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オットは萩市とその周辺の世界遺産物件が見たいという。
ワタシはそのお隣県、島根で自分のルーツ探しをしたい。
・・・そういう目的の旅行の記録です。
※本記事はとても個人的な内容となってます。ご興味ありましたらお読みください※
【 前の記事より続き 】
2017年5月15日(月)
江戸時代に現・島根県の浜田藩士だったこにゃくう実家先祖。
過去記事で綴ったような「事件」が藩内で起き、
藩主松平家もろとも、遠く福島の棚倉藩へ懲罰的転封になりました。
実家父が書き残した先祖の記録によると・・・
なぜだか、実家・島崎家は藩主に残留を願い出て
「石州那賀群郷田村に転居した」
と、父は書いている。
さらに
「此処には天保六年から嘉永元年まで十三年間居住していたのである」
「現在で言う残務整理か、一身上の都合か」
と、実家父も理由が分からなかったらしい。 武士って藩で団体行動しなくてよかったのかしら?
郷田村ってところで13年も何して暮らしていたのかしら?
石州郷田村。
検索すれば、今の江津本町という町だと即わかる今の時代は便利だわ。
旅の最後にその町に行ってみました。
(江津市HP)
※「旧江津町役場本庁跡」 町の中心がここで、今は観光拠点になっているようだ※
ワタシの先祖の足跡探しに協力してくださった
過去記事に登場のT.Oさん。
地元の歴史研究家です。
旅行出発前にお電話した際、郷田村の件も訊いてみた。
こにゃ 「浜田藩士だった先祖は棚倉に行かず、13年間郷田村に住んでいたそうなんですけど」
T.Oさん 「浜田藩は6万石。移動先の棚倉藩は自称5万石と言いますが実際は3万石程度でしょう。
全員は連れていけなくてそれで残されたという仮説はどうでしょう?」
こにゃ 「なるほどー」
T.Oさん 「それにしてもおかしな話ですね。郷田村は今の江津本町ですが
あそこは天領なので、武士は住めませんよ。住むところなど無いはずなんだが・・・」
「天領」とは幕府の直轄地の意です。
江津本町の町民にとって
「天領だった」というのは大きなアイデンティティーなのでしょう。
ところで
江戸期から現在までのこにゃくう実家・島崎家系図はこんなかんじ
このうち、
郷田村に住んでいたのは梅五郎&菊夫妻と
息子の景烈(かげつら)くん。
(とその兄弟)
この郷田村在住の間に
景烈くん(幼名・梅太郎)は嫁をもらっています。
「弘化三年(1846年)景烈十八歳」
「郷田村の豪商、沖田屋慎一の次女サダを娶る」
沖田サダちゃん。
ワタシのひいひいおばあちゃんだ。
浜田市図書館で浜田藩士の資料を探しながら
同時に旧郷田村の資料を探していた時
『石見江津の東向寺の地獄絵図を見て:江津本町の「古地図」を読む』
横田彌太郎 著
という本をめくっていて
偶然、「沖田屋慎一」の名前を見つけました。
同姓同名?
息が止まりそうでした。
沖田屋は郷田村で廻船業を営み、莫大な財産を成した商家で、
慎一さんはその家の10代目なんだそうです。
サダちゃんはその人のお嬢さん、ということになります。
著書内には『沖田屋一族では代々、浜田藩士との縁組が多くあり』
という記述が続いていて、これはもう同姓同名じゃないと確信しました。
豪商のお嬢さんがなんでお嫁に来てくれたのだろう?
そもそも、ウチの先祖は「竹島事件」でお叱りを受けた家だぞ?
謎だぁ。
沖田屋というのは屋号であって
苗字は「横田」だとその本には書いてある。
沖田サダではなく横田サダちゃんだったのでした。
そしてこの本の著者、横田彌太郎氏こそが
沖田屋こと横田家の現在の当主さん。
げ。
この人とワタシ、遠い親戚だわ。
横田彌太郎氏のひいひい・・・位のおじいちゃんがサダちゃんの兄か弟です。
横田家は現存していました。
地図で確認するとすぐそこ。
見てみたい!
