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2013/10/20 に公開
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福一以前より何も変わらぬ醜悪極まりないこの国のリアル。清志郎が歌っていたように、もう誰にも止められないのか。 東京新聞 2013.9.24 掲載 「こちら特報部」カネミ油症事件 阻まれる救済の転載です。 関連情報 九州朝日放送 カネミ油症 - KBCが追った44年の記録 - http://www.kbc.co.jp/tv/kanemi/ ↓上記サイトのイントロダクションより転記 「美容と健康にいい」 そんな宣伝文句で売られていた米ぬか油。 その油には猛毒のダイオキシン類が含まれていた。 44年前、福岡県を中心とする西日本一帯で起きたカネミ油症事件。 吹き出物、手足のしびれ、肝機能障害、骨の変形、永久歯の欠落、大量の脱毛、そしてがん・・・。 根本的な治療法もない中、猛毒は44年がたった今もなお被害者たちを苦しめる。さらに被害は子や孫の世代までにも忍び寄る・・・。人類史上初めてダイオキシン類を直接口にしたカネミ油症事件。 KBCはこのカネミ油症事件を発覚から44年にわたり追い続けてきました。 国内最大の食品公害とされるカネミ油症の患者団体と国、原因企業のカネミ倉庫(北九州市)による3者協議が2018年1月20日、福岡市であった。カネミ油症は今年で発生から50年を迎える。患者側はなお未認定の被害者が多いとして、認定基準の撤廃や見直しを求めた。
協議は被害者救済法(2012年施行)に基づくもので11回目。11の患者団体の代表、厚生労働省や農林水産省の担当者、カネミ倉庫の加藤大明社長らが出席し、非公開で開かれた。
3者によると、患者側は「(ダイオキシン類の血中濃度などで判定する)認定基準を撤廃し、カネミ油を食べたことをもって認定してほしい」などと要望。国は「基準は科学的知見によるものだ」と反論した。加藤社長は、患者側が求めている入院中の食費支給について「国に要望しているが現状では難しい」と答えた。
患者側は、油に混入したポリ塩化ビフェニール(PCB)を製造し、カネミ倉庫に販売したカネカ(鐘淵化学工業 高砂)も協議に参加するよう求める要望書を国に提出した。
カネミ油症患者や支援者は「元の身体を返せ! 元の家庭を返せ!」というシュプレヒコール。
紙野さんも、ズッとその「元の身体を返せ! 元の家庭を返せ!」と叫んでおられたシュプレヒコールでした。 一人ひとりの身体だけじゃなくて、家庭がほんとに破壊されていって、紙野さんの家庭だって、次女の人が婚約をしていたのに、油症になって婚約を破棄。それを悔やんで自殺未遂。おじさんおばさんは、また自殺未遂するんじゃないか、と夜も眠れんと、子どもを見張っていないかんみたいな時が続くんですね。だから油症になるというのは、病気も大変だけど、病気によってほんとに人間関係がズタズタにされてしまう。
1901:兵庫県高砂市の三菱製紙と加古川沿岸農漁民が、汚濁水めぐり紛争
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市民の社会的責任
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http://lite-ra.com/2018/05/post-3987.html
内閣府大臣官房政府広報室の「国政モニター」ウェブサイト 内閣府の「国政モニター」のウェブページに、在日韓国・朝鮮人や中国人に対するヘイトスピーチや、ヘイトクライムを招く差別デマが大量に掲載されていたことがわかった。 「国政モニター」は、内閣府の大臣官房政府広報室によって運営されており、「政府広報オンライン」にもリンクがある政府のウェブサイト。同サイトによれば、〈国の重要施策に関して、国民の皆さまからご意見、ご要望などを聴取し、国の行政施策の企画、立案及び実施のための参考とすることを目的〉として、集めた意見を2014年からウェブ上で公開してきた。また、〈全てのご意見は、内閣府が関係する府省庁に毎月、行政施策の企画、立案及び実施のための参考にするよう送付〉しているという。 ところが4月30日、あるネットユーザーがこの「国政モニター」でむき出しのヘイトスピーチが多数公開されていることをブログで指摘。その情報がいっきに広まり、いま、大きな問題となっているのだ。
