飛騨を離れて40年 『私の昭和史』

過ぎ去った昔のことを、思いつくままに

★・【私の昭和史-故郷編】

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 小学校3〜4年の頃だったろうか
母が味噌作りの際、煮た大豆を藁に包み
其れを一晩炬燵の中にいれ、自家製の納豆を作った
婦人会か何処かで、作り方を聞き込んで来たらしかった。

 おかずの殆どは、自家製の野菜と
一週間に一度来る、行商の魚屋さんで間に合わせ
部落に在る雑貨屋や農協にも、納豆は売っていなかったため
日頃納豆など口にしたことは無く
ラジオや、雑誌で見聞きするだけであった。

 母の作ってくれた納豆は、さぞかし美味い事だろうと
皆期待したのだが、生煮えの豆が、糸を引いた塊の様に為ってしまい
本来納豆なるものを、良く知らない子供達には
すこぶる評判が悪く、それ以来、母は家で納豆を作ることは無かった。

 外人が日本で皆と食事をした時
箸を空中でクルクル回すのは
きっと、日本の食事の作法なのだろうと
変な作法が在るものだと思いながら
必死で真似をしたと語っていた。

 納豆を食べる時、時々ふっと、母が作った
あの自家製の納豆と、外人の話を思い出し
懐かしく、可笑しさがこみ上げてくる。

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故郷の友は我が宝

?H1>故郷の友は我が宝

 今年も故郷の小中学時代の同窓会の案内が来たが
重い体を引き摺って出席する気になれず、欠席の返事を出した。

 先日、甥の結婚式の為、私が帰省する事を聞きつけた友達の1人が、式の翌日、故郷に残っている仲間達を招集し、病気発祥以来、1度も同窓会に出席してない私の為に、わざわざ食事会を開いてくれた。

 クラスの中に私と同じ病を患った者が3名居るとのこと
1クラスたった26名だったに、既に亡くなった者3名
私と同じ病気を発症した者3名とは、少々多いような気がする。
重い後遺症の人も居るが、殆ど軽症だったらしい
いずれにしても、同病の彼らの心中が思いやられる。

 集まってくれた連中は皆元気で、地域振興の為だと
分厚い飛騨牛のステーキを旨そうに平らげたが
物を咬んだり、飲み込み難くなってしまった自分には
とても食べられそうではなく、健康である事の幸せを
つくづくと思い知らされた。

久し振りで昔の思い出や
今の暮らし振りの話に話が弾んだが
家に帰り着いてからは
何とも寂しい様な、悲しい様な
やるせない思いに、駆られて仕方なかった。

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?H1>足踏みミシン 昭和30年頃だったろうか
購読していた「家の光」の
ミシンを定価の3割で販売という
懸賞に応募した処、当選の葉書が来た。

当たる等とは思ってもいなかった親父は
慌てて雑誌に載っていた、既に当選した人に対し
詐欺では無いのかと、問い合わせの便りを出し
懸賞の内容は間違いなく、上等の製品で
重宝しているとの返事を貰ってから、代金を送金した。

ファッションミシンと言う、聞いた事の無いメーカーで
定価は幾ら位だっか、忘れて仕舞ったが
3割とはいっても、当時の我が家にとっては
かなりの金額だった。

毛糸編み機

冬に為ると、姉は終日炬燵で編み物機に向かい
1m20cmほどの、針が一杯並んだ機械で
ジャー・ジャーと音を発てながら、家族のセーター等を編んだ。

編み物機の出だしの頃は、竹の物差しの様な板を
左右から差し込む方式だったが
取っ手の付いた部品を、左右に動かすだけの方式に変って行った
着古したセータを解く時や、染め直した毛糸を、毛糸玉にする度
両腕に毛糸の束を通し、姉の相手をした。

その後ミシンも編み物機も、姉の嫁入り道具となった。

最近のミシンは、コンピュータ制御に為って
足踏みから比べれば、驚くほど色々な作業が出来る様に為っているらしい

編み機は、最近全く見掛ける事は無いが
今ではミシン同様、いとも簡単に、編み上げる機械が出来ているのだろう。

  写真は・・http://blogs.yahoo.co.jp/kemukemu23611さんブログより拝借       しました。
    http://blogs.yahoo.co.jp/kemukemu23611/folder/1534423.html
    「主婦と生活」 昭和38年4月号から 
     

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学び舎は・・・今

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【学び舎の 校門だけが 雪の中】

故郷の同級生からメールが来た
小学校、中学校が続いて建っていた校舎跡に
記念碑として残された校門の雪景色の写真が付いていた。

昭和32年当時、村には乗用車と言えば
村長専用の外車、診療所の先生のルノー、役場のジープ
其れに材木会社のクラウンの4台のみだった。

担任のS先生の教え子の材木屋の息子が
自慢げに新車のクラウンに乗って学校へ来た折
息子に代わって運転していたS先生が
誤って写真左側の門柱に、車をぶつけて仕舞った。

狼狽したS先生を、心配げに校長先生が見ていた
何せクラウンは2年前の昭和30年に発売されたばかりで
当時ではとんでもない値段だったろう。

当時24〜5歳位だったS先生の給料は、2万円にも満たなかった筈で
どのように処理されたのか、きっと大変だったろうと噂しあったものだ。

昭和50年初め頃、開校100周年の式典を開催した歴史ある校舎も
児童生徒の減少により、各部落に在った学校は統合され廃校と為り
僅かに、門柱とグランドを囲んでいた樹木だけが残されている。

現在門の中央には、校歌を刻み込んだ記念碑が有るとの事である。

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?H1>両面宿儺(りょうめんすくな)の洞窟

 一昨年、当時2億五千万円の100kgの金塊が、強奪された観光地に在る
飛騨鍾乳洞には、その昔、頭の表、裏両面に顔が有る
両面宿儺(りょうめんすくな)と言われる妖怪が住んでいたと言われ
昔から飛騨地方の民話で語り継がれており
地元の人からは、不気味がられていて
近寄る人も無く、其の洞窟の内部は詳しく知られていなかった。

昭和39年頃、高校の恩師T先生は
酔っぱらうと「俺があの洞窟を探検、調査するんじゃ!」と息巻いてみえた
其の後、先生が探検されたかどうか聞き及んでいない。

10年後の昭和50年頃には、既に見学コースが出来
一寸した観光地に為っていた
見学コースは其れほど長くは無かったが
随分細い、急勾配の穴倉を歩きながら
今此処で地震に遭ったら恐ろしいだろな〜・・と思いながら
歩いた記憶が有る。

今では戻った金塊の他、いろいろな美術品等が展示され
30数年前当時とは、随分様変わりしているようだ。

両面宿儺(りょうめんすくな)については
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E9%9D%A2%E5%AE%BF%E5%84%BA

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