ドキドキしながら進んで行くと・・・
街歩きの案内パンフレットにも「江津本町のみどころ」のひとつとして
掲載されています。
ど、どうする?
「玄関チャイムを押してみる?」 (オット)
いや、ダメでしょ。
急に現れて「こんにちは。遠い親戚です」って
それって、ナニ詐欺だよ(笑)
明治16年(1883年)に建てられた母屋で
江戸期の物ではないそうです。
立派な瓦がどっしり豪快ですが
今は静かで、人の出入りが多い商家だったのがイメージできません。
でも、
へー、こんな立派な敷地のお宅から
実家に嫁いできてくれた女の子がワタシの先祖なんだー、と思うと
ついついいつまでも眺めていたくなりました。
海運の町として栄えた江津本町には
見ごたえのある建築物が点在しているので散策してみよう。
北前船の寄港地であり、米の積出港。
しかも天領。
江戸期のこの町の、いったいどこに先祖一家は住んでいたのかしら?
福島県棚倉藩へ、遅れて転居していきます。
長い長い道中だったことでしょう。
その時には旧姓横田サダちゃんも一緒です。
『郷田村埋蔵金伝説』
棚倉藩に引越すにあたり、家財の全部
手持ちの現金の全てを運ぶことが難しかったそうです。
「また浜田に戻ってくることを期待しよう」
と思ったのか、実家当主だった島崎梅五郎こと秀恭は
郷田村のどこかに金銀財宝を埋めた、というのです。
※二楽閣跡(にらくかく):亀山という小高い山の上にあった、もう一軒の豪商・飯田家の別邸の跡※
島崎家は1868年に明治維新を迎えます。
つまり、武士という職業からイッキに無職。
生活に困窮するようになったとき
「郷田村にお宝埋めたよ」
島崎梅五郎(秀恭)さんのメモ書きと財宝埋蔵地点の地図が出てきたんだそうです。
(ワタクシのひいおじいちゃん)
東京で警察官になりました。
相致さんは明治16年、遠く郷田村まで発掘の旅に来ます。
その時、郷田村で宿泊させてくれた人の名前が書き遺されていました。
「横田彌吉郎さん」
(彼は先述の本の著者・横田彌太郎 さんのおじいさんかも?)
こにゃくう父は、先祖の来歴を綴った中に
「(横田家と)島崎家の関係は定かでない」
なんて書いてます。
(おとうさん!私突き止めたよ。横田家はサダさんの実家、沖田屋のことだったよ)
「沖田屋でご馳走になった」
「有福温泉にも行った」
「浜田に残してきた先祖の墓参りもした」
実家には、楽しげな内容の「相致の埋蔵金発掘旅」の旅日記が残っています。
(現代文じゃないので私にはまったく読めませんw)
※この旅の後、2018年3月末で廃線になってしまった三江線。一両編成でかわいい※
残念ながら
相致さんとその兄弟で1週間掘ったけど見つからなかったのだそうです。
そのお宝があれば、生活の立て直しができるのに・・・
そんな気持ちでがんばったのでしょうけれど
ま、フツー誰かが埋めるところを見ていて
速攻で掘り返されて横取りされているよねw
いい夢みさせてもらったわよね。
もちろん、ワタシにも埋蔵金の手がかりは掴めませんでした。
そんな先祖の思い出の町、島根県江津本町(旧郷田村)
普段はあまり観光客もいないらしく
オットとワタクシが町をうろうろしていたら
第1町人に声を掛けられました。
「私、江津本町の町おこしグループの者です。どちらからいらっしゃった?」
江戸時代の先祖がこの町に住んでいたというので見にきました。
浜田藩士だったのですけど。
と言ったら、この方も
「ここは天領だからね。浜田藩士が住むのは有り得ないよ」と、即答でした(笑)
町民の天領への自負ハンパなしw
ナニやってたんだろね、ウチの先祖。
※二楽閣から街を見おろす。黄色い瓦のおうちがおしゃれ※
「先祖は横田家からお嫁さんをもらっています」
と言ったら、
「横田さんならおじいちゃん(たぶん横田彌太郎 さんのこと)が一人で住んでるから
行ってみたら?