本サイトも確認したが、たしかにこの政府運営サイトには、差別を扇動しているとしか言いようがないヘイトコメントが掲載されていた。一つや二つではない。内閣府が収集した意見は「行政改革等」「危機管理・防災」などと分類されており、2016年度分では「外交・防衛」カテゴリーのなかの「日韓関係」に最多のコメント(139件)が寄せられていたが、その中身を見てみると、まるでネット右翼御用達の掲示板と見間違うほど。控えめに言っても8割がヘイトコメントだった。一部を引用しておこう。 〈中華人民共和、韓国、北朝鮮は何で平気で嘘をつき続けるのでしょうか。嘘つきは泥棒の始まりと言いますが、竹島、仏像、尖閣諸島問題をみても、世界一信用の置けない民族です。毅然とした強い態度、行動を日本国民のためにお願いいたします。〉(内閣府運営「国政モニター」より) 〈少なくとも全ての慰安婦像を撤去するまでは駐韓大使を返す必要はないと考えます。国内にいる在日と呼ばれる方々が嫌われるのも同じ理由なのですが、かの民族に対する対処はよく考えていただきたい。〉(内閣府運営「国政モニター」より)
〈竹島を不法占拠されているだけでなく、日本を貶めれば愛国無罪、日本が好きだと言えば親日罪。しかも露骨に日本を仮想敵国としているとしか思えない行動。何故、そんな事実上の敵国を救う必要があるのだろうか。関係を持つことすら無用なはず。〉(内閣府運営「国政モニター」より) 在日特権デマや在日韓国人・中国人を「工作員」「テロリスト」扱いしかも「国政モニター」が掲載しているのは、韓国との国交断絶をヒステリックに叫んだり国籍をもって十把一絡げに罵倒するようなネトウヨコメンだけではなかった。韓国・朝鮮人、中国人や在日コリアン、あるいは沖縄の米軍基地に反対する人々を「排除せよ」「逮捕しろ」と扇動する内容まであったのだ。 〈機動隊に対する暴力行為は公務執行妨害で逮捕に値します。メンバーの中には朝鮮や中国から来ている者も多く、これは完全に内乱罪です。一刻も早く彼らの排除を断行すべきです。日本人でこれに参加している者達も外患誘致罪が適用されるべきです。彼らのような過激派には毅然たる態度で臨んでいただきたいと思います。〉(内閣府運営「国政モニター」より) また、とっくのとうに事実無根であることが明らかとなっている「在日特権」のデマを言いふらすなど、ネトウヨ的妄想を書き殴った内容も少なくない。
〈北朝鮮が核実験やミサイル発射をしたこの時期が、特権停止の絶好のチャンスであると思う。住んでいる日本に対して何かと反日的な言動や行動をし、北朝鮮の資金源になっている在日半島人に戦後70年近くになるにも係らず、様々な特権を与えたまま放置している現状は極めて遺憾である。特に、徴税における日本人には許されていないような特権は即刻停止すべきである〉(内閣府運営「国政モニター」より) 〈日本を在日朝鮮人のものにしようとしているのは名実。与党カルト教団の政権分離違反も報じないマスコミ。日本は中国の前に在日朝鮮人に牛耳られている。大問題。竹中平蔵氏など在日企業の息の者は即刻排除するべき。〉(内閣府運営「国政モニター」より)
〈現時点で外国人に対して支給している生活保護はおそらく違法であるから、個別事情を吟味する必要もなく、即時一律に停止すべき。のうのうと1100万円も得ている在日韓国人は叩き出せ。〉(内閣府運営「国政モニター」より)
さらに、関東大震災時の朝鮮人虐殺を彷彿とさせる、明らかなヘイトデマも垂れ流されていた。
〈安易な外国人受け入れはとても危険な事だと思います。まず、日本にはスパイ防止法がありません。日本に住む反日日本人や在日外国人も含め何があるかわかりません。テロ対策、入国検査をしっかりしてほしいと思います。〉(内閣府運営「国政モニター」より)
〈国内には多くの朝鮮人・中国人がいます。かれらは工作員、潜在的な戦闘員になります。学校・病院・遊技施設・大型店舗等で人質を取っての立てこもり、ダムや浄水場への毒混入、送電線の爆破等々、考えられる破壊活動はいくらでもあります。〉(内閣府運営「国政モニター」より) 1923年9月、関東地方を襲った大地震発生直後の数日間で、「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒をいれた」「放火している」等のデマが広がり、日本人らによる大規模な朝鮮人のジェノサイドが行われた。最近では、自称国際政治学者の三浦瑠麗氏が“北朝鮮のテロリスト、スリーパー・セルが潜伏していてとくに大阪がヤバイ”いう旨をテレビで発言し、大きな非難を浴びた。