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長野県千曲市にある戸倉上山田温泉に泊まった時に、 偶然発見した城跡です。 しかもここは、NHK大河ドラマ「江」の撮影にも使われた城跡でした。 ここに立つ櫓の上で、時任三郎演じる浅井長政と鈴木保奈美演じるお市が、 織田軍の秀吉に攻められて落城する近江小谷城を描いた舞台となった場所でした。 偶然の発見にラッキーな気分で登城しました。 ▲荒砥城入口 戸倉上山田温泉街からエンジンが高音でうなるほどの急坂を上っていくと小さな駐車場があります。 ▲四の郭跡 ▲三の郭跡 ▲二の郭入口の門 門上に身を伏せて攻撃可能な造りになっています。 ▲二の郭の櫓 「江」で見た覚えのあるアングルです。 ▲二の郭 ▲櫓上からの眺望 急崖からの眺めは絶景です。 ▲二の郭の兵舎 この中に「江」の撮影パネルが展示されていました。 ▲本郭への門 ▲本郭の兵舎と館 ▲本郭展望台からの眺望 上田方面です。 ▲本郭から二の郭方向の眺望 ▲本郭門付近から二の郭の眺め このアングルも「江」で見たような…。 ▲二の郭門上からの眺め ▲遺構と思われる土塁跡 ▲荒砥城遠景 千曲川の土手から 余談ですが、この戸倉上山田温泉は取引先の方から教えてもらった温泉地で、 小さいながらなかなか良い温泉でとても気に入りました。 硫黄の強めの温泉で、翌日1日身体に硫黄のにおいがかすかに残るほどでした。 また行きたい温泉のひとつです。 ●荒砥城 〜荒砥城パンフレットより転載
荒砥城は今から約400年前に、この地を治めていた村上氏の一族である「山田氏」によって築かれた城で、郭が連なるように並んでいるところから『連郭式山城』と呼ばれています。 この時代は、全国各地で戦が繰り広げられていた戦国時代という時代です。この地も例外ではなく、荒砥城と千曲川をはさんだ対岸の山頂に築かれた葛尾城の城主村上義清は、上田原の戦い(1548)や戸石城の戦い(1550)では武田信玄との戦に勝ち、領地をまもってきましたが、武田軍の圧倒的な軍勢の前に、1553年、ついに葛尾城は落城し、荒砥城もこの戦いで城主を失い、山田氏は滅亡してしまいます。 その後、川中島の戦い(1553〜1564)を経て荒砥城は上杉氏の治める城となりますが、海津城の副将であった屋代秀正は上杉側に背き、海津城を出て荒砥城に篭ります。 1584年、上杉軍に攻められた荒砥城は落城して廃城となり、城としての役割を終えます。 |
信濃国(長野)の城
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真田氏館跡から道をさらに上方に登っていくと、 真田氏本城跡が遺されています。 この地域にあるほぼすべての城を見渡せる真田山の山頂を本郭としています。 ▲史跡・真田氏本城跡 〜現地解説板より この城跡は、天白城と共に馬蹄形状に構築され、南西面に広がる緩斜面には、真田氏館跡や原の郷があり、さらに指呼の間に戸石城・矢沢城を望むことができる。 本郭は東西8.6m南北37mの広さで、南側に高さ2mの土塁を築き、北方へ二の郭と三の郭と段差を設けながら延び出し、その北側は急崖となって厳重に防備している。 規模は大きく水利もあり、周辺城跡群等の関係からみて、上田築城以前の真田氏本城であったと推定される。 ▲段郭 見事な段郭です。写真は三の郭側から。 ▲本郭外観 ▲城郭図 ▲本郭入口 ▲本郭の様子 ▲史跡・真田氏本城(真田山城)跡 〜現地解説板より この城は、松尾新城、住連寺城、十林寺の城山などとも呼ばれます。 真田氏館跡や原の郷(本原一帯)へと続くなだらかな南斜面には何段もの広い段郭を連ね、ほかの三方は急斜面ですが、要所に細長い段郭を配置して厳重な備えとなっています。 この山城は、真田町内の他の山城に比べて規模が大きく防備も複雑で、上田盆地への眺望が開け、眼下に小県と北上州を結ぶ上州道を押さえ、熊久保集落の上方の沢から山腹を回して城内近くまで水を引いていることなどの特徴があります。 こうしたことから、町指定文化財名は、真田氏の本拠にふさわしいとして真田氏本城跡としました。 ▲本郭からの見晴し ▲二の郭からの見晴し ▲最後に段郭 やっぱりこの段郭は見事です。 |
