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信心をうれば
暁となるがごとし
今月も本願寺出版社 法語カレンダーからです。
ある冬に、霜が降-て、鉢植えの観葉植物が枯れてしまいました。
再び芽を出すことはないと思って、枯れた葉を全部切-取って、家の隅に置いておきました。
数カ月して、何気なくその鉢を見ると、見事な葉っぱを繁らせていました。
もちろん、霜が降りなければ、葉は繁ったままで、時期が来れば、少しずつ葉が生え替わります。 暁とは、夜明けのことです。夜明けは、希望を感じさせる言葉です。 暗雲に覆われて夜明けの空が見えな-ても、必ず陽が昇ってきます。
信心を得れば、煩悩の暗雲に覆われていても、必ず仏のさとりを得ることを示したのが「信心をうれ
ば 暁になるがごとし」です。 私たちは、煩悩を持った存在です。もし信心を得たとしても、その姿は人によって異なります。 すずきあやこ 鈴木章子さんは、元々熱心な念仏者であったと思われますが、肺ガンになり、ご自身の死を意識されるようになって、あちこちから仏の教えが聞こえてくるといわれ、闘病の場である病室がよろこびの場であると「今現在説法」という詩で詠われています。 肺がんになって
ここ あそこから 如来様の説法が 少しずつ きこえてきます 大変感銘深い詩です。 しかし、誰もが死を見つめて、鈴木さんのような心境になるわけではありません。
ある念仏者は、ガンになり,「厳しいご催促です。
今まで何を聞いていたのでしょうか」といって、ご自身の信心を問い直すような法話をされていました。
また、「煩悩はあるにはあるが、人並みだと思い、罪悪は,探査といえば深重なのだろうが、親鷲聖人が
いわれるほど、罪悪深重とは思えない。 こんないい加減な私であるが、きっと、仏さまは何とかしていただけるのであろう」と感じていた人は、大病をしても、「何とかしていただけるだろう」という気持ちは変わらなかったといわれていました。
先の観葉植物の土の上の姿と根っこのようなもので、表面は人ぞれぞれです。 「今現在説法」のど真ん中と受けとる人もいれば、厳しいご催促と受けとる人もいます。
しかし、信心をいただくと、外の姿は、どのようなものであっても、仏の道が開けていることが、私にとっては希望を懐かせ、ありがたく感じさせられます。
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今月の法語
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煩悩の泥のうちにありて
佛の正覚の華を生ず
「山のあなた」というカール・ブッセの有名な詩があります。
上田敏の訳詩集「海潮音」(新潮文庫)の中の1つです。
教科書で読まれた方も多いと思います。
こんな詩です。
山のあなたの空遠く 「幸」住むとひとのいふ。
譩(ああ)、われひとと尋めゆきて、涙さしぐみ、かえりきぬ。
山のあなたになほ遠く 「幸」住むと人のいふ。
山の蓮か向こうの地に行けば、幸せがあると聞いてその地を訪ねても、そこには幸せはありませんでした。
山の向こうのさらなる彼方に幸せがあると、また、人がいっています。
幸せを求める人は、さらなる彼方へ行くのでしょうか。 私たちは今の生活に不満があると、どうすれば満たされた生活ができるかと考えます。 例えば,南太平洋の島できれいな海を見ながら生活したいという人もいるかもしれません。
また、職場を変われば、結婚すれば、幸せになるという人もいそうです。
南太平洋で暮らすことは素晴らしいことです。 また転職も今の時代はよくあることです。
しかし、今が面白くないからといって、今の生活をほうっておいて、南太平洋に移住すれば、どのような生活が待っているでしょうか。
楽しく幸せな日々もあるでしょうが、やがては悩みもでき、不満も出てきます。
そこで再び次の場所へ移ることになるのかもしれませんが、このような生活をして良かったといえることはないと思います。
私たちは 「あのようになればいい」 「このようになりたい」と考えます。 それは無意味だとは思いませんが'「私の住む世界はここしかない」という事実を知ることが大切だと思います。「ここしかない」とわかると、そこに不満や面白くない気持ちがあっても、「ここで頑張ろう」と思ったり、「何かいいこともあるはずだ」 といいことを見つけようとしながら、満足感やよろこびの生活に変えることができます。
もちろん、縁あって、離職しても、南太平洋に住んでも、「私の生きる場はここだ」という思いでいれば、満足感につながる生き方になると考えられます。
右のことを、親驚聖人は「凡夫 煩悩の泥のうちにありて仏の正覚の華を生ず」と示されます。 この煩悩に満ちた世界が私の生きる世界であり、ここで自分を見つめ、生ききることが、泥田の中のハスのように'煩悩の泥の中で、仏のさとりに繋がる花を咲かせると説かれていると窺えます。
本願寺出版 法語カレンダー 心に響くことばより
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もう、5月も終わりなのに今頃です。
本願寺出版社 法語カレンダー 心に響く ことば より 転載です。
この如来
微塵世界に
みちみちたまえり
さかきばらとくそう
榊原徳草氏に、『BodFisatt<asE<erywhere』 (ボディーサットバズ エブリフェア) という著述があります。 あちらこちらにいらっしゃる菩薩、という意味と考えています。
榊原氏は語られます。私たちは毎日食事をしますが、例えば、大根はどんどんと成長して、一番いいときに食べられます。 もちろん、大根は人間に食べられるために生長しているのではありません。肉も魚も同様です。
また木々は、二酸化炭素を酸素に変えます。
私たちはその酸素を呼吸して命をつないでいますが、木々は酸素の料金を要求しません。
榊原氏は、私たちの周りにあるこれらのものは菩薩であるといわれます。
自分のことは後にして、まず人のために何かをする点をとらえて、菩薩といわれたと考えられます。
榊原氏の言葉から思いつくことですが、大根などのおかげで生命を維持できるだけでなく、私たちが今、念仏者であれ、学者であれ、サラリーマンであれ、それぞれの姿でここにいることは、多くの菩薩のはたらきがあったからと思われます。 親鷲聖人は、別の角度から「この如来 微塵世界に みちみちたまえり」といわれます。 あるお坊さんは、寺に生まれたけれども、僧侶になりたいとは思いませんでした。
就職を考えましたが、うまくいかなかったので、仏教の勉強をはじめたそうです。
元々、勉強したかったわけではありませんから、今ひとつ、力が入りません。 こんないい加減な生活でいいのかと考えているときに、「それでいい」と先輩からいわれたそうです。
いい加減なままでいいとはどういうことなんだろうと思い、そのあたりから勉強もしはじめたそうです。
そのあとも紆余曲折はあったようですが'お坊さんとして過ごされています。
今から思うと,先輩の言葉だけではなく、先生、知人、家族が,嫌がられてもいってくれた言葉から何の気なしの一言、さらには範となる生き方などを通して,さまざまに私を導いてくださったと、その方はいわれます。 微塵世界に如来がみちみちておられるとは、このようなことと味わえます。 その一方で、微塵世界というのはあらゆるところですから,私にも、仏がいらっしゃることになります。
考えてみますと'煩悩に満ちた私が、今の私をつくるさまざまなご縁に気づくとは考えられません。 もし気づくとすれば、私に至りとどいた仏が気づかせてくれたように思われます。
その仏のはたらさがあるからこそ、私が仏への道を歩ませていただけると受けとられます。
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