このように、在日外国人を根拠もなく「工作員」と決めつけたデマを拡散することは、紛うことなきヘイトスピーチであり、虐殺を扇動するヘイトクライムに他ならない。 一方で、「国政モニター」のサイトには、留意事項として〈立法・司法・政治関係のご意見や、誹謗中傷、差別的な内容、その他国政モニターウェブサイトに掲載することが不適切であると判断されるご意見等については、ご提出いただいても公表いたしませんので、あらかじめご了承願います〉との記載がある。では、内閣府はこうしたヘイトスピーチ、ヘイトデマが「差別的な内容」に当たらないとの認識でサイトに掲載しているのか。 ヘイトスピーチの掲載を判断した内閣府の説明は矛盾だらけ 本サイトはこの問題についての事実確認と認識を聞くため、1日、内閣府に電話取材をした。
内閣府の担当者によれば、「国政モニター」は平成28年度で休止し、「より幅広い意見を聞きたいということで、いま見直しをすすめているところ」という。今回、ネット上で、多数のヘイトスピーチが掲載されていると指摘されていることについては、「承知しています」という。 本サイトが具体的なヘイトのコメントを読み上げたうえで、内閣府はこうしたヘイトスピーチを全世界に配信していることをどう認識しているのかと尋ねると、担当者はこう回答した。
「国政モニターは、国民からいろいろな政策にかんするご意見を聞いて、政策に生かすための制度でありまして、ホームページのほうにも書いてあると思うんですけど、個人のご意見はいただいたものをそのまま、原文のまま掲載しています。ご意見をそのまま尊重させていただいて、掲載したということです」 担当者は「原文のまま」というが、実際には、コメントをひとつひとつ見ていくと〈「〇〇人は殺せ、出ていけ」〉というような伏字になっている箇所がときおり見あたる。本サイトはそれを指摘したうえで、あらためて編集の有無を尋ねたが、担当者は「そこは確認できませんが」として「基本的には原文のままです」と繰り返した。 さらに、サイトで「差別的な内容」等は〈ご提出いただいても公表いたしません〉との断り書きがあることを指摘し、内閣府は掲載されているコメントが「差別的な内容」にあたらないと判断しているのかと質問したが、担当者は「いただいた意見をなるべく尊重して掲載しているということでございます」と、同じ回答にとどめた。 その後、何度か質問を変えながら、「在日特権」や「ダムや浄水場への毒混入」等のヘイトデマを掲載していることなどについても認識を問うたが、やはり「いただいたご意見を尊重して掲載している」との返答だった。
一方で、担当部署はコメントの内容に目を通していないのかという質問に対しては、「目は通していると思います」との回答。であれば、目を通した上で「原文のまま」掲載したのかと確認すると、担当者は「そういうふうに対応していたのではないのかと思われます」と他人事のように答えた。 現担当者の回答が確かならば、内閣府は、ヘイトスピーチやヘイトデマを読んだ上で、それを政府のサイトに堂々掲載していたことになる。「ご意見を尊重」というが、明らかな差別扇動や事実無根を公権力が垂れ流すことなどあってはならないことだ。「原文のまま」というのは責任逃れの言い訳でしかない。 いずれにしても、今回の問題は、単に、政府系のサイトにネトウヨ的な投稿が殺到していたという話ではない。あろうことか、政府が大量のヘイトスピーチ、ヘイトデマを「尊重」すべき「ご意見」として扱い、ネットを通じて全世界に発信していたのである。
安倍政権が裏で応援団を使って、自分たちの批判勢力へのヘイトやデマ、「反日」攻撃を展開し、自民党がJ-NSC(自民党ネットサポーターズクラブ)などによってネトウヨを“組織化”しているのは周知の通りだが、いよいよ行政組織までが安倍政権を忖度して、ネトウヨのヘイトデマを「尊重すべきご意見」「国民の声」として扱い始めたということらしい。 このまま、安倍政権を放置しておいたら、日本中がグロテスクな思想におおいつくされてしまうだろう。
(編集部)
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隠岐の歴史・文化に触れる=後鳥羽上皇ゆかりの地、由緒ある神社、竹島の記録
独自の生態系などが評価され2013年9月、国内では6件目となる世界ジオパークに認定された隠岐諸島。かつては山陰道に属した令制国、隠岐国(おきのくに)が置かれ、鎌倉時代には後鳥羽上皇が配流された歴史を持つ。同諸島の一つである竹島は、韓国が実効支配する前、隠岐漁師の豊かな漁場であった。数々の由緒ある神社、国の重要文化財などが存在し、この地特有の歴史や文化に各所で触れることができる。