昨日も町を歩いているのに逢ったよ」(町人)
いや、アポなしは無理っしょ(笑)
で、横田家はナニで財産を築いたんですか?
「船問屋とね、たたらだね」 (町人)
「たたら!」
オットとワタクシ同時に声を合わせて驚く。
「たたら」という仕事を代々やっていた人々がいたことを
この旅の前半に、世界遺産の大分山たたら製鉄遺跡に行って(過去記事)
初めて知り、感動したところだったから。
サダさんの実家は、たたら業もやっていたんだー!
※黄色い瓦のお宅は病院でした※
郷田村の飢餓対策や開墾に私財を投じて
村の人達を救済することに努めたのだ、と教えてくれました。
遠い遠い親戚だけど
今でも町民にリスペクトされているお家とご縁があると知って
ちょっと嬉しいこにゃくうでした。
歴史あるモチーフを丁寧に残そうとしている町で
今はマイナーだけど
観光地としてのポテンシャルは高い町だと感じました。
けっきょく
先祖一家が13年間ナニをしていたのか分からなかったし
豪商のお嬢様がお嫁に来てくれた理由も分からなかったし
埋蔵金の行方も謎のまま。
ここは勇気を出して横田彌太郎さんにアポを執って
もう一度来なくちゃなー、と思いつつ江津本町を離れました。
※長文へのおつきあいありがとうございました※
【 つづく :出雲空港から帰ります 】
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セルフで「ファミリーヒストリー」
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オットは萩市とその周辺の世界遺産物件が見たいという。
ワタシはそのお隣県、島根で自分のルーツ探しをしたい。
・・・そういう目的の旅行の記録です。 2017年5月13日(土)
島根県浜田市での先祖の足跡巡りやってます。
ウチの家系図、ザッとこんなの。
個人情報タレ流しですわw
最後に浜田市立図書館に寄ってみよう、と。
もしかしたら、先祖・島崎相親の名前が
地元資料のどこかにあるかもしれないじゃない?
想定外に立派な図書館でびっくりしたわ。
図書館が充実した町は良い町、とワタシの中で認定されます。
「地域資料コーナー」
地元資料が充実しているのでまずはここを探ってみよう。
浜田の歴史研究グループが発行している「亀山」という機関紙を閲覧しつつ
「竹島事件」を多方面から研究した記録を繰っていた時です・・・
竹島事件:浜田藩が日本海沖の竹島で朝鮮や東南アジア諸国と密貿易をしていたのがバレたスキャンダル
松平周防守は浜田藩主さまです。
「浜田藩の大阪(坂)蔵屋敷かー。
先祖の相親さんも勘定方やってて大阪に頻繁に行ってた、って聞いたなー」
と、軽い気持ちで流し読みしていたところ・・・
「島崎(嶋崎)」の名前発見。
今回捜索した島崎相親さんの長男、秀恭こと梅五郎さんの名前です。
「大阪御屋敷御雑用方」
へ〜え!
雑用方・・・一番下っ端の書記官かなー?
しかし、顔も知らない先祖(の名前)と島根の図書館で初対面した歓喜
は続く記述で「えっ?」 (汗)
![]() に変わりました。
大阪蔵屋敷勤務の島崎梅五郎さんは
浜田藩のスキャンダル、竹島事件に於いて
『大阪で、資金協力してくれる豪商を実行役の船乗り・今津屋八右衛門に紹介した』
と書かれていたのでした。
『大阪蔵屋敷は竹島一件に関して銀主さがしと云う重要な役目をになっていたのである』
と森須和男氏の文章は続きます。
スミマセン、それ私のひいひいひい祖父さんですっ!
「先祖の藩はアンラッキーなことに、密貿易がバレてね。
石高少ない棚倉藩に左遷させられたんだよ」
と父から聞かされていた幼少のこにゃくう。
「殿様のせいで迷惑だったねー」
ってな感想を持つ子どもだったのだが
なんてこった、自分の先祖も事件の一味だったんじゃん!
