年代的変遷と経過
古代(古墳、奈良、平安)
有史以前幾度となく富士山の噴火が繰り返され、大崩落あった御殿場の地ではあったが、次第に活動は収まり縄文、弥生時代には箱根山沿いに、人々が住み始めた。
古墳時代は近くの二枚橋古墳が造営されていた。発掘調査はされていないが、全長38m高さ4mのこの地域唯一の前方後円墳である。時代は確定できないが、最近話題の沼津の高尾山古墳(卑弥呼の時代の3世紀までさかのぼり、62mの前方後方墳で、土器の副葬が大変多く、しかも東海西部、北陸、近江、関東系の土器が発掘され、その規模は当時東日本では最大級と言われる。)の存在を考えると、沼津を中心とした海路陸路の古墳ロード、ネットワークがあり、この御殿場の地も古墳を造営できる、有力な王が存在していたことが考えられる。
資料①二枚橋古墳写真
奈良時代になると、和同5年(712)に編纂された古事記には、東国を遠征した日本武尊が、足柄峠で亡き妻を忍んで「吾妻はや!」と言ったと書かれている。
このころには、大和と東国とを結ぶ国家の重要な幹道(東海道)がこの地域を通っており、東国から九州への赴任を命じられた防人や、奈良に租税を運ぶたくさんの人たちが行きかったことだろう。
平安時代の寛仁4年(1020)更級日記によると、作者は足柄峠を超え、横走りの関(延喜式には駿河国6駅の内駅馬20頭で最大だったことが記されている。)を過ぎたところに、「岩下の泉」があったと記されている。
何れも場所は特定されていないが、この地域に駿河国随一の関、宿があり、旅人を癒した泉があったことを示している。
中世(鎌倉、室町)
東鑑には、建久4年(1193)源頼朝が、富士野で大規模な巻き狩りを行い、宿営(東田中)したことが記されている。
またこの時、曽我兄弟の仇討ちもあったことでも有名である。
現在市内には、巻き狩りにかかわる地名も多く見られる。(狩屋、矢場居、陣場、狩屋など)そして、駿河、伊豆、相模、甲斐をつなぐ、鎌倉街道が整備されていた。
その後この地域は有力御家人の大森氏が支配し、租税負担を軽くするため大沼鮎沢庄の地を伊勢神宮領として寄進し、この地域が御厨と呼ばれるようになった。範囲は現在の小山、裾野市も含み明神社も多い。
また建武2年(1335)室町幕府成立のきっかけとなった、足利尊氏と新田義貞軍の決戦が、足柄峠のふもとのこの地域で行われ、市内にも多くの戦死者を弔った知光院が伝えられている。
近世(戦国、江戸)
戦国時代には、この地は戦国大名今川氏に従って勢力を伸ばした、有力領主の葛山氏(大森氏が小田原に進出した後)が支配しており、永禄10年(1567)有名な武田軍への今川氏の塩荷の禁止の令が、葛山氏から当時の伝馬の村を支配していた、豪族の神山の武藤氏、茱萸沢の芹沢氏、竹之下(小山町)の鈴木氏に出されている。
当時すでに有力戦国大名、地域領主、豪族による地域の支配が確立してきて、関所、伝馬、宿も整い、領地安堵もされ、活発な交易、伝馬の管理もされていたことがわかる。
この地域はその後、三大戦国大名の今川、武田、後北条氏の争奪の地となり、興亡が繰り返されたが最終的には、慶長6年(1603)徳川家康が全国を統一し幕藩体制を確立するとともに乱世も終わった。新しい領主の元、村々の検地、支配体制確立、農地開拓、産業奨励、街道、交通、施設の整備が急速に進められていった。
この御殿場地区には、室町時代より有力だった二岡権現(箱根仙石原の関所を支配)を管理する宝持院があった。しかし戦国時代になると戦いに敗れた武将が落ち延びて、勝間田、長田、小宮山、土屋氏など御殿場市内に住むようになった。御殿場地区(杉中村)には藤方家が(伊勢の有力武士で戦乱を逃れ移り住み)住みつき、開発してきていた。幕府、藩もこうした浪人者・落人を開発、支配に積極的に登用した。
家康は全国の交通、交易の支配のため街道の宿場、関、伝馬の充実を図った。東海道は元箱根を通ることとし、要所には家康が利用する御殿や茶屋を設けた。近くの御殿には吉原(1593年に建てられ鷹狩を家康はたびたび行う)、藤沢市(1596年建てられ193×112m四方の御殿、秀忠、家光も宿泊)、川崎市小杉などにも設けた。
