人は城 人は石垣 人は堀〜日本100名城を撮る旅日記

日本各所の城や城跡、神社仏閣、古戦場などの歴史探訪記です

越中国(富山)の城

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古国府城(2010年05月)

2010年5月に行ってきた古国府城跡(富山県高岡市)です。

城跡は現在、勝興寺として保存されています。
神保氏、佐々氏、前田氏などの歴史を見る事ができます。

境内のほとんどの建築物が重要文化財に指定されているのは驚きでした。
残念ながら半分くらいの建物は改修工事中で見られませんでした。

周囲の堀や土塁の保存状態も非常によく、ありがたい事です。
改修工事が終わったらまた見に行きたいですね。
(ちょっと遠いのですが…)

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▲重要文化財・鼓堂 総門をくぐるとすぐ見える建物です。

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▲重要文化財・勝興寺唐門 〜現地解説板より
この唐門は、「取調書」(勝興寺蔵明治29年・再調)には明治26年に建築されたと記録されている。
一方で京都「興正寺」の唐門を買い受け北前船で運び現在地に移築したという伝承もあった。
このように唐門の建築年代や由来等については従来は不明であったが、その構造や意匠が勝興寺の他の建造物群とは異質であるとの指摘もかねてよりなされていたところ、近年の調査により建築年代と由来等が判明した。
昨年の調査で寺務所より発見された棟札と本堂床下に放置されていた旧獅子口の篦書きにより、明和6年(1769)に京都「興正寺」で建築されたことが確認された。
また、小屋裏等には移築された痕跡が明瞭に残っていたことにより明治年代に勝興寺に移されたことも推定された。
この門は、銅板葺切妻造屋根の前後を唐破風造で通した「前後唐破風造」という全国的にもあまり類例のない形式をとり全体的には木太い均整のとれた建物で、牡丹唐草の腰欄間や雲波龍の欄間あるいは、妻飾りの太瓶束の笈形等の各所にもちいられた絵様や彫刻は時代の特徴をよくあらわしている。

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▲重要文化財・勝興寺本堂 〜現地解説板より
構造・形式…桁行11間・梁間11間・入母屋造
この本堂は、前田家11代藩主治脩の援助によって寛政7年(1795)に建てられた。
治脩は、6代藩主吉徳の八男で、延享3年(1746)勝興寺に入寺し、明和6年(1769)還俗して藩主を継いだ。
勝興寺本堂の平面、構造、形式、細部意匠は、京都の西本願寺本堂(1760年建築・重文)を範例にして建てられており、県内はもとより我が国の浄土真宗寺院本堂遺構のうちでも破格の規模と形式を備えた建物である。
また、真宗寺院は、江戸時代中期以降、建て替えに伴い規模を拡大し、内部を荘厳化する傾向が見られるがこの本堂はそれを顕著に示している。
堂の主要部は、桁行、梁間ともに9間で、梁間を前方6間、後方3間に区分し、外陣、内陣とする。外陣は2間の「矢来」と4間の外陣に分け、内陣は外陣より1段高くし、中央の3間を「御内陣」その左右3間ずつを「余間」とし、余間の外を「飛檐の間」「さやの間」とする。このような間取りは真宗本堂の大型例の典型である。

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▲重要文化財・経堂

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▲案内図 殿舎群のほとんどが改修工事中。残念でした…。

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▲空堀

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▲土塁

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▲土塁と空堀

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▲実ならずの銀杏

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▲三葉の松

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▲水の涸れない池

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▲天から降った石 小石で叩くとカーンと響く不思議な石です。

●勝興寺の歴史と宝物 〜現地看板より
文明3年(1471)本願寺八世蓮如が北陸布教の途中、砺波郡土山(現在の福光町土山)に一寺を建て土山御坊と称した。これが勝興寺の前身である。
明応3年(1494)に砺波郡高木場(福光町高窪)、永正16年(1519)砺波郡末友安養寺村(小矢部市末友)へと移転し、それに伴い勢力を拡張し、井波の瑞泉寺とともに一向一揆の中心として活躍した。
天正9年(1581)に木舟城主石黒左近によって諸堂舎を焼かれた勝興寺は、天正12年(1584)に佐々成政を介して神保氏張より現地古国府の地の寄進を受け翌年、越中に入った前田利長も制札を与え安堵した。
この頃より勝興寺は加賀藩および本山と密接なつながりをもつようになる。第13代昭見の室は本願寺准如の女、第14代円周は准如の男、その室は加賀藩3代藩主利常の養女、第18代闡真は6代藩主吉徳の八男で後に還俗して11代藩主を襲封し治脩の養女、21代は本如の男等々である。
このような勝興寺の格式や来歴を物語るものとして数多くの寺宝がある。武田信玄、浅井長政、豊臣秀吉、佐々正成、神保氏張等の文書、蓮如、顕如等の筆跡や文書は一揆活動華やかりし頃の好資料である。
絵画、工芸品は縁組みの際持参された大名道具、公家調度品であり、洛中洛外の図、日月の図屏風を始め絢爛豪華な美術工芸品は往時の権勢の程を示す。
これ等の寺宝のうち、「紙本金地著色洛中洛外図六曲屏風」が重要文化財に、工芸品28点、絵画・彫刻15点、書跡13点、古文書180点が富山県文化財に指定されている。

