飛騨を離れて40年 『私の昭和史』

過ぎ去った昔のことを、思いつくままに

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私の恩師

私の恩師  
私は昭和38年(1963)実業高校を卒業した。
其の頃はオリンピックを翌年に控え、日本経済は上昇気流に乗って走り出したころである.

 先生は3年間の内2年に亘ってクラスの担任であった。
授業は厳しく真剣に取り組んで見えた。
旧大卒で、兵役の後、戦後は技術者として会社勤務の経験があり、授業の間々に戦争の実体験や、社会に対する意見を話された。

 私はこの先生からその後の人生に少なからず影響を受けた、これは先生に学んだ同窓の大半は私と同じだと思う。
 
 生徒に対し授業や、生活態度は厳しかったが、1年のうち2〜3回午前中の授業は自主授業になった
『例の病気が出た、私は宿直室にいる、何かあれば呼びに来るように』我々は
バンザーイと叫んだものだった。
 
 卒業後、2〜3年は帰省の度、教官室へ立ち寄った。1年目菓子折を持って行ったところ、『お前な、俺の所へ来るのに、持ってくるものが違うぞ・・・』と助手を早速酒屋へ走らせ、放課の時間を待って教官室に中から鍵を掛け
『まあーよく来た、ま、一杯やろう!』
同僚の教師を呼びつけ教官室は宴会場となる。
 
 その後約束どおり一升瓶をぶら下げて教官室へ入ると、先生の机の下になんと沢山の「リポビタンD」とか「オロナミンC」といった茶色い小瓶がずらりと並んでいる。

飲み過ぎて、とうとう具合が悪くなったんですか、と聞くと、『いや・・ナニ・・その・・校長のやつが、今後、学校内で酒を飲むことを禁止する等と言いだしおってな・・、こうやって栄養剤の瓶に小分けして置いて、学校内では酒ではなく、栄養剤を飲んどるんじゃ・・・!』と至極ご満悦の様子、其の時も放課を待って其の栄養剤を全て飲み干し、同僚の先生とともに街の居酒屋へ繰り出し、何軒か梯子の末、深夜私の実家の宴会で、ようやくお開きとなった。
 
 あの様子では、当然翌日の午前の授業は「バンザーイ」だっただろう。
もう50年程前のことだ。
 
 先生は既に90歳近いと思われるが、元気で見えるとのことである。



拙ブロ【私の昭和史-故郷編】
2008/6/12
    http://blogs.yahoo.co.jp/koriasahi/4653525.html より再転載

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