飛騨を離れて40年 『私の昭和史』

過ぎ去った昔のことを、思いつくままに

★・【私の昭和史-故郷編】

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祝賀式

元日の朝

 ♪〜年の初めの試しとて〜
    終りなき世の目出度さを〜
    松竹建てて門毎に〜
    祝う今日こそ楽しけれ〜♪ 
 元日の朝、底冷えのする講堂に、紅白幕を張り巡らせ
小中学150人程の、生徒全員が整列し
君が代に続いて一月一日(いちがついちじつ)の歌を斉唱し
校長先生と、来賓の祝辞を聴き
各クラスで担任の先生と新年の挨拶を交わした。
 折角の正月の、其れも元日の寒い中での行事だったが
一年の初めに当り、祝賀の歌を皆で唱って、先生の話を聞くと
子供心にも何と無く、気が引き締まったものだった。
 昭和35年に中学を卒業したのだが、此の頃も式が有ったのか記憶に無い
小学校の時は確かに毎年行われていたのだが、何時の頃か無くなったようだ。
紅白の饅頭を貰えたのはこの時だったのだろうか
大きな饅頭が2個も自分の手の中にあるのは
なんとも嬉しかった。
   ※拙ブログ 故郷編 新年祝賀式より転載 2006/12/27(水)
http://blogs.yahoo.co.jp/koriasahi/MYBLOG/yblog.html?fid=0&m=lc&sk=0&sv=%B8%B5%C6%FC%A4%CE%C4%AB

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彼岸花

イメージ 1

♪〜赤い花ならマンジュシャゲ〜♪

 昭和20年代の半ばだったのだろうか
此の歌が流行り子供ながらも歌ったことを覚えている。
私が生まれ育った飛騨でこの彼岸花を見かけた事は無かった
 初めて見たのは名古屋へ出てから7〜8年過ぎた頃だったろうか。
墓地の周りに咲いている花を見、気味悪い程の赤い色、此れまで見たこともない造花の様な異様な形は、歌にあるマンジュシャゲというロマンチックな名から想像していた花とはあまりにも違っており、一寸がっかりした。
 ネットで調べてみると北限は青森、秋田付近らしく、北海道で見られるのは少ないらしい、飛騨の様な寒冷地では育たないのかもしれないが、今でも無いのだろか・・・。
 写真は私のリハビリコース、五条川の堤で撮ったものだが、年々増えている、密生して此の色形では少々気味が悪いだろうが、此の写真程度が風情が有って丁度好い。
 咲き終えて枯れるときは、真っ黒になり溶けていく、元の繊細で派手な姿とは真反対で、何とも哀れである。
  咲き終えし容姿無残や曼珠沙華   半竹亭


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爆撃予告ビラ


爆撃予告ビラ


 かっての終戦当日も、今日の様に暑い日だったとのこと
以来70年、日本は戦に巻き込まれることなくこれたのは何よりも有難い事でした。
 昨日の阿部首相の談話は、どの様な内容になるか、何かと憶測されていましたが、私の感想は日ごろ主張していた首相の考えよりトーンが抑えられ、無難な内容に思えました。
 それにしても、憲法に戦争の放棄とはっきりと明記してあるのに、安部首相は戦争を始められる様に、法改正を急ぐのか良く分りません。
戦争を何時でも始める事が出来る様にして置くことが、今の日本にとって重要と考えているのでしょうか
そんなに日本周辺の戦略状況は悪化しているのでしょうか
ベトナム戦争、中東紛争、9・11対テロ戦争を見ても、アメリカの主張する正義に、やみくもに追随するのは危険です。
戦争が始まらない様、日本独自で近隣国との積極外交や経済外交に力を入れるべきでしょう。
武器輸出も秘密保護法も、戦を出来る様にする為の準備なのでしょう、此のままの阿部政策は心配です。
今日も世界の何処かで戦いが続いているのです。




以前掲載した記事を転載、UPします。

イメージ 1

イメージ 2

 法事が終わり、兄弟全員揃って昔話の最中、兄が「こんなものが残っていた」と焼け焦げた紙の束を持ってきた。
昭和48年の春先、失火によって自宅が全焼した折、一人家にいた親父が燃え盛る炎の中から必死で持ち出したのであろう、仏壇の引き出しに仕舞いこんであった我々子供達の通信簿の一部だった。
 其の中に写真の紙切れが2枚紛れ込んでいた。
縦横10cm×15cmほどの紙に表には縦書きの爆撃予告文、裏にはB−29の爆撃の様子の写真が印刷してある。
 紙質は和紙の様に少し柔らかく上質紙で、60数年経つとボロボロになってしまう新聞紙とは違い全く劣化していない。
おそらく終戦直前の昭和20年に撒かれたのであろう、予告地に高山が入っている、こんな飛騨の山の中にも予告のビラを撒いたらしい。爆撃は有ったものの、ほとんど被害はなかったと聴いたことがある。
 92歳で11年前亡くなった親父も、先月96歳で亡くなった母からも、このビラのことは兄弟の誰も聞いていなかったし、初めて見るものだった。
年齢の所為だったのか、徴兵に掛からず兵役の経験のない親父は、戦争の話はあまりしなかった、近所では軍隊の経験がある人や、出征して戦死した家もあったから、軍隊経験のないことに多少引け目があったのかもしれないが、此れを拾った親父は、誰に見せることもなく自分だけ見て仏壇の奥に仕舞い込み、以後口外することはなかったのだろうか・・・。 
 今年も12月8日が来る、74年前始めた戦争により、親達は勿論日本人全てが、言い尽くせぬ苦しみと多くの悲劇を味わった事を思い浮かべ、60歳を過ぎた兄弟4人と30代の甥や姪達と、上下焼け焦げた、皺くちゃのビラをつくづく眺めていた。

