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教会はこの世の問題を免れているところではない この世の抱えている問題とそっくり同じ問題が教会にもある ただこの世の解決が平安をもたらさないことを この身でつくづく知りつくしている傷ついた人たちが 集まるところであるだけだ この世の問題の資本主義的解決、「民主主義的」解決、共産主義的解決… どれもが別の痛みと悩みを作り出し、人をしあわせにしなかった 教会がこの世の問題を この世と同じやり方で解決していこうとするのなら 教会はこの世と同じところになってしまう この世の問題の「教会的解決」さえも この世の影を引きずっている どうしたらいいのかわからない私は 佇んでいる 「じゃあこうしよう!」と威勢良く言えない私は この世の「解決」に苦い思いをして痛い思いをして 平安を奪われてきたからだ そして「ああ、これが神さまの訓練であったのだな」と思う 教会が守られますように 大切な人々が守られますように |

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この世の物差しは、常識とか、法律とか、慣習とか、道徳とか…。教会の物差しは、神の愛。
2009/6/21(日) 午後 7:10
教会が教会であるためには「礼拝共同体」でなければなりませんね。問題を抱えながら生きているのは世間の人も同じこと。唯一違う一点が「礼拝」です。神を賛美し、神を崇め、問題を神の導きによって歩み進めていくこと。神の名によって全てを行うこと。大事ですね。傑作ポチ
2009/6/21(日) 午後 7:16
道さん、神の愛を神の恵みに帰し、神にゆだねるっていうところが易しくてむずかしいところなんだと実感しています。神の愛を自分で実践しようとする思い上がりにサタンが忍び込んでくるような気が。。。
2009/6/21(日) 午後 9:08
ルークさん、そうですね、わたしを投げ出すこと、神さまの御手にゆだねること、祈りによって隣人とつながること。
2009/6/21(日) 午後 9:16
>どうしたらいいのかわからない私は
佇んでいる
「じゃあこうしよう!」と威勢良く言えない私は
この世の「解決」に苦い思いをして痛い思いをして
平安を奪われてきたからだ
・・・あぁ、「私」が書いてるのか、と思いました(笑)
最近「元気ないね」と言われることが多い。
昔の勢いが無いからね。
でも、それは違うの。
簡単に断罪したり、断定的にモノ言ったりできなくなったの・・・
でも人から見たら「元気ない」でおしまいなのよね!
( ̄∇ ̄;) ハッハッハッ
2009/6/21(日) 午後 11:11
この春に日本友和会の総会に出席しました。友和会はキリスト教のささやかな「平和をつくり出す人達の会」ですが、パウロの十字架信仰とイエスの此の世への積極的生への参与の両輪を携えている会だと思います。米国の保守信仰が戦争のバックアップしている今、この両輪の接点は大切だと思っています。
2009/6/22(月) 午前 9:39 [ kabanotakara ]
すたさん、わかりますわ。私もこう見えて若い頃はかなり威勢が良かったんですのよ。スパッと断罪しましたからね。断定的な物言いを特色としていました(笑)。「元気ない」とか「まじめ」とか他人は表面的なとこしか見ないからね。
2009/6/23(火) 午後 9:14
kaba先生、イエスさまは「正義の戦争」なんておっしゃらなかったと思います。「あなたの剣を納めよ」とおっしゃっていますからね。平和を作り出すのは十字架です。
2009/6/23(火) 午後 9:16
ただ受ければいいじゃない
神様の愛を・・・・・
2009/6/23(火) 午後 10:50
ルカの福音書の10章の29?くらいかしら・・・・
すべての戒めのなかで一番大事なもの書いてあったでしょ?
イエス様が答えたの・・・・・
こころをつくして想いをつして精神をつくしてあなたの神である主をあいしなさい。
あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさいって書いてある・・・
2009/6/23(火) 午後 10:52
どういうふうに映っているのかしら・・・・・
そこにはね・・・・あなたが愛を知らなければ人を愛せないって・・・・
そうかいてあるの・・・・
だから イエス様が必要なんでしょ?
だからイエスさまのところに行くのでしょ?
ひたすら イエス様の愛を受けること・・・
そしてね・・・・受けたら・・・あなた自身のようにが現れるのよ・・・・・
詩音はね 自分を愛せなかった人・・・・なの・・・・TBするね
2009/6/23(火) 午後 10:55
子ろばさん 教会は悩みと勝利の混在しているところですね。人としての悩みの中にイエスの勝利、イエスの勝利の中に人としての悩みが・・・イエスは「あなた方にはこの世にあっては悩みがある、しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」と言われましたし、また「神の国は言葉ではなく、力である」ともいわれましたが、
ウソでないけれども力のない言葉が多いようにも感じてしまうこともありますね。いつもなぜかとわが身のこととして考えさせられています。この記事をそのまま私のブログに転載させていただけますか。
2009/6/24(水) 午前 5:44 [ shalom ]
私もず〜っと佇んでいました。
教会の中で苦しみを受け止めてもらえず、かえって裁きに会ったような気持ちになってしまっていたのです。
教会が大きくなると、守りに走ってしまうのです。
平和を守らなければ・・・・といいながら・・・何も動かない!
発言もしない!
本当に弱い人には、目を向けていない。
こんな中で絶望感を持ってしまいました。
今行っている教会は、小さな群れの家の教会です。
自分の言葉で話せることで救われています。
イエス様の恵みと聖霊の助けを感じられるように成りました。
2009/6/24(水) 午後 2:59
シオンさん、エルサレムね。簡単なようでむずかしいのよ。むずかしいようで簡単なのよ、天の御国に入ることは。そこんところを見つめていきたい。。。
2009/6/24(水) 午後 9:44
シャロームさん、
>ウソでないけれども力のない言葉が多いようにも感じてしまうこともありますね
そうですね、同感。。。力のない言葉、を「いのちのない言葉」と言い換えてもいいのでしょうか。聖書をそのまま引用すれば言葉にいのちが宿るわけではないのでしょう。「教会的な言葉」がそのままいのちの言葉であるわけではないでしょう。教会はたぶん、この世と御国に二股かけているところなんでしょう、「御国の影」なんだから。こんな記事でよければ転載どうぞ♪
2009/6/24(水) 午後 9:47
きものさん、教会のなかでつまづくこと、少なくないですね。私は長らく教会ジプシーでした。自分の言葉で話すこと、大切です。借り物の言葉の中に御霊はおられないもの。そうだ、きものさんと私との間にもイエス様はおられるんだから、二人は教会よ♪
2009/6/24(水) 午後 9:50