御殿場区は閑散とした地域で吾妻が原と呼ばれ、交通の要所ではなかったが、頼朝の富士の巻き狩りゆかりの地でもあり、好きな鷹狩もでき、絶景の富士山を真正面に見える風光明媚なところなので、この地を気に入った家康が、駿府と江戸を結ぶ裏街道の整備と、鷹狩を兼ねた隠居所の御殿、茶屋を作ることを命じた。
これにより、元和2年(1617)沼津代官長野清道が、地域の有力者・芹沢将監に、御殿、御殿新町づくりを命じた。
約90×82m四方を土塁に囲まれた御殿に、用水路も整備し、茶屋、稲荷神社も造り、合わせて周りの村から人々を集め、新町の商店、宿泊施設を伴う街づくりを整えていった。
資料①御殿想像配置図参照(御殿場郷土史参照)
しかし家康の死後御殿は使われなくなり、領主も次々と変わっていきさびれていった。
寛永10年(1633)稲葉氏(春日局の一族)の支配となり、藩主正則は8回もこの地方の巡見をした。御殿場村で狩りをし、御殿を修復して宿泊をし、村々の検地、支配、街の施設設備の整備、商業、産業の育成に力を入れた。
延宝6年(1678)御殿場村鑑には、「村では商いをし、薪取、駄賃稼ぎをし、御屋敷、馬場、御蔵の修理、管理、役人の接待など負担をした・・・。」と書かれていて、藩主の意図もあり、この地域の中心的施設を持った藩の支配、交易の街となっていった。伊勢屋、夷屋などの有力商人も育ってきた。
延宝8年(1680)村の構成を見ると、本百姓26人、無田86人となっている。無田の人とは無高の農民であるが、ここでは田畑を持たない商人であると考えられる。次に多い印野村が本百姓33人無田30人であるので、その特色が際立っている。
貞享3年(1686)譜代大名の大久保氏が小田原領主となった。そして華やかな文化の花開く元禄時代ともなると武士も消費支出も増え、小田原藩の財政も厳しくなり、御殿場、新橋村は藩士に600両の貸し出し、その返済も滞っていた。御殿は全く使われず破却され、土地は払い下げられた。
そして宝永4年(1707)富士宝永山の爆発が起こり、御殿場村でも70cmほどの砂が降り、甚大な被害を及ぼし、一時幕府領に編入された。近くの新橋村では、半数以上が飢え、30%の人が他出(移転や出稼ぎ)した。御殿場村も代官伊奈忠順、子忠みちが、砂取りや御救い金支給などの支援をした。
ようやく火山の被害から立ち直ってきた享保3年(1718)に、近江から日野椀を天秤棒で担いで売り歩いていた初代兵右衛門が、伊勢屋の土地を借り受けて日野屋を開いた。
やがて食料、茶、砂糖、瀬戸物、紙、衣料まで扱い、寛政12年(1800)名主平右衛門から酒株を譲り受けて酒造を始めた。支店を増やし小田原にも店を出し、天保年間には酒造高950石となった。地域の豪商として藩から商売特権を与えられ財力を蓄えていった。
そして御殿場村は地域の産業の発展と共に、ますます人の行き来も盛んとなり、小田原藩の支配の要として、また駿河、伊豆、相模、甲州(郡内)を繋ぐ要地として、産業、商業、交易、馬継、宿場、娯楽の中心的街として発展していった。
また将軍家や郡内に駿河のお茶を、この地を経由して輸送したので、お茶壺街道ともいわれていた。また庚申年ともなれば、富士参詣の道者の人々でも宿はあふれかえった。村のあずま神社は、豊かな財力を基に舞台などの興行も盛んで、祭礼の時期となれば参詣者も多かった。
延享2年(1746)の御殿場村明細には「高198石、高外れ御茶屋御殿跡、あずま神社(コケラ葺き、旧正月、6月、9月17日には他所からの参詣者も数多く・・)、脇神社、御高札場、並木があり、生業は茶商い、小間物取引、往還御用人馬継、富士道者駄賃稼ぎ・・」などが記されている。
しかし一方ではこれまでの権益を有していた、周りの村との争いも起こる。享保16年(1731)市などが開かれ、交通の要所でもあった古沢村との富士道者宿泊をめぐる争い、文化3年(1806)戦国時代から伝馬の宿でもあった、茱萸沢村との馬継の争いが起き、代官の決裁を仰ぎ、御殿場村の権益を守っている。
その後明和3年(1766)、御殿跡に東照大権現が祀られ幕府、藩の繁栄の祈願をする。寛政2年(1790)に藤方重兵衛らは世話人となり、手水鉢、石燈籠などを寄進した。(現在も残っている)
