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中央本線、大月駅付近の車窓から見られる岩殿城跡です。 想像以上の山で、装備が甘かったことと日が暮れそうだったこともあり、 途中の資料館?らしくところまでしか登りませんでした。 信長の軍勢に追われた武田勝頼は、 甲府から岩殿城の小山田信茂を頼りに逃れようとしますが、 岩殿到着間近で小山田氏は勝頼を裏切り、信長軍に寝返ります。 万事休すとなった勝頼は、前のブログで書いた景徳院の地で自害、 武田家はとうとう全滅してしまいます。 勝頼が滅亡した悲運の景徳院から本当に近く、 ここを最後の砦にしようとしていたんだなぁ、 と想いを馳せながら見てきました。 ちなみに信長軍に寝返った小山田氏は、 信長に謁見しようとしますが許されず、 それどころか窮地の主君を裏切った罪を咎められ、 織田信忠に甲斐善光寺にて処刑されたのでした。 ▲岩殿城遠景 ▲岩殿城入口 ▲山道は花々が咲き誇ってました ▲資料館? 夕刻だったためか開いてませんでした。ここまででも結構汗をかきましたが、本格的な城跡はここから上です。準備不足で今回は断念。 ▲丸山と呼ばれる塚のようなもの ▲丸山からの見晴し 眼下に見える道は中央自動車道です。 ▲丸山から見上げる岩殿城跡 左の岩山の上が三の丸、右の岩山の上にある電波塔付近が本丸です。 ●岩殿山 〜現地解説板より
岩殿山は9世紀の末、天台宗の岩殿山円通寺として開創されたと伝えられる。 10世紀のはじめには三重塔、観音堂、僧房その他の建物がならび岩殿は門前町を形成した。 13世紀に入ると、円通寺は天台系聖護院末の修験道のセンターとして栄え、その支配は郡内一円はもちろんのこと甲斐国中の山梨、八代の東部一帯、駿河国は富士郡付近まで及んだ。 16世紀に至り戦国大名領国制が成立する中で、武田、小山田両氏の支配を受け岩殿山は、岩殿城として、武蔵、相模に備える戦略上の拠点とされた。そして、1582年(天正10)武田、小山田の両氏が滅亡すると徳川氏により利用されたが、同氏の支配体制の確立された17世紀のはじめには廃城となった。 その後円通寺は、その塔頭である常楽、大坊の両院が法灯を伝えていたが、明治の初め神仏分離策によりそのあとを断たれた。 現在東麓には、三重塔跡、常楽院ならびに大坊跡その他が、また山頂付近には空堀、本城、亀ヶ池その他の遺構が残され、これらは日本修験道史上、また日本城郭史上貴重な資料とされている。 1972年(昭和47)10月、山梨県は岩殿山を「歴史景観保全地区」として指定した。 平成7年には、山梨県の文化財に指定された。 |
甲斐国(山梨)の城
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(その1から続く) ▲本丸北側の様子 この下のほうに西出構があります。 ▲本丸北側の土塁 ▲本丸跡 ▲蔀の構 〜現地看板より 本丸と本丸馬出しの間にある。蔀は城内を見透せないように工夫したもので、植込・蔀土居・蔀塀の構えである。 ▲二の丸 ▲馬出 ▲西三の丸 ▲東三の丸 ▲南大手門 ▲大手馬出し 〜現地看板より 大手門の前に築かれた馬出しの跡である。馬出しというのは城門の前に築いて、人馬の出入りを敵に知られぬよう、また城の内部を見通せないようにした土手をいう。 馬出しは甲州流築城法の特色の構である。 ▲大手望楼台 〜現地看板より 物見などともいった展望台である。片山口ともいい南方甲府盆地富士川河谷い一帯を監視した場所である。 ●新府城 〜現地看板より
新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正9年(1581)春、武田勝頼が甲斐府中として、城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。築城工事は昼夜兼行で行われ、着工後八ヶ月余りで竣工した。ついで城下町も整ったので、新府韮崎城と名づけ、同年12月、甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。しかし戦局は日に悪化して翌年3月、勝頼は織田軍の侵入を待たず、みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。廃墟と化したこの城も、同年6月本能寺の変で織田信長が亡び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、家康はこの城跡を修築して本陣とし、われに五倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き名城新府の真価を発揮したのである。この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形をよく生かして築かれたその城地の特色は城外から俯瞰されないことで縄張りの特徴は北方に東西二基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、従来の城郭は、頂上の本丸を中心に西に二の丸、南に三の丸、大手、三ヶ月堀、馬出、北に出構、搦手口、東に稲荷曲輪、帯曲輪があり北から東に堀が繞らされている。史跡指定区域は約20ヘクタールに及ぶ広大なものであるが、この外側には武将らの屋敷跡と伝えられる遺構・遺跡が散在している。 ●新府城跡 〜現地看板より 新府城は、天正10年3月織田軍の侵攻を前に、武田勝頼自ら火を放って東方郡内領岩殿城を指して落ちていった武田家滅亡の歴史を伝える悲劇の城跡である。 本城は南北600メートル、東西550メートル、外堀の水準と本丸の標高差80メートル。型式は平山城で、近世城郭のような石垣は用いず、高さ約2.5メートルの土塁を巡らしている。 最高所は本丸で、東西90メートル、南北120メートル、本丸の西に蔀の構を隔てて二の丸があり馬出しに続く。本丸の東に稲荷曲輪、二の丸を北方に下れば横矢掛りの防塁があり、その外側に堀を巡らしている。堀は北西から北、北東へと巡り、北方の高地からの敵襲に備えて十字砲火を浴びせるための堅固な二ヵ所の出構が築かれている。三の丸の南方には大手が開け望楼があり、三日月形の堀をその外側に馬出しの土塁が設けてある。本丸と東西三の丸、三の丸と大手等の間には、帯曲輪、腰曲輪がある。搦手にも望楼がある。蔀の構、出構は新府城の特色で防御のために工夫されたもので、特に出構は鉄砲のような新鋭兵器をもって敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれる。 |
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山梨県韮崎市の新府城です。 遺構の見応え抜群、景色も抜群に良い城跡で、 なぜ100名城に入ってないかと首を傾げるほどの城跡でした。 ▲新府城北側遠景 この近くに駐車場があります。 ▲東出構 〜現地看板より 出構は城の外郭の一部を長方形に濠の中へ突出させた鉄砲陣地で、防禦上最も弱いと見られる北正面に向けて、東西に約百メートルへだてて平行に二本が築かれている。 ▲首洗い池付近の堀 ▲新府城入口 ▲乙女坂 ▲稲荷曲輪 ▲新府城復元図 〜現地看板より ▲新府城概要図 ▲石祠・武田勝頼公霊社 〜現地看板より 勝頼公霊社は、武田氏滅亡後当地方民が国主の恩徳を追慕し新府城守護神・藤武神社の北西の地を相して石祠を建立し、勝頼神社と称し毎年卒去の当日は、慰霊祭を執り行い「お新府さん」と呼び藤武神社とともに地元民から親しまれてきた。 勝頼神社建立の時期は、貞亨、元禄(1684年)の頃と言い伝えられている。 (その2に続く) ●新府城 〜現地看板より
新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正9年(1581)春、武田勝頼が甲斐府中として、城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。築城工事は昼夜兼行で行われ、着工後八ヶ月余りで竣工した。ついで城下町も整ったので、新府韮崎城と名づけ、同年12月、甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。しかし戦局は日に悪化して翌年3月、勝頼は織田軍の侵入を待たず、みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。廃墟と化したこの城も、同年6月本能寺の変で織田信長が亡び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、家康はこの城跡を修築して本陣とし、われに五倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き名城新府の真価を発揮したのである。この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形をよく生かして築かれたその城地の特色は城外から俯瞰されないことで縄張りの特徴は北方に東西二基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、従来の城郭は、頂上の本丸を中心に西に二の丸、南に三の丸、大手、三ヶ月堀、馬出、北に出構、搦手口、東に稲荷曲輪、帯曲輪があり北から東に堀が繞らされている。史跡指定区域は約20ヘクタールに及ぶ広大なものであるが、この外側には武将らの屋敷跡と伝えられる遺構・遺跡が散在している。 ●新府城跡 〜現地看板より 新府城は、天正10年3月織田軍の侵攻を前に、武田勝頼自ら火を放って東方郡内領岩殿城を指して落ちていった武田家滅亡の歴史を伝える悲劇の城跡である。 本城は南北600メートル、東西550メートル、外堀の水準と本丸の標高差80メートル。型式は平山城で、近世城郭のような石垣は用いず、高さ約2.5メートルの土塁を巡らしている。 最高所は本丸で、東西90メートル、南北120メートル、本丸の西に蔀の構を隔てて二の丸があり馬出しに続く。本丸の東に稲荷曲輪、二の丸を北方に下れば横矢掛りの防塁があり、その外側に堀を巡らしている。堀は北西から北、北東へと巡り、北方の高地からの敵襲に備えて十字砲火を浴びせるための堅固な二ヵ所の出構が築かれている。三の丸の南方には大手が開け望楼があり、三日月形の堀をその外側に馬出しの土塁が設けてある。本丸と東西三の丸、三の丸と大手等の間には、帯曲輪、腰曲輪がある。搦手にも望楼がある。蔀の構、出構は新府城の特色で防御のために工夫されたもので、特に出構は鉄砲のような新鋭兵器をもって敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれる。 |
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