隠岐諸島で最大の島である島後の「水若酢神社」は、隠岐国で最も社格の高い一ノ宮。強い力を持つ神を祭る神社「名神大」とされている。国の重要文化財に指定されている本殿は隠岐地方独特の建築様式「隠岐造り」。入り口が屋根の棟と直角に面した妻入りで、正面にだけ設けられたひさしに特徴がある。同神社のそばには、明治時代の郡役所を移築し活用した博物館「隠岐郷土館」が設けられ、かつて使用されていた土器、農耕器具など県の民俗文化財が展示されている。郷土館には、隠岐諸島の一つ、竹島に関するコーナーも設置され、隠岐の漁師が海産物を取っていたころに撮影した島の写真や持ち帰った石など貴重な資料、記録が並んでいる。 水若酢神社から車で20分ほど行くと、隠岐国の神々を祭る総社「玉若酢命神社」がある。境内には、樹齢二千年を超える「八百杉」がそびえ立つ。同神社に隣接する「億家住宅」は、隠岐地方の代表的な古民家で、国の重要文化財となっている。1801年に建てられ、今も億家の人が暮らし、一部は神社の社務所として使用。敷地内の宝物殿には、奈良時代の役人が身分を証明するために用いた「駅鈴」など数々の重要文化財が展示されている。 配流の島として長い歴史を持つ隠岐諸島。承久の乱で敗北した後鳥羽上皇、元弘の乱で捕らえられた後醍醐天皇など、謀反人、政治犯などが明治の流刑が終わるまでに2000人以上が流されてきたという。島前・中ノ島の勝田山は、後鳥羽上皇が60歳で崩御するまで19年間過ごしたとされる源福寺の跡地、遺灰を納めた「後鳥羽上皇御火葬塚」、上皇を祭る「隠岐神社」などがあり、上皇ゆかり地となっている。 映像素材の購入はこちらから https://www2.jiji.com/f/enq/form.php?... 隠岐の歴史隠岐の歴史(おきのれきし)。日本海に浮かぶ隠岐諸島は古代には隠岐国として自立的な地域を形成し、また遠流の国としても知られた。近代には島根県隠岐郡となったが、戦後は過疎化が進んでいる。佐々木家住宅や隠岐郷土館には、隠岐の歴史に関する展示物を見ることができる。
先史・古代隠岐島後(どうご)の西郷町(現隠岐の島町)津井と五箇村(同)久見には、打製石器の原料としての黒曜石を産出する。紀元前5000年頃に縄文早期前期の遺跡が西郷町津井の近くに宮尾(みやび)遺跡が[1] 、久見の近辺に中村湊(なかむらみなと)遺跡がある。これらに遺跡は石器製作跡と推測されている。
サヌカイトより強力な隠岐の黒曜石は広く山陰地方一帯の縄文遺跡に分布し、東は能登半島、西は朝鮮半島にまで及ぶ。弥生時代後期に水稲栽培が島に入り、島後南部の八尾川下流東岸に月無遺跡が出現する。隠岐には約200基の古墳が分布、八尾川下流に隠岐最大の前方後円墳である平神社古墳(へいじんじゃ、全長47メートル、長さ約8メートルの横穴式石室)がある。
大化の改新以前には億伎国造が設置され、玉若酢命神社宮司家である億岐家が国造家であったと考えられている。646年(大化2年)隠岐駅鈴2個及び隠岐国倉印が西郷町の玉若酢命神社におかれた[2] 。隠岐国設置の年代は不明だが、大化改新後全国に国郡が置かれた時から存在したと考えられる。また、当時の木簡には「隠伎国」と記しているものもあり、設置当初にはこの名称が使われていた可能性もある。
隠岐国府は弥生時代から諸島最大の中心地であった島後の八尾川下流に置かれたが、具体的な所在地については下西の台地にあてる甲ノ原説と八尾平野に当てる説がある。国分寺、国分尼寺についても所在地は必ずしも確定的ではない。古代の隠岐国は山陰道7国のうち下国で、都からの行程は上り35日、下り18日と定められていた。億岐家宝物館には国の重要文化財に指定されている駅鈴が展示されている。 日本海の離島隠岐は古代から渤海や新羅との交渉も記録されている。763年には渤海から帰国する日本使節・平群虫麻呂の一行が日本海で遭難して隠岐に漂着し、825年には渤海国使高承祖ら103人、861年には渤海国使李居正ら105人が隠岐国に来着している。
日本と新羅との関係が緊張すると隠岐国にも影響があり、869年には隠岐に弩師(弓の軍事教官)が置かれ、870年には出雲、石見、隠岐に新羅に対する警備を固めるよう命令が出された。888年には新羅国人35人が隠岐に漂着、943年には新羅船7隻が寄着するなど現実に新羅との交渉が生じた。
『和名類聚抄』の郡郷『和名類聚抄』によれば、隠岐国は4郡、12郷に分かれていた。
