飛騨を離れて40年 『私の昭和史』

過ぎ去った昔のことを、思いつくままに

★・【私の昭和史-故郷編】

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宅配便

『チッキ』と聞いて何の事か解る人は何歳以上であろうか
昔国鉄に乗って手荷物を運ぶ時、
大きな物や、重い荷物など駅の窓口に預けると
同一列車で運び、降車駅で受け取ったり
希望地まで配達するシステムだったが、今でも残っているのだろうか

昔荷物を送る方法と言えば、小さな物は郵便局で
それ以上は国鉄か、日通等の運送店の窓口まで
持ち込んだり、受け取りに行くのが普通であった。

最近は宅配業の普及により
電話1本であらゆるものを素早く配達してくれる
全く便利な世の中に為ったものである。

雪の時期に為ると、就職の際母と隣のお婆さんが
橇に乗せバス停まで送ってくれた赤い布団袋を
チッキで預け、汽車に乗ったことを思い出す。


チッキに付いては
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%83%E3%82%AD

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三角乗り

 昭和30年代前半までは、自転車は貴重品であった
何処の家も、普通の大きさの自転車が1台あるのみで
サドルに跨ったのでは、小学生の子供では当然足が届かないため
水平フレームの下から、片足を差し込んでぺタルを踏み
ハンドルの上から顔を出した、危なっかしい格好で
上手くバランスを取って乗り回していた
今思えばあんな恰好で転びもせず、よく砂利道を乗っていたものだ。

 我が家の自転車は荷物用で、後タイヤが一回り太く
フレームは頑丈で非常に重かった
下り坂の場合は楽々乗りこなせたが
少しでも登り坂だと、三角乗りでは漕ぎ続ける事は出来なかった。
 
 未だ十分乗れるのに、駐輪場に放置されたり
何処からか無断で乗って来て、乗り捨てて在る自転車を見る度
3角乗りで乗っていた頃を思い出し
なんと勿体ないと事かと、思いながら見ているのだが
そういう我が家にも、もう乗る事もない自転車が2台ある
スピーカーを鳴らし巡回してくる、リサイクル屋に出せばと思うのだが
何となく出せず、そのままにして居る。

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石臼

イメージ 1

 
 ゴロゴロ・ゴロゴロ、囲炉裏の傍で
久し振りに母が石臼を廻し始めると
如何にも面白そうに見え、最初は一緒に為って手伝うのだが
余りにも単調で、何時までも続く作業に飽きてしまい
何時も途中から母一人で臼を廻していた。

部落の冠婚葬祭や年末は
近所の小母さん達と共同で
大豆を石臼で挽いて、幾つも豆腐を作った。

初めて豆腐屋で売られている豆腐を食べた時は
何時も食べていた豆腐と違い、なんと柔らくて、滑らかなのかと驚いた。

初午団子の米粉、餅つきに使う餅取り粉、きな粉を作る時等
一年に3〜4回、石臼を作業所から持ち出して使った。
昔は何処の農家にも在ったのであろうが
近頃では偶に蕎麦屋の店先で見かける程度で
石垣や歩道の飾りに為って仕舞ったようである。

石臼を使って、自分の家で粉を挽く事も無くなって仕舞ったのだろう。

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発動機

イメージ 1

 最近では全く見掛けなくなってしまったが
昭和40年代までは小型化されたものが
土木工事等では結構使われていた。

我が家には、此れと全く同じ型の発動機が在った
私が物心付いた頃には、既に在ったのだから
戦後間もなく、親父が手に入れたのだろう。

ガソリンで始動し、勢い良く回転し始めると灯油の燃料に切り替え
ドッ!・ドッ!と煙を噴き出して回り
脱穀機、籾磨り機、精米機を動かした。

当時、発動機や籾摺り機が在る家は未だ少なく
丁度今頃の、穫り入れが終わった頃になると
近所の農家へ、此の発動機と籾摺り機を荷車に載せて運び
何日か籾摺りをして家々を廻った。

発動機は特に重く、大人三人掛りでなければ
荷車に載せる事が出来なかった。

籾摺りをしている家で、お客さん扱いの昼飯を摂っている親父の様子を
恨めしそうに、ガラス戸越しに見ていたら
親父は慌てて、早く家へ帰れと眼で合図した
お客さんが座る、囲炉裏の席の親父の前には
大きなサンマと、家では未だ食った事の無いおかずが見えた。

昭和30年前後の思い出である。

【写真の発動機は、ネットより拝借しました。】

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林檎の想い出

?H1>今年も採り立ての林檎が、店先に並び始めた

 昔林檎と言えば「国光」と言う品種が主流で
最近の林檎と違い、実が硬く齧るとカシッと音がし
歯応えがあるのが、自分は好きだったのだが
最近店先では、全く見なくなってしまった。

昭和30年頃だったろうか
峠の中腹に「篭屋」と言う、熊笹で竹篭等を作りながら
4〜50本林檎を栽培している一軒家が在った
米一升を篭に入れて背負い、峠の篭屋へ行って林檎と交換してもらい
直径25僉⊃爾毅械悪儖未力彊貲佞領啗蕕鯒愽蕕辰撞△辰拭

秋も深まった頃、毎年トラック一杯に林檎箱を積んで
「♪〜信州リンゴー」とスピーカーを鳴らしてやって来た
其の時も、米と交換していたような気がする

箱一杯買うと2月頃までは在ったから、数にすると結構在ったのだろう
林檎箱は、最近では全く見る事は無いが
中に籾殻を詰めて、傷が付くのと零下20度近くまで冷え込むため
林檎が凍るのを防いでいた。

学校から帰ると、籾殻に手を突っ込み一個取り出して
あの硬い林檎を齧るのは、嬉しかったものである。

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