後日、「嶋崎梅五郎」で検索したら
ゾロゾロ出てきて文字通り、震えました。
ワタシも、ワタシの父も知らなかった先祖の過去。
嶋丈太郎さんという方が竹島事件を描いた小説『海流の涯(はて)』
が検索でヒットしました。。
作中で、ひと言だけながらセリフを吐く梅五郎さんに
「ご先祖様がこんなところに居る!」
と、なんとも奇妙な気持ちになりました。
出世すると人には言えない仕事も抱え込まなきゃならなくなるのは
今も200年前もいっしょだね。
梅五郎さんは藩の命令に従っただけ、と思いたい。
『甲子夜話』という江戸時代の随筆を読むと
この事件に関わった人間の処罰と、判決文が出ています。
家老の岡田さんと重鎮の松井さんは切腹。
勘定方上司の橋本三兵衛さんは斬首。
実行犯、というよりも密貿易をやらされた船乗り八右衛門さんも斬首。
藩主は老中解任して永蟄居。
藩は棚倉藩(現・福島県棚倉市)に左遷。 ※本丸から城の裏手へ行ってみる※
島崎梅五郎さんに下った処罰は「押込め」と書かれています。
押込め・・・? ぐぐったところ
監禁でしょうか。牢ではなく屋敷内に軟禁です。
20日・30日・50日・100日の4コースの刑期があったそうです。
梅五郎さんの場合、どの期間だったのかまでは記述されていません。
切腹に比べれば軽い罰で済んだ?とは言えそうです。
でも、
上司や知り合いの船乗りさんの命が絶たれたことは
梅五郎さんにはショックな出来事だったと想像します。
梅五郎さんが勧誘した大阪商人さん達のその後も気になります。
甲子夜話を見ると「大阪三郷を搆江戸払」って・・・
これって大阪エリアから追放して江戸で暮らせってことだよね?
今まで大阪で無事に商売をやっていたのに、そんな・・・酷い。
事件後、皆さんがどうなったのか?
資料はまだ見つけていません。
ワタクシ、図書館でひとり冷や水を掛けられたような気持になりました。
『棚倉時代には、浜田の事に触れるのはタブーだったようで』 (亀山12号)
と記述している資料もありました。
浜田で起きたことは
実家・島崎家でも封印されてしまったのかもしれません。
それで事件の当事者だった真相は、父にも伝わっていなかったのね・・・
※浜田城の裏門跡。家臣は通常この門から出勤したそうです。今は人家が建ってます※
現在の浜田市では、
竹島事件で落命した人達の名誉回復が行われているそうです。
「言うてみれば、藩の財政を豊かにするには
増税と年貢引き上げをすれば手っ取り早いのに
庶民に負担掛けることなく、自分らが犠牲になって
藩主様のリクエストに応えようとしたのだから
それって庶民の英雄だったってことじゃない?」
・・・という視点に変わったのだそうです。
時代が変われば歴史観も変わるのですね。
※浜田城の裏手は静かな入り江。釣りに最適っぽい!※
浜田市内には橋本三兵衛の石碑や
今津屋八右衛門の慰霊碑があります。
※浜田市HPより:今津屋八右衛門慰霊碑※
今回は史実を知らなかったので立ち寄りませんでしたが
次回、浜田に行った時には
慰霊碑に手を合わせなくては、と思っています。
資料を漁って浜田市立中央図書館に2時間!
その間、閲覧コーナーで読書をして待っていてくれたオットよ、
協力ありがとう。
おかげでセルフ・ファミリーヒストリーの旅は大収穫でしたよ。
さて、今夜は浜田近郊の有福温泉に宿泊です。
【 つづく 】 |
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オットは萩市とその周辺の世界遺産物件が見たいという。
ワタシはそのお隣県、島根で自分のルーツ探しをしたい。
・・・そういう目的の旅行の記録です。 【 前の記事より続き 】
2017年5月13日(土)
浜田城をひと巡りした後、
もう一ヵ所行ってみたい場所が。
先祖、島崎相親(スケチカ)さんの経歴に
『1784年 (32才) 跡市組手代』と。
アトイチって何?