天明3年(1783)雨が降り続き不作となり、御殿場村でも、1反で下米1俵しかできず、蕨、草の根を食べ飢人多しという状況で、大困窮した地域農民500人が、箱根の関所まで行って小田原藩主に直訴した。わずかな減免はあったものの、厳しい裁決が下され、死罪1名、永牢になるものも出た。御殿場村では、「きぬや」が所払い、名主は10日の閉門など命ぜられた。萩原村では犠牲者を四相権現として祀った。
文化3年(1806)藩は、宿の困窮を助けるためと5年間に限り飯盛下女を置くことを許可した。藩内のものは遊興してはならないとしたが、約束は守られず幕末まで続けられた。
文 化4年(1807)には、3代目日野屋兵右衛門は、小田原藩から名主格を申し付けられ、文化14年には、冥加金50両を藩に献上し、その身一代限りで2人扶持を下付されている。幕末まで日野屋の貸付金は増え続け9000両にも上る。
そして天保4(1833)年から始まる大飢饉、疲弊、借金負債で、郡内(山梨)では3万人が打ちこわしに参加し、動員された武士に弾圧された。御殿場地域も竈新田村では、「藩で御救い米を支給するも、23名が死亡、捨て子も目立つ・・」など困窮し、神山村では流行り病も出て死者も多数出た。困窮による借財、返済不能、潰れ百姓もたくさん出た。
宝永噴火、天明の飢饉からまだ立ち直れず、小田原藩への年貢負担率は6割近くにもなり、重い負担に村々は疲弊していった。御殿場村の極難戸数は、37件の23.4%で、他の村よりも少ないが、支援を受けた28人の借財は平均12両、天保11年(1840)では、潰れと言われる空き家が20軒で12%にも達していた。
この時小田原藩は二宮尊徳の支援・指導(仕法)を受けているが、御殿場村でもその仕法を受け、日野屋はその基金となる報徳加入金に、仲間と共に計400両を拠出している。他にも10両以上拠出した家は16家で、百姓代の夷屋の藤吉(藤方家)も7両拠出する。
その貸し付けを受けた極難者たちの使用目的は、71件の内29件は商業で40%である。農業関係は7件で10%弱となっている。拠出金を受けた家は、仕法に従い質素、倹約、勤労に励み、日掛けの蓄財し返済をしていった。
金次郎は安民富国を掲げ、先ず農民など民が安心して暮らせるようにならなくては国も豊かにならない、己の分限に応じた質素倹約、勤労を進め、同じく支配者(武士)も質素倹約に努め、華美に陥ってはならないとした。
金次郎を信頼していた藩主の忠真が亡くなると、藩は金次郎の報徳仕法の打ち切りを命じた。自分たちも規制されることへの反発だった。しかしその後も新橋、二枚橋村などは、報徳積立てを続け、世話人が無利息の貸し出しで困窮者を支援し教えを守った。
金次郎や小田原藩家老大久保又右衛門とも親交があった穀物商の夷屋藤吉は、若いころから商売のため全国を旅し、俳諧に打ち込み雪中庵(芭蕉の後継者)の弟子となり雪窓人芙山と号し、嘉永3年(1850)に家業を息子に譲り、庵を永原に建て隠居し、牛負と号して俳諧に打ち込み、全国を旅し文化人と交流し、蚊牛など地域の俳句仲間と共に「みくりや集・みくりや八景」を編纂し版木で300余冊作り、俳諧を通して地域の文化発展にも貢献した。
資料②みくりや集写真(藤方家蔵)
同時期にはやはり雪中庵の弟子となった、上小林村の三井園蚊牛が、北海道まで旅をし、みちのく日記を残している。
こうして御殿場村は地域の交易の中心となり、日野屋や夷屋など有力商人たちは、飢饉災害資金を出して乗り切り、商業や文化面でも広くネットワークを作り、幕末まで冥加金納入、御用金貸付け、蔵米買い入れ、産物の販売独占など藩からの特権も得て、その力を蓄えていた。
弘化2年(1845)小田原藩の巡見使大久保氏や役人たちの村宿泊割り当て図面も残されている。20軒余りが記されていて、名主の日野屋忠助(商人、宿屋)、戎(夷屋、穀物商)の他、みのや、万屋、四文字屋などの宿が充てられている。
資料③巡見使宿泊配置図
現代(明治、大正、昭和)