の各郷である。穏地郡は古い時代には役道郡と呼ばれていた。
延喜式内社僻遠の地にもかかわらず名神大社が多いのは新羅に近いため、国防上の見地から朝廷の尊崇を受けたためとされる。 このほか周吉郡(隠岐の島町西郷地区下西)の式内社玉若酢命神社は国府所在地にあり、隠岐惣社とされる。
中世建久4年(1193年)、隠岐一国地頭職に佐々木定綱が補任されたことが吾妻鏡に見える。承久3年(1221年)には後鳥羽上皇が海士郡に流され、19年間配所で過ごし、元弘2年(1332年)には後醍醐天皇が配流される。天皇の配流地は隠岐島後の国分寺説と島前黒木御所説があり、決着が付いていないが、天皇はやがて脱出する。
室町時代の守護は京極氏で、隠岐守護代となったのは京極氏一門の隠岐氏で、東郷の宮田城、後に下西の甲ノ尾城を本拠地とした。これに対して在地勢力は隠岐氏に対立する毛利氏の支援を得て、両者間に戦いも起こったが、尼子氏の滅亡とともに隠岐国は毛利氏一門の吉川元春の支配となった。
近世慶長5年(1600年)、堀尾吉晴が出雲・隠岐の国主となるが、寛永11年(1634年)から室町時代の隠岐・出雲の守護家の子孫である京極忠高に替わる。寛永15年(1638年)には松平直政が出雲に入り、以後の隠岐は幕府の天領(松江藩の預かり地)となった。幕府から統治を委託された松江藩は西郷に陣屋を置き、郡代に総括させ、島前と島後にそれぞれ代官を派遣して行政に当たらせた。隠岐の総石高は1万8000石とされたが、実高は1万2000石ほどであった。
島後の西郷港は18世紀から北前船の風待ち、補給港として賑わうようになった。これは隠岐島後が能登から下関あるいは博多に直行する沖乗りのコースに当たったためである。西郷港には船宿を兼ねた問屋が置かれ、自ら回船業を営む者もあった。この頃、西ノ島の焼火神社が海上安全の神様として北前船の信仰を集めた。北前船は安来の鉄や米を日本海一帯に供給する機能があったため、その後も隠岐〜美保関〜安来間の航路が存在し、航路廃止になった現在でも安来市には北前船の流れを汲む隠岐汽船の支社が存在する。
1836年(天保7年)に建てられた代々庄屋職である佐々木家の住宅が、現隠岐の島町東郷に建てられた。
詳細は「隠岐騒動」を参照
明治元年(1868年)、隠岐騒動が起こり、神官と庄屋の正義党が松江藩隠岐郡代を追放し、王政復古で隠岐は朝廷御料になったと宣言して自治を行った。松江藩は隠岐に出兵して一時隠岐を奪回するが、まもなく鳥取藩が仲介して松江藩兵は撤退、自治が復活した。明治新政府は一時隠岐を鳥取藩に預ける。
騒動までの経緯寛永15年(1638年)の松平直政の松江への入部以来、隠岐は松江藩の預かり地となっていた。江戸時代中期以降、隠岐では食糧難が恒常化していたが、松江藩は有効な手立てを打つことなく、島民の間では藩に対する不信感が高まっていた。
嘉永5年(1853年)の黒船来航以来、黒船の日本近海への出没が頻繁に発生し、松江藩は幕府から隠岐国の防御を命ぜられ、文久2年(1862年)にイギリスとアメリカから艦船を一隻ずつ購入している。さらに松江藩は文久3年(1863年)に、隠岐の軍備増強のため、当時全国的に導入されつつあった農兵制を隠岐で採用し、藩士・錦織録蔵がこれを指導した。元治元年(1864年)には、隠岐防御への協力を朝廷より命ぜられていた鳥取藩から、景山龍蔵も派遣された。しかし、隠岐国郡代の枝元喜左衛門は西郷港に入港した船に立ち入った際、帯刀を船内に置き忘れるという失態を犯した。これにより、島民の松江藩への信頼は大きく失墜した。慶応2年(1866年)、松江藩は農兵隊に加えて、島の有産家の子弟30人を選び、これに扶持を与えて「新農兵」として組織した。次いで翌年には武芸差留を布告し、事実上農兵は廃止された。
騒動の概要隠岐の住民たちは、従来より尊王攘夷志向が強かった。同様に尊王志向の強い十津川では「文武館」(現、奈良県立十津川高等学校)が儒者中沼了三により設立されていた。これを知った中沼の弟子の中西毅男は、同名の学校設立の嘆願書を同士73名の連署を得て、新任の郡代である山郡宇右衛門に願い出たが、取り下げられた。慶応4年(1868年)2月、神官・庄屋ら島民有志が徳川慶喜への直訴をしようと京都に向かうが、本州に上陸後に長州藩の取り調べを受け、王政復古がなったことを知り、退却した。また、山陰道鎮撫使総監の西園寺公望から隠岐国の庄屋方へ宛てられた書状を、山郡が庄屋らに渡る前に開封したことが露見する。これらを受けて3月15日、島後の庄屋職の会合が郡代追放でまとまると、島前の庄屋らにも参加を求めた。そして3月19日早朝、島後・島前の住民およそ3000人が隠岐郡代の陣屋を急襲し、山郡は隠岐から追放され、施政機関としての総会所が陣屋に設置され、島民による自治が開始された。
