飛騨を離れて40年 『私の昭和史』

過ぎ去った昔のことを、思いつくままに

★・【私の昭和史-故郷編】

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?H1>初めて乗った汽車

高山の街に行く度、何時も陸橋から眺めていた汽車に
初めて乗ったのは、小学校の富山への修学旅行だった。

床は板張り、痰壷が通路の真ん中に付いていた
壁、天井、背もたれ、肘掛、窓枠、上げ下げ窓、日除けのブラインドまで、内装は全て木製のラッカー仕上げで、椅子のクッションのみ、緑色の羅紗張りだった。

天井の照明は白熱灯で、トンネルに入ると点灯したが、とても暗かった

カタン!・コトコト!と
レールの継ぎ目を踏む車輪の音だけが車内に響き、時々キーンと鳴る音は何かと先生に聞くと、カーブに差し掛かった時、レ−ルと車輪が擦れる音だと教えてくれた。

トンネルに入る直前、汽笛がポーと鳴り、皆大慌てで窓を下ろした、グズグズしていると煙が窓から入り、煙と匂いが車内に充満した。

高山〜富山間は1時間ぐらいだったのだろう、初めての汽車は嬉しいばかりだったのか、初めて海を見、百貨店も初めて行ったのだが、汽車の思いで以外余り覚えていない。

昭和34〜5年頃から準急がディーゼルカーに変わり
42〜3年頃には蒸気機関車は走らなくなってしまった。

帰省でディーゼルカーで乗った時、一人の小母さんが
『昔の汽車は良かったねー、ゴトンゴトントの音だけっだった、ディーゼルはガーガーとやかましくていかん』とぼやいていた。
確かにディーゼルカーは、客車毎に付いているエンジン音がかなりうるさい。

車に乗るようになってから、其のディーゼルカーにも長い間乗っていない
飛騨一ノ宮のトンネルを抜けると、一変に空気が違うように感じるあの瞬間は、列車でしか味わ得ぬものだ。

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蒸気機関車

?H1>跨線橋の想い出 年に数回、母が高山の街へ炭を売りに行く時
荷車や橇を曳くのを手伝い、付いて行った
街に入ると、跨線橋の欄干越しに、家を出る前から楽しみにしていた
何時もの貨車の入れ替え作業の様子が見える
蒸気機関車が何両もの貨車を曳いて
跨線橋の下をゆっくりと動いていくと
蒸気機関車特有の匂いのする煙に体中包まれ
一瞬廻りが見えなくなるのが何とも嬉しかった。

機関車がバックし、長い貨車の列を押すと
青い作業衣に地下足袋姿の作業員が、ヒョイと貨車に飛び乗り
緑と赤い旗を振って機関車に合図をする
ある程度惰性が付くと、旗の合図で機関車は急停止し
切り離された貨車は作業員と共に
幾つかに分かれたレールの上を動いて行き
作業員が貨車の下のブレーキに思い切り体重を掛け、スピードを落とし
ガシャーンと貨車の列に連結する。

時々、短い汽笛をポッと鳴らしながら続けられる此の作業は
何時まで見ていても飽きず、帰りには母に何度も促され
仕方なく跨線橋を後にした。

昭和30年頃、小学4〜5年生だったろうか
50年程前の想い出である。

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丸木橋

   

幼友達Uの死


私が4〜5歳のころだったと思う。
ある日の夕方、家の前の丸太に腰を下ろして、一人ぼんやり遠くを眺めていると
遥か川端を誰かが大声で叫びながら走って行くのが見える
近くの家の牛でも逃げ出し、追いかけているのかな、等と思って見ていた。
 
 ところが其れは何時も一緒に遊んでいる
近所で同い年のUが川に転落し、流されていたのだ
 その日Uはお祖父さんに連れられ、川向の炭焼き小屋からの帰り、橋から転落し、流されていくのを必死で追いかけているお祖父さんだった。
 
 橋と言ってもそれは、川幅7〜8メートルの両岸の石の上に、5〜6寸の丸太2本を括って渡しただけの、粗末な丸木橋で、我が家も川向の田圃へは、いつもこの橋を使って行き来していた。
 橋を渡る度、子供心に恐ろしかったが、何時も冒険をするような気持ちで渡る、子供にとっては、少なからず危ない橋であった。
 
 出棺の際に、Uの母から、『お前が一番仲が良かったのだから、見送ってやっておくれ』
と言われ棺の中のUを見た。
流された時、石にぶつかって出来た血の滲んだ青痣が、顔にいくつも残っていた。
 棺に取り縋り号泣するUの母の姿を、六十年過ぎた今でも良く覚えている。

   『年を経て母の嘆きが胸に沁み』

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64歳の生存率

?H1>64歳で2割鬼籍とは・・・。

 先日高校の同窓会があり、今回も出席しなかったのだが
その後、幹事が写真と名簿を送ってくれた。

 1クラス29名だったのだが、今回の出席は11名
写真の顔を見ると、昔の面影そのままな者と
全く変ってしまい、天眼鏡を取り出して
よくよく見ても、名簿中の誰なのか判別がつかない者も居る。

 名簿では29人中6名が既に鬼籍に入っていて
2名が不明となっている
2割がもう亡くなっているのには一寸驚いた
少し率が高い様な気がする
とは言っても、自分もすんでの事で
鬼籍の中へ這入る所だったのだから
其れほど驚く事でも無いのかも知れぬ。

 昭和38年、東京オリンピックの前年卒業し
殆どの級友が、高度成長が始動し始めた建設業界へ就職した
以来、景気の変動に影響され易い業界の中で
幾度かの好不況の波の中、皆夫々懸命に働き
家族を背負い、諸々の事を乗り越え
生きて来たのであろう。

 懐かしさと共に、兎にも角にも
お互い良く頑張って来たな・・・と
皆の写真の笑顔を見ながら、此のところ感慨に耽っている。

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スイモンサ(スイバ)

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 ?H1>スイモンサ

 飛騨地方では此の草を、スイモンサと呼ぶ
日増しに暖かくなってゆくと
田圃の畦や、道端等あらゆる所に生える。

 【山菜と野草】という小冊子で調べてみると
スイバ(タデ科)
異名・・すかんぽ、スイジ、アカジ、スイゴンボ、スイトウグサ、スイバス、スカナ等と呼ばれているらしいが、スイモンサの名は無い。


子供達は10センチほど伸びたのを摘み取り
其の茎を、おやつ代わりに良く食べた
大きくなると茎は硬くなって不味くなる。

親達は体に良くないから、余り食べるなと言っていた
味は名前通り少し酸っぱいが、
塩漬けにすると結構美味しくなった。

リハビリコースの途中、彼方此方で見掛けるが
此の辺りでは、写真の様に、もう花が咲いている
どんな味だったかは、はっきりとは覚えていないが
酸っぱいだけで、其れほど美味しくも無かった筈なのに良く食べた
流石に今では、もう食べてみる気はしない
まして、今の子供達は見向きもしないのであろう



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