幕末となり嘉永6年(1853)、米国の黒船来航、開国・和親・通商条約締結と激動の時を迎え、鳥羽伏見、函館の戦いを経て、徳川幕府は倒れ、王政復古・天皇親政の明治新政権が誕生する。慶応4年(1868)この地域も二岡神社の神主、須走の御師たちが中心となって駿東赤心隊を作り、東征する官軍を迎え、籠坂峠、箱根峠を越える官軍を警護した。
明治4年(1871)廃藩置県で静岡県となり、御殿場村も小田原藩時代の商業、伝馬、宿泊などの特権は廃止され、地租改正、養蚕の奨励など新たな政策が打ち出されてきた。明治初めの混乱期は物価の高騰や浪人者の横暴などもあった。そして日野屋は、小田原藩への融資9000両未回収など経営困難となった。
しかし日野屋は蓄えて財を使って、地租改正で税を収められない農民たちに土地抵当金融をし、その土地を手に入れ、大地主として小作料を蓄財し、債権、株投資、金融業などに投資した。その後関東大震災で大きな被害を受け、御殿場での商品商いからは撤退したが、酒造業を中心に経営を拡大、東京にも支店を出した。(富士戎などの銘柄を出す。)
政府により関所、馬継なども廃止され、陸運会社が設立された。新道も開発され、御殿場村を通っていた富士郡の物資も、板妻を通るようになり新たな交易・交通競争の時代となった。
また神仏分離令、国家神道のもと神社統制令が出され、明治10年(1877)御殿跡にあった家康を祭神とする東照宮大権現は、吾妻神社と合祀されて丸の内神社と改称、天照などの天尊系の祭神と共に祀られた。さらに明治29(1906)年には子神神社と合祀され、吾妻神社と改称され村社となった。
この神社の祭日は、元は1月16日に行われていたが、現在は4月3日となっている。御旅所を設け、世話人、古世話人、御加締(ミカジメ)の3役がそれぞれ6人ずつ、計18人で口上を述べたりする作法は日光東照宮と2か所だけで、古い祭礼の姿をそのまま保っている。資料④祭礼写真(四神、鈴狩り鉾、囃子、天狗、神輿、神主、世話人、役員、氏子など関係者など続く)
東照宮大権現には夷屋・藤方家が深く関わってきており、現在藤方家には吾妻神社として合祀された時に、破壊され埋められていた石燈籠を、復元して庭に安置している。その常夜灯には、東照、秋葉山、金毘羅大権現、富士浅間宮、大山不動明王の銘が刻まれ残っている。資料⑤石燈籠写真
明治16年(1883)御殿場地域の悲願であった御殿場登山道(富士山東表口)が開通した。御殿場村の西田中浅間神社が起点となり、北久原、太郎坊への登るコースで、御殿場村はいくらか活気が戻った。明治17年には、御殿場口から近衛歩兵連隊1000人が登山をする。富士の裾野には、明治25年(1892)には陸軍砲兵演習場もおかれた。明治18年(1885)諸鑑札名には、御殿場地区には宿屋10、「古着古道具屋8、菓子店5、質屋4、油屋1、酒造店2軒と記録されている。
そして明治22年(1889)敷設工事も短期間でできるなどの理由で、東海道本線が御殿場経由で作られ、駅が新橋にできて登山道、交通網は、御殿場駅が起点となった。新橋にはたちまち旅館、飲食店、運送業店、強力の店など200余戸が立ち並らぶにぎやかな街となった。御殿場村はもちろん、近在の村々からたくさんの店が出店、移転してきた。
明治25年(1892)登山道を新橋から茱萸沢へ抜ける新道を作り、神道実行教富士山表口講社も作られ、国家神道の神の山となった富士山の登山者への対応も整えた。(江戸時代には富士登山参詣は、全国の民衆の自主組織の富士講など、神仏習合の冨士浅間大菩薩を祀る登山道者が主流だった。須走口の道者も御師と香積寺で接待していた。)明治以降は変わって国の認める天尊系の神を祀る富士参詣宗教組織が作られ、さらに登山は盛んになった。
明治31年(1899)日野屋も出資して、馬車鉄道も開通、新橋から御殿場村を経由して須走、さらに籠坂峠を結んで富士吉田、大月まで人や荷物を運べるようになった。東京、大阪から御殿場に運ばれた品物を山梨に運び、山梨の絹織物などを御殿場に運んだ。この馬車鉄道には、日野屋をはじめとする御殿場村の商人たちの、再び村の交易で復活させるという、大いなる期待がかかっていた。