騒動のその後4月1日、中西毅男は明治政府から、隠岐が天朝領であることの確認と自治の認定を受けようと京都へ向かったが、思うような回答がないまま時が過ぎた。
閏4月27日、太政官から隠岐支配の内示を受けた松江藩主松平定安が派遣した兵が隠岐に上陸、松江藩兵が陣屋を奪還したが、島民側に同情的な薩摩藩、長州藩、鳥取藩が仲介し、5月16日に松江藩兵は撤退し、島民による自治が一時復活したものの、明治元年11月に鳥取藩の管理下に置かれることとなり、自治は事実上終了し、翌年2月に民兵組織も解体された。
明治4年、島民と松江藩双方の騒動に関係した者が罰せられ、一連の騒動は収束した。 明治2年(1869年)2月から8月まで隠岐国に隠岐県を設置して独立させるが、その後幕府の石見銀山領を前身とする大森県に統合された。新政府の方針は決まらず、隠岐地域の所属は島根県と鳥取県の間で移管を繰り返し、明治9年(1876年)ようやく島根県への所属に落ち着いた。
近現代島根県に編入された隠岐地域は古代以来の海士、知夫、周吉、穏地の4郡に分かれていたが、明治21年(1888年)になって島根県庁は郡を廃止して隠岐島庁を設置、島司が行政に当たった。明治37年(1904年)に西郷町、五箇村などの町村が設置されている。翌38年(1905年)2月15日、竹島が日本の領土として確認され、後に五箇村の所属とされた。これは西郷町の中井養三郎がアザラシ・アシカ漁のためにリャンコ島の賃貸を政府に求め、政府が島の所属について確証がないことに気付いたためである。リャンコ島は竹島と名付けられ、隠岐島司の所管となった。隠岐島庁は大正14年(1925年)に隠岐支庁となっている。
第二次世界大戦中は軍事基地もなかったため戦災も受けず、かえって疎開者が来島し、終戦後は外地からの引揚者で人口が増えた。しかし、日本経済の高度成長が始まると、都会への移住者が増え、島では次第に過疎化が進行した。昭和28年(1953年)に離島振興法、昭和45年(1970年)には過疎地域対策緊急措置法などが適用され、基盤整備が進められた。昭和38年(1963年)には国立公園の指定を受けて隠岐空港も建設され、西郷町が隠岐観光の基地となった。現在は海洋レジャーの島として振興されている。平成16年(2004年)10月1日、西郷町、布施村、五箇村、都万村が合併して隠岐島後全島をカバーする隠岐の島町が誕生した。
昭和44年(1969年)に旧隠岐国の4郡は隠岐郡に統一されており、現在は隠岐郡の下に島後の隠岐の島町のほか、島前の海士町、西ノ島町、知夫村の自治体が存在している。島根県庁は現在でも隠岐の島町(西郷地区)港町に隠岐支庁を置き、県民局、農林局、水産局、県土整備局を設置し、西ノ島にも隠岐支庁島前集合庁舎を置いている。また島根県警も島後の旧西郷地区に隠岐の島警察署、島前の西ノ島に浦郷警察署を設置する。隠岐郡の住民は全部で約24,000人である。
「歴史と自然」そして感動のロマン 隠岐の島町
隠岐の島町は歴史と自然の宝庫。島を、隠岐の島町役場観光商工係主幹上川清さんに案内していただきました。「壇鏡(だんきょう)の滝」、樹齢600年と言われる「かぶら杉」、「玉若酢命神社」や「白島海岸」とみて歩き、壮大な自然や歴史を堪能しました。 そしてお目当ての「八朔(はっさく)牛突き大会」。島内だけでなく出雲や松江、関西方面からのお客様で会場は熱気に溢れていました。 子供達の踊りや、牛を引く人たちの甚句の声が会場を盛り上げ、牛たちの闘いが始まりました。その迫力は凄い物でした。 そして夕刻にはローソク岩を遊覧するという贅沢なコース。揺れる船の上から見る奇岩は乗り合わせた観光客の間から大きなため息と歓声が聞こえ、しばしの間幻想的な世界に。 「隠岐は絵の島花の島。里にゃ人情の花が咲く」(しげさ節)まさにその通りの隠岐の島町でした。 |
貴乃花親方、協会に「自分は間違ってない」|日テレNEWS24www.news24.jp/articles/2017/12/27/07381579.html - キャッシュ
