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2011年9月に行った長野市の川中島古戦場です。 ▲川中島大合戦図 ▲八幡社入口 ▲八幡社御由緒 〜現地解説板より 鎮座地 長野市小島田町字新田1362番地1 御祭神 誉田別尊 建御名方命 御由緒 祭神の誉田別尊は第15代応神天皇の諱で神功皇后を母とし在位41年に亘り大陸の文化を積極的にとり入れられ、古代日本の文化の向上、国家の発展に尽くされた御功績が仰がれ皇室の崇拝する神であるばかりでなく源氏一族をはじめ武人の神、弓矢八幡と称して全国各地へ勧請され、開拓の守護神、農耕神としても信仰されました。 当社においても平安中期、源頭清が信濃の国に流された時、この地を訪れ広大な景勝の原野に武運長久を祈り八幡大神(誉田別尊)をご神木の大欅に包まれる鞘堂内のご神殿に祀られたことから、この広原一帯を八幡原と名づけました。 川中島合戦で破壊された神殿を信玄は、高坂弾正に命じて社殿を再建させ、その後松代藩真田家が明治維新まで代々祭祀、修繕の管理運営をされました。 現在は明治41年に建御名方命(諏訪大社の祭神)が合祀され、その御神徳は、必勝、厄除、交通安全、安産、育児などであります。 ▲執念の石 〜現地解説板より 武田・上杉両軍三万余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭原大隅が、傍らにあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信をめがけて、ひと槍突きだした。苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三頭をしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上ってその場を狂奔し去ったため、信玄は危く虎口を免れることができた。一方謙信を取り逃し、無念やるかたない原大隅は、傍にあったこの石を槍で突き通したといわれる。 ▲逆槐 〜現地解説板より 山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄4年(1561)9月9日夜、ここ八幡原に上杉軍挟撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をめぐらして本陣をおいた。このとき土塁の土どめに自生の槐の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後約4百年を経てこの巨木に成長したものと伝えられる。 周囲に低い土塁のあとが見えるのは、信玄本陣を示す枡形陣形跡である。 ▲三太刀七太刀之跡 〜現地解説板より 永禄4年(1561)9月10日、ここ八幡原を中心に上杉、武田両軍三万余の壮絶な死闘が展開された。上杉謙信は紺糸縅の鎧に萌黄緞子の胴肩衣、金の星兜に立烏帽子白妙の練絹で行人包、長光の太刀を抜き放ち、名馬放生に跨がり戦況の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのをみ、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。この時の武田信玄は諏訪法性の兜、黒糸縅の鎧の上に緋の法衣、軍配を右手にもち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していた。この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。 ▲首塚 〜現地解説板より この塚は以前は屍塚と呼ばれ、1561(永禄4)年9月10日の戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。 これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている。このことが乱世に咲いた美学と褒め称えられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれている。 ここから東南へ約180mのところにも同じく大きな首塚がある。昔はこの付近にいくつもの首塚があったが、現存する大きな塚はこの二つだけであり、小さな塚は各所に点在している。 ▲八幡原本陣再現 〜現地解説板より ここ八幡原史跡公園は、永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いで、武田信玄の本陣がおかれた場所とされています。信玄は、高坂昌信(春日虎綱)率いる別働隊を、上杉謙信が籠る妻女山に向かわせ、別働隊に背後を突かれて追われてくる上杉軍を挟み撃ちにするため、この八幡原に本陣を敷いて待ち構えていました。後世、啄木鳥戦法とよばれるこの作戦は、大河ドラマ「風林火山」の主人公・山本勘助の発案であったとされています。しかし、信玄の動きを見抜いた謙信は、夜陰に紛れていち早く妻女山を下ったため、9月10日の朝、信玄の本隊は別働隊の到着を待たずに上杉軍との戦端を開きます。激戦のさなか、謙信が信玄の本隊に攻め込み、信玄に向かって三太刀斬りつけ、信玄は床机にすわったまま軍配でそれを受けたとされる「信玄・謙信一騎打ち」の伝説もこの戦いで生まれました。 ▲公園内の風景1 中に入ってませんが美術館があります。 ▲公園内の風景2 ▲公園内の風景3 土手を上った先の千曲川です。 |
古戦場
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埼玉県所沢市の小手指ヶ原古戦場跡です。 鎌倉時代から南北朝時代へと変わっていく時の歴史的舞台のひとつです。 いつの世も、時代が変わるときには偉大なヒーローが登場しますね。 ●小手指ヶ原古戦場 〜現地解説板より
小手指ヶ原は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてしばしば合戦が展開されたところです。当時は一面の原野で、北方は入曾(狭山市)から藤沢(入間市)あたりまでがその範囲に含まれていました。背後には、狭山丘陵があり、また鎌倉街道の沿線にも位置していたため、古来戦場となることが多かったのです。 特に歴史的な合戦のひとつとして、元弘3年(1333)上野国新田庄(現在の群馬県太田市)を本拠地とする新田義貞の鎌倉攻めがあります。同年5月8日義貞は、北条氏の支配する鎌倉幕府を倒すための新田庄で兵を挙げます。利根川を渡り、鎌倉街道を一路南下した新田軍は11日に、ここ小手指の地に至ります。太平記によると、はじめは150騎ほどであった一行は、進むにつれ沿道の武士を加え、最後には20万騎にも及んだと記されています。 新田義貞の軍勢とそれを迎え撃つ鎌倉幕府軍は、緒戦となった小手指ヶ原で30余回も打ち合いますが、勝敗はつかず、新田軍は入間川(狭山市)に、幕府軍は久米川(東京都東村山市)にそれぞれ引きました。翌12日新田軍は幕府軍に押し寄せ、幕府軍は分倍河原(東京都府中市)まで退きます。その後、幕府軍は援軍を得て一旦は立て直すものの。結局21日には鎌倉極楽寺坂への新田軍の進軍を許し、5月22日幕府軍の北条高時らが鎌倉東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡するに至りました。 なお背後にある小高い塚は白旗塚を呼ばれ、源氏の末裔である新田義貞が、ここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てたという伝承があります。 |
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