検索したところ
浜田市街から距離20kmにある
現・江津市 跡市町のことらしい。
行ってみましょう。
こにゃくう、下準備はしております。
旅行前に江津市図書館にメールして
地元の歴史に詳しいヒトを紹介していただきました。
『跡市の歴史に詳しいT.Oさんにお問い合わせの件を伝えました。
跡市の歴史と言えばこの方です!』 (図書館の方)
旅行前にT.Oさんお電話させていただいてインタビューいたしました。
こにゃ 「跡市組、って何でしょう?
先祖はそこで仕事をしていたらしいのですが」
T.Oさん 「浜田藩は領内を7つの組に分けて管理していました。
跡市組、三隅組、市木組、原井組、出羽組、益田組、匹見組の7つです。
そのうちの匹見以外の6ヵ所に代官所を置いていました。」
こにゃ 「じゃ、先祖はそこで代官所役人をやっていたと?」
T.Oさん 「代官所の構成はこうです。
代官が1人。
そして、手代が2人。
この3人は武士で、藩から派遣されてきた人達です。
貴方の先祖はこの手代ですね。
その他、書記を1名、門番・雑用1、2名を現地採用って体制です」
T.Oさん 「手代屋敷、というのがありましてね。
代官所に付属しているのですが。そこに住み込みです。
単身赴任のこともあったでしょうね」
うわー。
さすが地元の古老です!
20㎞離れた城下から派遣されて
単身で住込みしていた先祖の姿が見えた気がします。
T.Oさん 「我々、地元の歴史研究グループで
代官所があった場所に石碑を建てましたから 行ったら探してみてください。
山の中腹には手代屋敷の石垣跡だけがありますよ」
代官所はどこにあったのだろう?
とりあえず、郵便局に駐車して
探索開始。
この人を逃がしたら誰にも聞けないんじゃないか、ってくらい
人の気配が薄い町だったので
突撃です!
「この辺に、江戸時代にあった代官所の跡を探しているんですが
ご存じありませんか?」
「は?ココよ」 (地元女性)
まさかのビンゴ!
この郵便局の裏手の斜面が、代官所があった場所だと仰る。
今はこんなだけどね、私が子供のころはまだまだ賑やかな町だったのよ。
他の町には無いお店とか食堂がこの通りには並んでいて。
遠くからバスに乗って買い物に来る人もいたし
お祭りも賑やかだったわ」
日本海側と広島側を繋ぐ街道と
浜田藩内を東西に移動する街道の交差点が、この跡市だったんだね。
江戸時代・・・いや、もっと前から跡市は人と物資移動の要衝だった、と。
だから浜田藩は代官所を置いたのか〜。
女性のおはなしでガッテンできました!
「ご先祖様、僻地に左遷だったのでわ・・・」
などと心配しちゃいましたよ。
ごめんなさい、ご先祖様w
車社会になるまでは
この代官所前の道が幹線道路だったんですね。
T.Oさんのグループが建てたという石碑はこれですね。
先祖の職場が200年以上経っても
地元の歴史のひとコマになっているのって有りがたいです。
なんとも判別し難いのですけど
正面左手のこの辺りは、一段高くなっており
近年まで誰かが土地利用していた気配が残ってます。
これが手代屋敷跡、なのかも?しれません。
この右側が広めの敷地になっているので
メインの代官所建物はこのあたりかな〜?
火事の跡がナマナマしく残っていました。
「ここね、住んでた人がいたんだけど火事で焼けちゃって」
(地元女性)
ひ〜。
焼け跡そのまんま放置ってスゴイなー。
イノシシの仕掛け罠越しの代官所跡石碑。
・・・からのバックにエグイ廃屋w
カオスなスポットとなっております (笑)
でもね、高台からの風景はなかなかですよ。
代官所からの山の景色。
200年前と変わらないのかもね。
我が家に残る記録では
1784年〜1793年まで赴任していたと思われます。
ご先祖・島崎相親さんの単身赴任先が確認できて満足満足。
(イノシシちゃん、危ないから来ないでね!)