1日前 - 元横綱・日馬富士の傷害事件をめぐり、貴乃花親方が日本相撲協会の聞き取りに、「 自分は間違っていない」などと話していることがわかった。 貴乃花親方は、事件を把握 したあと、警察に被害届を出す一方で、協会に報告していなかったことなどが問題視され ている。これについて貴乃花親方は、協会側の聴取に「自分の弟子がやられて第三者を 巻き込んだ恐れがある」「自分で調べてわからないから、警察に行った」という趣旨の話 をしていることがわかった。 さらに、「警察から協会に伝えた方がより正確」 ... www.news24.jp/articles/2017/12/21/07381080.html - キャッシュ
2017年12月21日 - 元横綱・日馬富士の傷害事件で、貴乃花親方が「警察から協会に事情を伝えた方がより 正確だ」などとする独自の言い分をまとめた文書を、日本相撲協会の理事会に提出し ていたことがわかった。 biz-journal.jp > ... > 日馬富士暴行、貴乃花親方が正しい - キャッシュ
2017年11月24日 - 殴られたら、まず警察へ行く. 事件を受けて、貴乃花親方が警察に被害届を出したことに 批判的な論調がある。東京相撲記者クラブ会友の杉山邦博氏は、16日放送の『情報 ライブ ミヤネ屋』(読売テレビ)で、次のように指摘した。 「貴乃花さんは巡業全体を掌握 すべき立場です。その過程で起きた出来事ですね。警察に被害届を出した事実がある 以上、重役として協会トップはじめ、親方や理事らに相談や報告するなり、話を通して いないとおかしいんです」. 確かに警察への届け出の後に速やかに協会に報告 ... www.sankei.com/premium/news/.../prm1711280007-n1.html
2017年11月28日 - 漏れ伝わってくるのは関係者からの情報ばかりで、本人はほとんど口を開かない。現役 時代に「平成の大横綱」として22度の優勝を重ねたスターはなぜ沈黙を続けるのか。 九州場所3日目に一部報道で暴行問題が表面化してからは、貴乃花親方が福岡国際 センターへ出入りするたびに数十人の記者とカメラマンが取り囲み、貴ノ岩関の現状や 何も語らない理由などについて毎日問いかけた。 しかし、貴乃花親方は17日に報道陣 から「警察の捜査に任せるのか」と聞かれ「そう、そう、そう」と口にした程度。 www.j-cast.com/tv/2017/12/25317477.html - キャッシュ
2017年12月25日 - 元横綱・日馬富士の暴行傷害事件。日本相撲協会の臨時理事会で提出された報告書 が、同時に配られた貴乃花親方の署名入り文書と食い違っていることが発覚し、物議を 醸している。協会の危機管理委員会が作成した報告書では、貴乃花親方が巡業部長で ありながら「一切(協会に)報告せず」に鳥取県警に被害届を提出したことを問題視した。 www.asahi.com/.../ASKCP4DKHKCPUTQP00R.html - キャッシュ
2017年11月21日 - 大相撲の横綱日馬富士(33)が幕内貴ノ岩(27)に暴行を加えた問題で、日本相撲協会 の危機管理委員会(委員長=高野利雄・元名古屋高検検事長 |
ギリシャの経済産業第一次産業
オリーブの木、タソス島にて。 詳細は「:en:Agriculture in Greece」を参照
また、コメの生産量は同第2位の229.5千トン、オリーブの生産量も同第2位の147.5千トンであった。イチジクの生産量は同第3位の11千トン、スイカは578.4千トンであった。また、たばこの生産量は同第4位の22千トンであった[1] 。国内総生産(GDP)に占める農業の割合は3.3%、労働人口の12%を占める。
ギリシャは欧州連合の共通農業政策における便益を享受している国の一つである。ギリシャが欧州連合の前身である欧州共同体(EC)に参加する際に、農業のインフラを整備した結果、農業生産高は上昇した。2000年から2007年にかけてギリシャにおける有機農業の生産高は885%上昇し、欧州連合内で最も高い上昇率であった 。
2007年のギリシャの地中海における漁獲生産高は85,493トンであり欧州連合内第3位で約19%を占める。また、地中海における漁船保有量は同第1位であり、全体の漁獲生産高は87,461千トンであり同11位である。
第二次産業第三次産業「ギリシャの観光」も参照
公共部門 ギリシャには公務員が約100万人おり、総人口の約10%、全労働人口の25%を占めている。
ギリシャ経済危機 (2010年-)
2011年3月29日にアテネで行われた、緊縮財政の反対デモ。主催者発表では、10万人が参加したとされる。 詳細は「2010年欧州ソブリン危機」および「:en:2010–2012 Greek protests」を参照
