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「信仰によって義とされる」というのと「行いによって義とされる」というのはどうちがうか こう併置すると、「信仰」と「行い」がともに人間の側の美徳のように誤解されてしまう そうではなくて、義認はそもそも神様の側からの一方的な恵みなのだ だから「信仰」を美徳と認めたうえでのご褒美などではないのだ それでは神様はなぜ罪深い人間を義として下さるのだろうか 「愛しているから」 「愛されている」ということ自体がこのうえない恵みだと思う 「愛されているゆえに義としてもらった」ことが恵みなんではなくて、 「愛された」こと自体が恵みだと思う だから恵みはいつだって「今ここ」にある 神様は「善い者の上にも悪い者の上にも雨を降らせて下さいます」 この恵みを味わおう このゆるしの広さを味わおう 「あなたを愛している」と言うお方の広さに身をゆだねよう そうしたらもう 「義」だとか「不義」だとか「誰が悪い」とか「私は正しい」とかに拘泥する そんな狭さは捨て置いて、 秋の高い高い青空を見上げてそよぐコスモスみたいになれるから |

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>「義」だとか「不義」だとか「誰が悪い」とか「私は正しい」とかに拘泥する
>そんな狭さは捨て置いて、
>秋の高い高い青空を見上げてそよぐコスモスみたいになれるから
お見事(^0^)/
愛されたことが恵みであって、愛されたらそれがすべてだね。
2010/10/8(金) 午前 1:21 [ - ]
よくぞブログを更新してくれました。
ブログ更新・・・何かあった?
あー、心境の変化か! 秋だからねえ。。。
今度の日曜日は、教会に来ると驚くよ。
おおっ!って感動するはず。
2010/10/8(金) 午前 1:24 [ - ]
神の小羊さん、「おおっ」って感動したよ!来週教会へ行ったら、ブランコに乗った羊が揺れているのかなあ♪でも忙しいんだから、体を大切に無理はしないで下さいね。
2010/10/10(日) 午後 10:44
キリスト教は二元論の世界です。「敵」を「愛」せよ。ここには愛するために「敵」を想定している。昔、岡潔がキリスト教の問題点をどこかで書いていましたが、「あるがままを見、あるがままを受け入れる」そうであれば「敵」などいなくなるということだったかと思います。「良い者にも悪い者にも雨を降らせる」ここにもキリスト教の二元論が見え隠れしていますが、しかし、この言葉には「生きとし生けるもの」皆同じだとする「あるがまま」の視線を感じます。
2010/10/11(月) 午後 6:21 [ kabanotakara ]
kaba先生、「汝の敵を愛せよ」はたしかに「敵」を想定しています。私も実のところ、ここにつまづくんですね。詩篇にひっかかるのもここです。「主よ、あなたを侮る者を…」と祈ったところで、やっぱり裁いているんではないかなあなんて思ってしまうんです。私たち人間は他人のリアリティはあくまでわからない、他人が主を侮っているかどうか判断を下すことはできない、そんなふうに感じてしまうんですね。「善い者にも悪い者にも…」と祈るとき、私は自分が「悪い者」であっても恵みの雨が注がれると感じるんですね。それが癒しじゃないかなあ。。。
2010/10/14(木) 午後 9:06
↑彼女ゎ宗教関係者御断りとのことで、それ以来コメしていません。参考まで。
2010/10/29(金) 午前 0:48
ふむ?!
子ろばさんは「宗教関係者お断り」だったのか?!
うん?!
ああ、キリスト教は宗教じゃないって、子ろばさんは言っていたなあ。
だから、コメしていいんではないかと思うのですが、どうなんでしょう。
お断りという前に、パソコンを開いていないようで。。。
2010/11/4(木) 午後 11:55 [ - ]