【 つづく :地元図書館でファミリーヒストリー!】
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注:当記事、大変個人的なつまらない事しか書いてない上に長文です。
お付き合いくださる方は注意してお読みください。
オットは萩市とその周辺の世界遺産物件が見たいという。
ワタシはそのお隣県、島根で自分のルーツ探しをしたい。
・・・そういう目的の旅行の記録です。
【 前の記事より続き 】
2017年5月13日(土)
萩からレンタカーで2時間。
次の目的地、島根県浜田市へ。
ワタクシの人生で初島根県です。
日本海に面し、横に長い島根県。
出雲大社と松江城、玉造温泉あたりは
他県からの観光目的地になり得るでしょう。
でもさ〜
島根県浜田市に観光に来る人ってそうはいないよねw
私がこの町を旅先に選んだのは
浜田城が見てみたかったから。
2018年5月2日の拙ブログの記事に
というのがあります。
こにゃくう実家8代目は
江戸時代、岡崎藩に属していた寺の子として生まれています。
で、17才の時こにゃくう実家である島崎家の養子になりました。
今でも現存していた愛知県の寺、順覚寺に行ってみた・・・
という記事です。
※愛知県西尾市の順覚寺
実家先祖一家は岡崎城下住まいだったと思われ。
さて、寺の子から武士になって1年目の1769年。
岡崎藩主を務めていた殿さま、松平康福殿が転勤になっちゃいます。
幕藩体制でいうところの「転封」ですね。
国替え先は浜田藩。
現在の島根県浜田市です。
相親くん、18才にして生まれ育った岡崎とさよならしなければいけません。
現代と違って、一度離れたらもう二度と
自分の都合で岡崎に来ることはできなかったでしょう。
養子にきたばっかりに
1年後には他所の国に行くなんて
心細かったんじゃないかな。
さて、以後こにゃくう実家の浜田藩時代が始まります。
浜田城は幕末に燃えており
建物は何も残っていません。
城があった亀山に礎石が残るだけです。
城はこの坂の上のようですね。
登ってみましょう。
みごとに何も無くて笑うわ。
せっかく来たのに〜ぃ
NHKの電波塔、島村抱月碑(この辺の出身だったらしい)、訳わかんない神社
知らない政治家の胸像・・・
などが置かれているだけで
お城の風情はゼロだわ。
浜田城は、幕末に長州藩の大村益次郎軍団に包囲されまして
城から逃げ出すとき、自ら城を焼いているんですね。
だからなんにも無いの。
石碑とか電波塔を置くのは空き地の有効活用かなw
それでも「浜田城跡」の文字を見れば
この空間のどこかで私の先祖は仕事をしていたんだろうね、と思う。
まだ奥がありそうなので進んでみましょ。
こにゃくう実家・島崎家は
全然、大した家じゃなかったんですよ。
身分は足軽です。
武士ランクで言ったら一番下。
サムライ最下層。
武士は名乗れるけどお給料(扶持米)は少なく
大したお仕事も担当させてもらえません。
いわば、非正規社員か万年平社員みたいなポジション?
それでも、江戸時代の武士は人口の7%しかいませんでしたから
身分があるだけでもマシな方だったのかな。
わーい、お城っぽい物が現れましたよ。
説明書きによると、浜田城の門ではないし、
もともとここに門はなかった、と。
『明治3年の浜田県庁の門。さらにその前は津和野城の門だったもの』
合同庁舎の移転に伴い、昭和42年にここに移築されたらしい。
でも、お城ムードが盛り上がるアイテムとしていいネ。
門をくぐった先からは
石段や石垣がそれっぽく残っていますね。
三の丸、二の丸を登りつつ、本丸跡まで上ってみよう。
本丸までの行程画像を鬼張りしながら
こにゃくう先祖、松崎恒助あらため、島崎相親(スケチカ)君の
浜田藩士・職歴ものがたりを語らせていただきたい。
(出典ネタ元はこにゃくう実父の書付)
1772年。21才の時に養父である8代目が他界。
島崎家9代目を継ぎます。
継いだといっても足軽小頭の家なんですけどね。
で、32才に「御作事役」というお役目に付いています。
これが最初の昇格だったんだと思う。
で、御作事役ってナニ?
ぐぐったところ
城内の修理、藩内の神社仏閣の補修
・・・というお仕事らしい。
地味ですなw
庶務係って感じ?