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2011年9月に行ってきた真田氏館跡です。 上田菅平インターから真田発祥の地を目指して、 ここから散策開始です。 ▲真田氏発祥の郷〜現地解説板より ここ真田の郷は、戦国時代天下に勇名を馳せた真田氏一族の発祥の地である。 今も由緒深い古杜寺、居館跡、古城等数々の史跡が往時を物語っており輝かしい歴史の郷であることを、町民はなにより誇りとしている。 ▲真田幸隆公 〜現地解説板より 真田氏中興の大祖。天文年間武田信玄の信州先方衆として活躍。堅固な戸石城を攻略して、上田進出の基をつくり、川中島の決戦場でも武名をあげた。さらに岩櫃城をはじめとする要害城を次々と攻略。もって北上州制覇の地歩を築く等、戦国期真田氏台頭の基盤を固めた。 ▲真田信綱公・昌輝公 〜現地解説板より 信綱、昌輝兄弟は、台頭期における真田氏を支えた武将で、殊に信綱は父を助けて上州の攻略、小県郡内統一に力を尽くした。天正3年長篠の合戦に出陣、武田方の最右翼として設楽原に出撃したが、優勢な鉄砲隊にはばまれ、激闘の末兄弟ともども戦死をとげた。 ▲真田昌幸公 〜現地解説板より 両兄なきあとの真田氏を継ぎ、沼田城を攻略して北上州の支配権を確立した。さらに武田氏滅亡後尼ヶ渕に上田城を築き、天正13年の上田合戦で徳川軍の猛攻を撃退した。また関ヶ原の合戦でも上田の孤城で徳川秀忠の大軍を阻止して、真田の武名を天下にとどろかしたが、武運つたなく九度山で波乱に富んだ生涯を閉じた。 ▲真田幸村公 〜現地解説板より 天下分け目の関ヶ原合戦における上田城攻防戦に、父昌幸を助けて孤塁を死守した。慶長19年冬の陣の到来とともに大阪城へ招かれ、真田丸を構築して豊臣方の危急を救った。続いておこった夏の陣では、徳川家康の本陣をおびやかすほどの奮戦をしたので、「真田日本一の兵(つわもの)」と賞賛された。 ▲真田昌幸公 ▲真田幸隆公 ▲真田幸村公 真田氏発祥の郷の交差点を右折して山を上っていくと、 真田氏歴史館があります。その横が真田氏館跡です。 ▲真田氏館・大手門跡 ▲真田氏館・縄張図 ▲真田氏館・東曲輪(皇太神社) ▲真田氏館・搦手門跡 ▲真田氏館・厩跡と西曲輪 堀・土塁が綺麗に遺されています。 芝生が敷かれ旗が立っているのはマレットゴルフ場として使われている為です。 城ファンとしてはちょっと微妙です。 ●真田氏館跡 〜現地解説板より
真田氏館跡は、真田氏の上田城築城以前の居館といわれ、現在でも、「御屋敷」と呼んで親しまれている。また、中世豪族の居館の形態が、ほぼ完全な形で保存されており、真田氏一族の貴重な遺跡として昭和42年に長野県史跡の指定を受けた。 この館跡は、西方に開いた本原扇状地の奥に位置し、また、真田氏城跡群がこの扇状地を取り囲んで築かれたことからも、堅固な立地を考えて居館としていたことがわかる。 館跡の四方を囲んで築かれた土塁は、周囲520m余あり、外周には、堀が巡っていたと推定されている。とくに北面は、大沢川が天然の堀となって現在も残っている。 また、土塁の南面に大手門、北面に搦手門があり、南東の角にも小規模な門があったといわれている。 土塁の内側は、主に二段の曲輪からなり、東側上段の曲輪には、真田昌幸が上田城に移る際に勧請したと伝えられる皇太神社がまつられている。西側下段の曲輪には、その北西隅に厩と称される約10m四方に区画された土塁が見られる。 |
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