2009年10月、ギリシャにおいて政権交代が行われ、ゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウ新政権(全ギリシャ社会主義運動)下で旧政権(新民主主義党)が行ってきた財政赤字の隠蔽が明らかになった。従来、ギリシャの財政赤字は、GDPの4%程度と発表していたが、実際は13%近くに膨らみ、債務残高も国内総生産の113%にのぼっていた。
2010年1月15日、財政赤字を対GDP比2.8%以下にするなどとした3カ年財政健全化計画を閣議で発表するが楽観的な経済成長が前提であった。格付け会社は、相次いでギリシャ国債の格付けを引き下げ、債務不履行の不安からギリシャ国債が暴落した。株価も影響を受け、世界各国の平均株価が下落し、ユーロも多くの通貨との間で下落した[11]。
ギリシャは、こうしたルールを破ることとなったため、欧州各国が協調して問題に取り組むこととなったが、ドイツなどとの間で足並みの乱れも見られた。欧州では、ギリシャのほか、スペインやポルトガルなども財政赤字の拡大に苦しんでおり、こうした国へ飛び火することも懸念されたためである。
2010年4月にユーロスタットが発表した財政赤字は2009年10月に発表された13%近くではなく13.6%であることが発表された。2010年2月から断続的にストライキ、デモが行われており2月と3月には追加の財政再建策撤回を求めてギリシャ労働総同盟・ギリシャ公務員連合が24時間のゼネラル・ストライキを行い275万人が参加した。
メーデーのデモが行われデモ隊と警官隊が衝突、けが人が出る事態となる。5月5日に行われたデモでは火炎瓶が銀行に投げ入れられ銀行員に死者が出る事件となった。犯行は無政府主義者とされている。
2011年9月28日、欧州委員会・国際通貨基金(IMF)・欧州中央銀行(ECB)の3機関(トロイカ)で構成される合同調査団はアテネに戻り、ギリシャがデフォルト(債務不履行)回避に必要な次回融資を受けるにふさわしいかを判断するため、同国政府が最近合意した新たな緊縮措置や民営化計画の進捗について綿密に調査する見通しとなった。
10月27日、欧州諸国は債務危機に対応するために、「ギリシャ債務の民間投資家の損失負担を50%とし、欧州金融安定ファシリティの融資能力を拡充するほか、2012年6月30日まで銀行の資本増強を決めた」ものの、パパンドレウ首相が11月1日に第2次支援策の受け入れについて国民投票を実施すると発言したために、金融市場は再び不安定化[24]、内外での反発が強まった。11月2日にはアンゲラ・メルケル、ニコラ・サルコジの独仏首脳がパパンドレウ首相に対し、支援凍結とユーロ離脱をちらつかせながら圧力をかけ事態収拾に動いた。
11月4日に国民投票を撤回[27]、翌11月5日にはパパンドレウ内閣の信任投票で僅差ながらも信任された[28]ものの、大連立交渉に失敗しパパンドレウは首相を辞任。11月11日、前欧州中央銀行副総裁のルーカス・パパデモスを首班とする大連立政権が発足した。このとき総選挙を2012年に繰り上げ実施することで連立政権内の合意ができていた。2012年5月ギリシャ議会総選挙では財政緊縮反対を掲げる左翼政党が大幅に躍進。連立交渉がまとまらず、翌月に再選挙(2012年6月ギリシャ議会総選挙)が行われることとなった。緊縮財政政策について政党により賛否がはっきりしているため、一連の選挙結果は欧州連合(EU)による金融支援を受けるのに不可欠である財政緊縮を堅持するか否かの動向に直結することから世界より注視されたが、6月の選挙では財政緊縮支持派の第1党が票を伸ばし連立政権の樹立に成功したことで、ようやく事態は沈静化へと向かうこととなった。
この一連の経済危機とその対策の不手際により、ギリシャの実質的な国内総生産は2009年から2012年の間に17%減少した。
財政問題放漫な財政運営が続いた理由について白井さゆりは以下のように指摘している。
ギリシャ国民の納税意識については、様々な評論家等が言及を行っているが、2012年5月、国際通貨基金の専務理事が「ギリシャ人はみんな税金逃れをしようとしている」と発言した際には、ギリシャ国民から大きな反発を買っている[31]。
ギリシャ国債
ギリシャ危機に救世主? 「借金、工面してもよい」と示唆=中国首相2015-06-30 15:14
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