こーいう石垣とか
業者さんに発注して修理をお願いしていたのかしらね。
だが、
実家に残る記録を読むと
これを皮切りに、どんどんいろんなお役目に付いていく。
1784年 (32才)跡市組手代
1793年 (42才)御勘定所見習い
1795年 (44才) 御勘定方
1798年 (47才) 御会所物書&元締役物書
1802年 (49才) 御勘定役&横目役、御山方
・・・ナニをする仕事なんだかさっぱり分かりませんけど
なんだか、彼に対していっぱい業務が降って来てる感があります。
江戸時代、仕事は代々の世襲だったのが
200年も経って制度疲労していたのでしょうか。
返って新参者の相親くんの方が勤勉で優れていたのかもしれませんな。
1808年、55才の時ついに足軽から脱出して
「徒士」の身分を手に入れています。
江戸時代、ひとくちに武士といっても
足軽と徒士の間には、身分の太〜い境界線があったのだそうです。
足軽は袴をはくことも許されない藩もあったそうですから。
世襲制度ガチガチの時代です。
足軽以上のラインを越えるって、大変だったんだろうなあ。
(※30分ほどで三の丸に到着)
私生活も充実し始めたご様子で
1822年には、長男の梅五郎くんが結婚。
そして、ご本人もさらにキャリアアップ。
1825年に 中小姓になってます。
チュウゴショウ、ってナニ?
どうやら、この身分以上だと藩主様にお目にかかって仕事するヒトになるっぽい。
(※二の丸に到着)
この頃、浜田藩主は松平康任氏に代替わりしています。
「役柄は藩主の茶道、花道のお相手、お伴」
だったと実家父が書いています。
3年前、こにゃくう実家を整理していたら
莫大な量の「茶席のスケッチ」が出てきまして
くにゃんくにゃんの文字、古文書状態なので
読めないんだけど、大量の茶席の記録であることは伝わった。
使った茶碗のスケッチ、茶軸、床の間に生けた花の絵まで
みっちり描かれていた。
たぶん、相親くんが殿や上役さんとの茶席を記録した物だろう。
「相親の茶道な日々ブログ」かなw
外食して美味しかった、とかってブログ書いている自分に
このDNAを感じるw
『(相親は)藩主より裃(カミシモ)を拝領し登城した』
と実家父は書いている。
実直で忠誠心が強いのが特徴だといわれる三河人。
その三河をルーツに持ったからかな?
低い身分から努力した先祖さまです。
ついでに長男の梅五郎くんは最初から徒士デビューで
32才の時に父親と同じ中小姓に取り立てられています。
(※樹木越しに松原浦が見える。きちんと整備したら海を眺めるビュースポットに成り得ると思う)
生誕の地、岡崎から遠い島根でがんばり
一族の豊かな暮らしを手に入れて
相親くんは1832年(天保2年)に浜田でお亡くなりになりました。
81才、江戸時代に於いては長生きですね。
(※何もない本丸。報国忠勇の碑と表示された銅像?の台座がポツンとあるだけ)
しかたない。これで妄想しておこうw
オットもよく付き合ってくれました。
オットが尋ねてきた。
「’正面の岬上には、浜田藩の為に鎖国の禁を犯して密貿易を行い
1836年に捕らえられて死罪になった今(会)津屋八右衛門を顕彰した
會津屋八右衛門頌徳碑があります’ってナニ?」
日本史では『竹島事件』として出てくるんだけど。
(竹島事件wiki)
浜田藩が竹島で朝鮮やジャワと密貿易やって財力を高めていたの。
それが幕府の隠密として浜田に来た間宮林蔵に見つかってね。
藩主は退位させられて、浜田藩から福島の棚倉藩に格下げさせられたの。
当然、我が家も棚倉に引っ越したんだよ。
相親はもう亡くなっていて、長男の梅五郎の頃かなー?
