中心となる主郭の部分で、西側は過去の道路建設によって失われていますが、東・南側には高さ3m〜4mの土塁が、東側の一部と南側には深さ約3mの空堀が見られます。また、南サブエントランスは以前から土塁が途切れており、この部分を郭の出入口である虎口に、その西側の最も高い土塁を櫓跡とする考えもありますが、郭の構造や建物配置は明らかになっていません。 |
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城ブログ、ひさびさ過ぎる更新です。 趣味が滞るのもストレスになるもんですね。 オンとオフの両方をしっかり充実させていきたいです。 さて、千葉県流山市の花輪城跡です。 城址公園として残されています。 公園内に堀や土塁が残されていますが、 北側の墓地に使用されている部分にも及ぶ、 比較的大きな城郭だった事が伺えます。 解説用の看板がいくつか立てられていましたが、 表面のコーティングが不十分なのか、 おそらく雑巾で拭きとられた痕でしょう、 ほぼ完全に消えてしまっていたのが残念でした。 ●花輪城〜現地解説板より
花輪城は、市内では深井城・前ヶ崎城・名都借城とともに存在した、中世城郭の一つです。16世紀戦国期に松戸市小金の大谷口城を本拠地として、周辺一帯を支配していた高城氏に属する城でした。北を除く三方を急な斜面に囲まれた細長い台地は、天然の要害と言えます。発掘調査により、郭が連続する城郭形態(直線連郭式)の一部が明らかになりました。花輪城は高城氏が滅亡した16世紀末には、その役割を終えたと考えられています。 琵琶首観音堂は、かつて県道付近に本堂があった、真言宗西福寺境内の観音堂です。解体前に行われた調査によれば、17世紀前半の建築様式を持つものであることがわかりました。茅葺ながらも三間堂であり、その規模や内部の装飾は当地の経済性の高さを推測させるものです。地域の信仰を集めた本尊は、「朝寝坊の観音」と呼ばれる等身大の観世音菩薩立像(天文8年銘 1533年)で、現在は市内桐ヶ谷の西栄寺に安置されています。 公園内に保存整備された、花輪城の空堀と観音堂の基壇・礎石が、当地の長い歴史を物語っています。 |
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2010年1月に行ってきた千葉県野田市の関宿城です。 利根川と江戸川の分流地点にあたる関宿の地は、 近世から近代にかけて利根川水運の中継地として栄えた地であり、 また一方で、洪水と治水との戦いが繰り広げられた地でもあります。 現在の利根川は銚子方面から太平洋へ流れ込んでいますが、 江戸時代までの利根川は東京湾に流れ込んでいました。 江戸時代の治水の歴史を、 関宿城博物館で学ぶ事ができます。 ▲諸国当城之図下総国関宿(江戸後期) ▲関宿城模擬天守 本丸があった場所から旧逆川を渡った向う側の位置になります。 中は博物館となっていて、利根川治水の歴史を学ぶ事ができます。 ▲北側の庭園から眺めた模擬天守 江戸城の富士見櫓を模しています。なかなかの見応えです。 ▲関宿城跡の石碑 模擬天守から土手沿いの南方にある本丸跡にあります。 ▲本丸跡から模擬天守を望む ▲大手門付近の外堀・土塁跡 本丸跡からさらに南方の位置にあります。 ここに立っている小さな看板が、古地図や発掘写真など情報満載です。 関宿関所跡 ●関宿城 〜現地解説板より
関宿城の歴史はおよそ長禄元年(1457)簗田満助の手によって、茨城県総和町水海より現在の地に築城されたのが始まりと云われている。当時は城といっても平屋の建物が配置されているだけであった。 簗田氏の支配は満助から持助まで6代続いていたが、やがて関宿も戦国の動乱に巻き込まれ、北条氏との激しい戦いののちに、ついに北条氏の手に落ちてしまう。その後すぐ豊臣・徳川連合軍の関東攻めにあい、北条氏が守る関宿城は連合軍の手に落ち、天正18年(1590)徳川家康関東入封の折、家康の実弟である松平康元が関宿城に二万石にて入城する。以後城主は、松平、小笠原、北条、牧野、板倉、久世、牧野、久世と城主が交代したが宝栄2年(1705)久世重之以後明治に至るまで関宿は代々久世氏の治める領地となった。 明治2年(1869)藩籍奉還後、関宿城の所管は明治政府の手に移り、同5年にはその所管が政府から陸軍省へ移され廃城と決定され、同8年また城の所管が陸軍省から再び政府に移動したのをきっかけに、親藩・譜代七家23人の大名を輩出した関宿城は同年末までに全て破却されるに至った。 現在城跡として残っているのは全体の一部で、約3分の2は、明治以後何回となく繰り返されてきた河川改修により、堤防の下に埋もれてしまっているが、当時の城の大きさは本丸、二の丸、三の丸部分だけでも約6000坪あったといわれている。 |
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