画像では少々読みづらいので、予告文を書き写します。
     
日本國民に告ぐ
 あなたは自分や親兄弟友達の
命を助けようとは思ひませんか
助けたければこのビラをよく讀
んで下さい
 数日のうちに裏面の都市の内全
部若しくは若干の都市にある軍
事施設を米空軍は爆撃します
 この都市には軍事施設や軍需
品を製造する工場があります軍
部がこの勝ち目のない戦争を長引
かせる為に使う兵器を米空軍は
全部破壊しますけれども爆弾に
は眼が有りませんからどこに落
ちるか分かりませんご承知のように
人道主義のアメリカは罪のない
人たちを傷つけたくありません
ですから裏に書いてある都市か
ら避難して下さい
 アメリカの敵はあなた方では
ありませんあなた方を戦争に引
っ張り込んでゐる軍部こそ敵で
すアメリカの考えてゐる平和と
いふのはたヾ軍部の厭迫からあ
なた方を解放することですさうす
ればもっとよい新日本が出来上
がるんです
 戦争をやめるような新指導者を
樹てて平和を恢復したらどうで
すか
 この裏に書いてある都市でな
くても爆撃されるかもしれませ
んが少なくともこの裏に書いてあ
る都市の内必ず全部若しくは若干
は爆撃します
 豫め注意しておきますから裏
に書いてある都市から非難して
下さい

転載元転載元: 飛騨を離れて40年 『私の昭和史』

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炭売り

?H1>炭売り

 道路に雪のある冬は橇に、雪のない時期は荷車で
炭俵を15〜20俵積んで、母と2人街まで売りに行った
滅多に街へ連れて行って貰えないから、わくわくして出かける
街へ行ったら、飴を買って貰い、うどんを食って、そして何より大好きな汽車が見える。
荷物は重くとも行きはほとんど下り道、足取りは軽い。

 いつも買ってくれる店や、旅館などを回って売り歩くが
そんなには売れない、結局売れ残った分は
安くしか売れないけれど、いつもの仲買人の家に持って行って売り捌いた。

 いつも寄る菓子屋さんで、屑飴を買い、陣屋前のうどん屋さんで
持って行ったご飯だけの弁当のおかずに、素うどんを注文して昼飯だ
家では食ったことの無い、よくダシが効いて
上に載せた花鰹がシワシワと縮むうどんは、本当に美味かった。

 帰り道、陸橋の欄干に掴り、汽車が動くのを、何時までも見て居ても飽きない
貨車の入れ替えをするため、時々ポッと汽笛を鳴らし煙をモクモク吐き出しながら汽機関車が足の下を通り抜ける、周りが見えなくなるほどの煙と、石炭の匂い、紺色の作業服に、地下足袋を履いた人が、ひょいと貨車に飛びつき、赤と緑の旗を振って、合図をしながら貨車を引込み線へ入れている。

 何回か母にせかされ、ようやく陸橋を離れ家路を急ぐ
往復24キロばかりの砂利道を、荷車につけた紐を曳いて歩くのは、
小学生には結構きつかった。

 昭和30年頃の事だ
あの汽車も40年頃を境に、ジーゼルカーに変わってしまった。



拙ブロ:飛騨を離れて40年:私の昭和史・故郷編より転載
     http://blogs.yahoo.co.jp/koriasahi/7683095.html

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私の恩師

私の恩師  
私は昭和38年(1963)実業高校を卒業した。
其の頃はオリンピックを翌年に控え、日本経済は上昇気流に乗って走り出したころである.

 先生は3年間の内2年に亘ってクラスの担任であった。
授業は厳しく真剣に取り組んで見えた。
旧大卒で、兵役の後、戦後は技術者として会社勤務の経験があり、授業の間々に戦争の実体験や、社会に対する意見を話された。

 私はこの先生からその後の人生に少なからず影響を受けた、これは先生に学んだ同窓の大半は私と同じだと思う。
 
 生徒に対し授業や、生活態度は厳しかったが、1年のうち2〜3回午前中の授業は自主授業になった
『例の病気が出た、私は宿直室にいる、何かあれば呼びに来るように』我々は
バンザーイと叫んだものだった。
 
 卒業後、2〜3年は帰省の度、教官室へ立ち寄った。1年目菓子折を持って行ったところ、『お前な、俺の所へ来るのに、持ってくるものが違うぞ・・・』と助手を早速酒屋へ走らせ、放課の時間を待って教官室に中から鍵を掛け
『まあーよく来た、ま、一杯やろう!』
同僚の教師を呼びつけ教官室は宴会場となる。
 
 その後約束どおり一升瓶をぶら下げて教官室へ入ると、先生の机の下になんと沢山の「リポビタンD」とか「オロナミンC」といった茶色い小瓶がずらりと並んでいる。

飲み過ぎて、とうとう具合が悪くなったんですか、と聞くと、『いや・・ナニ・・その・・校長のやつが、今後、学校内で酒を飲むことを禁止する等と言いだしおってな・・、こうやって栄養剤の瓶に小分けして置いて、学校内では酒ではなく、栄養剤を飲んどるんじゃ・・・!』と至極ご満悦の様子、其の時も放課を待って其の栄養剤を全て飲み干し、同僚の先生とともに街の居酒屋へ繰り出し、何軒か梯子の末、深夜私の実家の宴会で、ようやくお開きとなった。
 
 あの様子では、当然翌日の午前の授業は「バンザーイ」だっただろう。
もう50年程前のことだ。
 
 先生は既に90歳近いと思われるが、元気で見えるとのことである。



拙ブロ【私の昭和史-故郷編】
2008/6/12
    http://blogs.yahoo.co.jp/koriasahi/4653525.html より再転載

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