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今日は抹香臭いお話ですので、週kょ宇関係がお好きでない方は読み飛ばしてくださいね。
皆さんは、糞掃衣という言葉をご存知ですか?
「ふんぞうえ」と読んでぼろ布で作った服のことをさします。
そこのあなた、貧乏人の心得と思ったら大間違いですよ。
じつはこれって仏教の修行の一つなんですよ。
初期の仏教では、出家するときに俗世間との縁や欲と完全に関係を断ち切るため、このような服を着て過ごすことが修行の一つだったんですよ。
十二頭陀行という修行の一つで、最初に行うのがこれなんですよ。
私は宗教など最初から信じることのできない不信心でf心得な男ですが、そんじょそこらの自称宗教家よりは詳しく勉強したつもりです。
なぜなら、宗教の教えの中にはたまに輝く宝石のような考えが眠っているからです。
それは仏教でもキリスト教でもモルモン教でも、さらにはオー○真○教でも同じだと思っています。
ただ、それぞれの宗教観に都合のいいところだけを引っ張り出して教えや物語にするものだから、一部分しか伝わらない。
ならば、できるだけ多くの宗教を学べば、つなぎ合わせて真実とやらが見えてくるかもしれない。
金知、阿頼耶識、英知と呼ばれるものも、こういう手段でわかるのではないかと。
まあ、勝手な我流ですけどね。
この糞掃衣についても同じです。
「高価な服を着なさい」と教えている宗教はほとんどありません。
理由は様々で、「欲望に負けてはいけない」とか「こだわりは捨てなさい」とか。
ついには「その服を買うお金を恵まれない人たちに分け与えなさい」という教えまで。
ここまで来ると余計なお世話にしか聞こえませんが、やはり共通するからにはその奥に何かきらめく真実があるのかもしれない。
そう感じて大学時代に調べまくったことがありました。
宗教だけでなく、論語にも「巧言令色、少し(鮮し)仁」とありますし、アメリカの俗語にゼリービーンズ(外側はきらびやかなくせに、中身は変わり映えしない)という皮肉な表現もあります。
このあたりも、外側をきれいにしても仕方がないんだよ、と教えていますよね。
つまり、中身が問題!
外見を立派にしてしまうと、中身をそれ相応のものにしなくてはいけない。
しかし悲しいかな、衣服は簡単に上等にできるけれど、中身は借金しても立派にはできない。
結局努力しないといけないから、外を飾らないほうが分相応の生き方ができる。
そういうことなのだろうと私は結論付けました。
まだ何かが足りない気もしているのですが、今の私はこれが精いっぱいです。
世の中では、「まずは身だしなみを整えろ」と言います。
信じられないことですが、教育の場でさえ「きちんとスーツを着ていないやつは教師ではない!」とか言い出す方もおられるほどです。
それが礼儀だⅠと力強く宣言されていますね。
それなど、私から見たら「ボロい服さえ着れば修行は終了」と浅く考えている出家僧と同じで、浅慮としか思えないわけです。
「きちんとした身なり」というのは別にスーツや三つ揃えを切ることではなく、清潔感があって相手が信頼してくれる服装に努めること。
違うでしょうか?
実は、その身だしなみを自慢する学校さんの先生方拝見しても、私にはきちんとした身だしなみには見えないんですよ。
たとえば、一番わかりやすいのが靴です。
日本人は靴をないがしろにしがちですが、一番身だしなみが現表れるのが靴なんですよ。
人間は靴を履いて一日過ごすと、コップ一杯分の汗を靴の中にかきます。これを飼わkすためには1日は休ませないといけないんですよ。
それを怠ると、靴は確実に型崩れするんです。
また、歩くときにはつま先をまげて前に進むため、靴は必ず指の付け根部分が曲がってしまいます。
これも吐き終わった靴にシューズキーパーなどを装着して手入れしておかないと、曲がったしわが刻まれてしまうんです。
革靴の場合、一度しわになったら取れません。
おしゃれさんを自称していらっしゃるあなた。
あなたの靴を見てみてください。
先がとんがってようが 、お金がかかってようが、関係ありません。
あなたの靴はしわのよっていない靴ですか?
あるいは、隣の人の靴はしわがないでしょうか?
私んぽようなひねくれものは、服装のりっぱな人を見るとその方の靴を見てしまいます。
靴が一番普段の心使いが表れるから。
糞掃衣も同じです。
身なりをみすぼらしくするのではなく、こだわりを一切捨て去ること。
これが大切。
それさえできれば、アルマーニの服を着てても大丈夫!
そういった、本当に大切なことを忘れないようにしたいものです。
と、靴下に穴が開いているのに気が付いたこむりん先生は思うのでした。
明日、新しいのにしなきゃね。(笑)
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