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富山城(2010年05月)

2010年5月に行ってきた富山城です。

整備工事中でしたが見所は見る事ができました。
工事完成が楽しみです。

博物館も営業していましたが、体調不良で残念ながら断念…。

戦国時代は佐々成政の居城として、
江戸時代には富山前田家の居城として富山藩政の中心であった城です。

100名城には入っていませんが、十分見応えのある遺構でした。

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▲二の丸からの眺め

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▲本丸への土橋と鐡御門跡

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▲水濠に映える模擬天守

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▲富山城址案内図

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▲二の丸付近からの眺め

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▲富山藩第二代藩主・前田正甫像 〜現地解説板より
富山藩第二代藩主。初代藩主である父利次の後をうけ、文武の振興を図り、新田開発や産業育成など、藩政の充実に力を注ぎました。正甫本人は古銭収集家という文化人としての性格も知られています。正甫は富山売薬の基礎を築いた人物としても有名です。それは「反魂丹伝説」という形で語り継がれています。元禄3(1690)年、正甫が参勤交代で江戸城に登城した折、とある大名が激しい腹痛を訴えました。そこで懐中に常備していた「反魂丹」をすすめたところ、たちどころに治りました。その様子をみた諸大名は「反魂丹」の効能に驚き、自分の領内での販売を求めるようになったため、正甫の命で諸国に行商させたのが富山売薬の始まりであるという伝説です。この伝説により、正甫は「富山売薬を広めたお殿様」として、いまでも市民の間から親しまれているのです。
この正甫像は、昭和29(1954)年に建てられました。原型は佐々木大樹、鋳造は高岡鋳芸社によるもので、台石を合わせて高さ約10mに及びます。

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▲千歳桜の碑石 〜現地解説板より
江戸時代、富山十代藩主前田利保が藩主の座を第六子利友にゆずったあと嘉永二年(1849年)5月28日新しく東出丸(現在の桜木町一帯)に千歳御殿を築城した。
利保は千歳御殿に移り、桜を多く植えて風致を添えたので千歳桜といった。
後代、桜が老化したので昭和9年風雅会が35周年を記念してこの碑を建て新しく松川の堤に桜の植樹をおこなったので県下でも有数の桜の名所になっている。
〜松川のまつのちとせをその名にてつつみのさくらとはにかをらむ〜田村直喜

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▲千歳御門

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▲武者走り

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▲鉄御門付近の石垣

●富山城 〜現地解説板より
昭和29年、富山城址一帯で富山産業大博覧会が開催されました。これは昭和20年8月2日未明の空襲によって、壊滅的な被害を受けた富山市街の復興事業完了を機に開催されたものです。その際、記念の恒久建築物として建設されたのが富山市郷土博物館(富山城)です。旧本丸鉄門跡の石垣上に建てられた、鉄筋コンクリート造りの建物で、望楼を乗せた三重四階の天守、二重二階の小天守など、城郭の意匠でまとめられて設計されており、戦後の天守閣建設のさきがけとなりました。博覧会の会期中は、「美の殿堂」として各種の展覧会が開催され、最上階からは富山市街のみならず立山連峰が一望できたため、多くの人で賑わいました。
会期終了後は郷土博物館として活用され、郷土のことを紹介する中心的な博物館であるとともに、中心市街地のランドマークとして広く市民に親しまれています。
平成15年からは約2年をかけて耐震改修工事を行うとともに、内装を一新し、より多くの人々が訪れやすいよう整備が行われました。
建設から半世紀を経た本建物は、富山市のシンボルとして、また、戦災復興期を代表する建築物として、平成16年に国の登録文化財として登録されました。

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阿尾城(2010年05月)

高岡城に引き続き富山の城です。
富山湾に面した阿尾城跡です。

小さな城跡ですが、内部の通路は意外に危険で、
登山用の靴で行ってもいいほどです。

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▲入り口の地図看板

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▲阿尾城入口

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▲阿尾城上空写真 現地看板より

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▲榊葉乎布神社

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▲白峰社

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▲伝二の丸

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▲白峰社旧本殿跡
白峰社の裏手を入って行く道が本丸への道です。

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▲本丸までの道は両側が崖の細い道
道がぬかっていたり、風の強い日はホントに危険です。

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▲伝本丸

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▲伝本丸展望台からの眺め

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▲二の丸からの眺め 左の絶壁が本丸下の城ヶ崎

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▲阿尾城遠景


●阿尾城 〜現地解説板より
阿尾城跡は富山湾に面した標高20〜40メートルの独立丘陵上に立地し、その独特の景観とともに市民に親しまれている史跡である。
発掘調査では伝二の丸・伝三の丸から中世の土器・陶磁器類が多数出土した。また伝本丸には櫓があったと伝えられ、ここで海上交通を監視していたと思われる。
築城の時期は不明であるが、出土遺物からは15世紀後半頃に城としての利用が始まったと推定できる。
天正・文禄年間(1573〜1596)頃には菊池右衛門入道・十六郎父子が居城した。菊池氏は織田信長配下の佐々成政に従ったが、成政と前田利家が対立すると前田方へと寝返り、一万石を安堵された。しかし慶長初め(1597頃)には廃城となり、菊池氏の子孫は加賀藩士となった。

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