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(承前)
日本国憲法
第1章 天皇
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総 意に基く。
<批判:憲法作成のGHQの指示を受けて、政府の高官が天皇の地位をどのように規定するか大いに迷い、当代の傑僧・山本玄峰老師の門を叩いたことがあった。老師は「あんたら、天皇のことで来たんじゃろう」と見抜いており、「象徴というのはどうじゃ」と智恵を授けた。なるほど、この場合、「象徴」とは老師の悟りの境涯から出ただけあって、妙に座りの良い言葉である。この条文は、そのように苦心の跡が見え隠れするが、問題なのは後段である。天皇の権威は二千数百年来のもので、こんな条文のひとつやふたつで揺らぐものではない。しかし「主権の存する日本国民の総意に基く」と迎合的に書くと、国民の深層意識と乖離して、国民のほうにとって、座りの良くない表現となる。
正月の二日、皇居の一般参賀で、陛下から賜る短いが暖かく万感をこめたお言葉を拝聴すると、つくづく日本国民であることの幸せを感じる。このときに、畏れ多くもこの条文のことなどは、完全に意識の外に吹っ切れている。天皇と国民との一体感に、外から無用な「たが」をはめようとするようなこの条文は、時代の変遷に伴い、いずれは外される運命にある。帝国憲法の第1条「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」は、日本と天皇の地位を喝破した名文であり、不文憲法を如実に表していると言えよう。>
第2条 皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
<批判:ここでの問題は勿論、「国会の議決した」という限定句である。国会とは、その時その時の国民が選挙した代議士の集まりであり、国民の道徳的資質が問われる。デモクラシーの語源であるデモス・クラチアは大衆の統治の意であるが、その大衆の品性がくらまされていれば、陶片追放の衆愚政治に堕してしまうのは歴史の教えるところである。品性について言えば、この日本国憲法の前文の言葉を借りれば、「国民は自分のことのみに専念して国家を無視してはならない」のである。品性の涵養には、どの国も心を砕いている。民主主義の本家のような顔をしている米国では、キリスト教がその責任をとっている筈である。米国が衰退するとすれば、それはとりもなおさず、キリスト教の衰退によるところが大きかろう。
明治以降、敗戦までの日本では、帝国憲法と同時期に渙発された教育勅語がその任に当った。政治律と道徳律の二本立てで、国家の隆昌を招いた。しかしそれでもなお、元老がいなくなり、軍部が「統帥権干犯」を言い立てて政治を壟断するに及び、ひいては敗戦、占領により教育勅語自体が無効決議という暴挙により姿を隠すに及んで、いよいよ衆愚政治に堕したのである。この勝れた道徳律が各方面で復活すれば、相乗効果をもたらし国民の品性はまた飛躍的に向上するであろう。
本題に戻って、皇室典範は皇室という、かたじけなくも無私・無我のお心で国民のために祈ることに専念されるまことに貴いお家の家法である。国会という世俗からは超然としていて当然なのだ。>
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いのしし様
沢山、時宜に適ったトラックバックをありがとうございました。教育勅語が社会に行き渡っていれば、へんてこりんな「9条の会」などに入る人はいなくなるはずです。それよりも、現代日本の「窮状」を救う会を作りたくなります。
2008/7/5(土) 午前 6:45 [ koreyjp ]
旧日本軍が中国や朝鮮におこなった仕打ちを考えれば、日本人は何も言えないような気がする。
2009/5/30(土) 午前 6:50 [ nanking_atrocities ]