御殿場地区にも、養蚕組合事務所、駅伝営業組合取り締まり所、御厨町役場、劇場、ハリス教会、貸座敷、遊郭もできて賑わいをみせた。資料⑥馬車鉄道路線図
しかし明治35年(1902)中央本線の大月が開通すると、山梨の人々は御殿場との商圏先を東京に移してしまった。また東京からの富士登山客は、ほとんどが富士吉田から登るようになった。(昭和4年には、大月・富士吉田に高速電気線が開通、駅から一番近い御殿場登山口という座は奪われた。)
大正3年(1914)近くの村を合併し、御厨町が誕生し、役場は御殿場村に置かれた。(やがて御厨町は昭和30年御殿場市となる。)
大正5年(1916)馬車鉄道は、年間乗客数63766人、輸送貨物812トン、利益4677円だったが、翌年には赤字1539円となり、次第に経営を縮小した。(徳富蘇峰、竹下夢二など著名人も利用した。急坂をのんびり走る馬車鉄道では、乗客は降りてイチゴや花を摘んだり、馬車もひっくり返ったりした。)
しかし大正12年(1923)新橋の野木村金作は、甲駿自動車商会を経営、御殿場から山梨の船津までバス路線を結んだ。馬車鉄道はこうして乗り合いバスとの競争にも敗れ、昭和3年前線中止となった。
昭和5年(1930)世界大恐慌の影響でこの地域でも、株式、生糸の暴落、大量失業、農家の借金増大で欠食児童もでた。
昭和8年(1933)新橋の稲葉五三郎らが、富士登山自動車合資会社を設立し、登山、スキーシーズンに太郎坊間の乗り合いバスを運行しにぎわった。
さらに昭和9年(1934)丹那トンネルが開通、現在の東海道本線が運行され、御殿場線自体も支線となり、その重要性は低下した。それでも新橋地区は、夏は登山、冬はスキーの客でにぎわっていた。
昭和12年(1937)には日中戦争がはじまり、経済、産業、教育の国家統制が一層強まった。日野屋など地域の商人たちも自由な商売ができなくなっていった。日本政府は昭和16年には米英を相手に太平洋戦争に突き進み、人も物もすべて戦争に捧げるという国家総動員の戦いとなっていった。御殿場も爆撃を受けた。
ついに昭和20年(1945)日本は全面降伏をした。日本軍は解散したが、陸軍の駒門、板妻、滝ケ原演習場、兵舎に4000人の米軍が進駐し、住民に立ち退きを命じてきた。これについては地主組合と国、米軍との何度にもわたる交渉が重ねられ、政府による地代、損害賠償補償金、立ち入り、物資販売許可、軍施設従業員採用や接待・慰安業も盛んになった。一方、犯罪、治安、風紀の乱れの問題も起きた。
昭和32年(1957)サンフランシスコ条約で日本が国際復帰をすると、滝ケ原キャンプを除いて米軍は撤収していき、代わりに自衛隊が入ってきて現在まで演習場使用は続き(市面積の3分の1)、最近では米軍のオスプレイの飛行訓練も行われている。
そして戦後は、御殿場地域の産業も変化し、昭和25年には第一次産業(農業、養蚕、竹行李)が65%だったが、40年には23%に激減した。代わりに第3次産業(米軍基地、進駐軍相手の卸、小売り、自衛隊への公務、ゴルフ場、観光など)が23から57%に増えてきた。
また交通手段が自動車主流となってきて、昭和39年(1964)富士山周遊道路、新幹線開通、昭和44年東名高速道路、国道246号線バイパスなども完成し道路の整備、交通網の整備が行われると、御殿場地区は交易、交通の中心地としての役割を終え、次第に交易の人通りがなくなって、ローカルな街となっていった。
現在の御殿場地区の街道は、小山町につながる地方道となり、かつての中心地だった街道の面影はない。御殿場地区随一の経営を誇った日野屋酒店のあった地は転売され、今はハックドラッグとなっていている。
今も明治時代から変わらず店棚を守っているのは(天野呉服、大田菓子店、茶勇、あらい茶園など)数少ない。
現 在も当時の様子を伝えているのは、二枚橋地区にある、近江商人でかつては酒、味噌、醤油の仲買、小売りをしていた岡田屋橋本宅と倉庫群、御殿場地区にある、天野屋駐車場に建つスルガ銀行御殿場支店石倉金庫、街道の石碑、石仏、祠、お寺(庚申寺、光明院、宝持院、大雲院)、地蔵堂、吾妻神社、手洗い石(チョウズヤ)、藤方家の石燈籠などである。