藩の石高も減っちゃうし、福島の寒〜い土地で苦労満載。
ウチもせっかく出世したのに、給料激減しちゃったんだって。
ここ、浜田城にいた頃が島崎家の一番いい時代だったのかもね。」
・・・と、こにゃくうが亡き父から繰り返し聞かされていた話をしてあげた。
間宮林蔵さえいなければ今頃ウチは・・・は、
亡き父の、(半分ジョークを含んだ)もしも話の鉄板でした。
今回、こうしてご先祖さまも見ただろう浜田城からの風景を眺められて満足満足。
【 つづく 】
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※当記事は非常に個人的なつまらない物でとなっております。
お付き合いいただける方はどーぞお読みください。
こーいう内容をネット上にアップするのはいかがなものかと思う。
自分のルーツ。
詳細に記述すればするほどまずいでしょ。
個人情報を晒したらダメなのは常識でしょ。
でも書くお。
ようやく探し、そして今でも探索中の自分のDNAのおはなし。
どこかに記しておかないと
忘れてしまいそうだから。
非常に筆マメな人で、
一家の来歴を一冊の書き物にして残していた。
先祖の来歴になど興味ナイ娘(ワタシ)と息子(兄です)が
いつか奇跡的に先祖の事を知りたくなった時の為に、とでも思ったのだろうか。
↑の父が書き残した「島崎家代々の人々」をめくっていた時。
『八代目登右衛門には男子がなく・・・(略)・・・』
参州 (三河国、今の愛知県)高落村順覚寺から養子をもらった
と書いてある。
ふーん・・・
八代目登右衛門の没年は安永元年、1772年。
ざっと240年前の話だね。
今は便利な世の中だ。
ワタシは目の前のPCに「高落 順覚寺」と入力してみた。
順覚寺、あった!
先祖八代目に後継ぎが無く
養子にもらった九代目。
その九代目はこの寺の子で
松崎恒助という少年だったらしい。
順覚寺、今でも現存していた〜(驚)
俄然、順覚寺に行ってみたくなった。
オットにつきあってもらって千葉から愛知県JR岡崎駅へ。
やや寂れ気味の駅ですなw
朝夕で1時間に2本、日中は1時間に1本という
少ないバス便だ。
すぐに見渡す限りの農地になる。
遠くを東海道新幹線が走っているのが見える。
田舎だなー。
240年前はどんな様子だったのだろう。
いや、農地って今よりずっと大切だったから意外と人が多かったのかも?
バス停から歩いて10分ほどで
再び住宅地になる。ここが現在の「高落町」
240年前は「高落村」だった集落だね。
をを!
あれが現在の順覚寺です。
ワタシはここ順覚寺さんにお手紙を出した。
以下、その抜粋。
順覚寺さんの現ご住職からメールで返信が来た。
本日、手紙を受領しました。 順覚寺自体は江戸時代からあった。
が、代々の住職の血縁はもう途絶えてしまっている。
現ご住職もお父様が昭和62年にここの住職に就任した縁で
今、こうして住職をしているに過ぎない。
江戸時代の住職一家のことは
記録が火事で焼けてしまって何も分からない。
併せてお電話もくださった。
「住職を務めているが住まいは別で、お寺は無人寺です」
「江戸時代の火事で焼失した分もあるし、
伊勢湾台風(昭和34年)で寺自体もほとんど壊滅してしまいました。
過去帳一切もその時に流失してしまいました」
「江戸期はもっと敷地も広く、寺勢もあったと聞いています」
なるほど。
境内を徘徊させていただくわ。
建物も比較的新しいし
おっしゃる通り、江戸時代を偲ぶものは何もない。
残念だ。
確かに、この距離では大型台風が来たときは
即、水没だったでしょうね。
本堂を堅牢なコンクリート製にしたのも
伊勢湾台風の教訓からかしら。
江戸時代と変わらないか・・・な?
たぶん、10代後半くらいの年齢で
ワタシの実家、島崎家に養子に来たのだと推察する少年、
松崎恒助改め、島崎相親くん。(すけちかと読む)
貴方が見た風景はこれと一緒ですか?
同じ場所に立てただけでもうれしいな。
相親くんの実家跡は突き止めた。
この後、相親くんを追って
ワタシとオットは島根県浜田市に行きます。
それはまた後日・・・
(2015年12月14日訪問)
≪2018年5月22日追記:セルフ・ファミリーヒストリー浜田編書きました≫
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