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山田詠美の書いた『風葬の教室』という小説がある。
いじめられていた女の子が、みずからいじめを撃退する話である。
「クラスメートを一人ひとり殺していったの。そしたら全員を殺したところで、私はヒーローになったわ」
「殺す」ということはどういうことか。
「ブス!」と言われた女の子は落ち着き払って言い返す、「どっちが?」
似たような反撃を私も想像する。
「おはよう」とクラスメートにあいさつする。
無視をきめこんでいるクラスメートはあいさつを返さない。
「アタマだけじゃなくて耳も悪いんだな」と言う。
「お前たちになんか仲良くしてもらわなくたって一向困らないんだよ、
かえってセイセイするわ」といったふうに、
涼しい顔でひとり読書をする。
「集団でいじめを行っているお前たちがカッコ悪いんだ」ということを
教師や大人が言うのではなく、
当事者が一段大人の態度でみせつける。
おそらくこれがいじめの究極の解決策だと思う。
しかしそう言ったところで、あまり意味はない。
『風葬の教室』の主人公が、クラスメートを「殺す」ことができたのは、
彼女が都会から転校してきた、垢ぬけて可愛い子だったからだ。
「アタマだけじゃなくて耳も悪いんだな」と言うためには、他人より成績がよくなくてはいけない。
そのように振る舞うことのできる子は、そもそも最初からいじめのターゲットにはなっていないのだ。
『風葬の教室』の主人公が言う「殺す」とは、
文字通りの物理的な殺人ではない。
「力関係」が文字通りの物理的な力関係ではないように。
しかし力関係は存在する。
友だちがいなくて、でも友だちがほしいと思っている子は、
足元をみられる。
まじめに授業をきいていて先生の質問に答えられない子は、
バカにされる。
「おまえらとなんか友だちになりたくないんだよ」
「勉強なんかくだらねえことやってられっかよ」
というふうに振る舞えば、一目置かれる。
だからこそ勉強で太刀打ちできない子には、「不良」というあり方で
力を誇示する道があるのだ。
なまじ勉強をして、誤答してはならない。
勉強を放棄すれば、誤答してバカにされる危険からもまぬかれる。
いじめられる子は「イライラする子」だ。
こちらの歓心を買おうとする子、
こちらが冷たくあしらっているのに怒らない子、
に子供たちはイライラする。
引きこもりの暴力息子が母親にイライラするのも同じだと思う。
「いじめ」というこの世の出来事を撃退するのは、「力」だと思う。
しかしそれは十字架の力とはちがうような気がする。
そのことをずっと考えている。
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あらまあ、ブログが更新されてますね。
良かった、安心。
「いじめ」の問題についてですね。
帰宅したらちゃんと記事を読んで見ます。
2013/2/12(火) 午後 11:09
教師の直感で、「この子はいじめのターゲットになる」と感じることがあります。korobaさんはそれをよく観察していると思います。その子をどう育てるのか、その子にサバイバルパワー(生きる力)を育まなくてはならない。いじめに対処する強さやすべを身につけてもらいたい。いじめないという育てと同時に、いじめられないという力も本当に大事。本来なら親が育てるべき力だとも思います。いじめにあった子の親はいったい何をしていたのかと言いたくもなります。自分の子どもに寄り添っていれば支援ができたはずですよね。生きる力の教育ってそういうことが一番大事なのだと思うんです。
2013/2/13(水) 午後 3:07
自分の思い通りにならない相手って イライラしますよね。 いじめたのに 笑ってる子、反抗しているのに優しくする母・・・
本当は 自分自身にもイライラしているのだけど、
そのイライラを増幅される。
なんでだろ?
おっしゃるように 学校で、クラスでいる限りは
担任の力量で なんとか 阻止もできる。
でも、けっこうコントロール下で、(誤解を恐れず言うなら マインドコントロール)
本当に大人になって 一人でいても 人を攻撃しない人間に どうしたら成長できるんだろう・・・
と言いながら 私は好き嫌いのハッキリしている人間で、
誰にでも仲良くするヤツは嫌い。
子どもにばかり理想は押し付けられないから
その辺りが矛盾する大人。
ていうか 嫌いになる気持ちはわかるもの。
「でも・・・」って 部分を一緒に考えるしかないのかな・
2013/2/13(水) 午後 8:28
ルークさん、とりあえずいじめられている子を呪縛から解いてあげられたらいいですね。いじめって呪いなんですよ、たぶん。そしていじめられる子はその呪いに呪縛されちゃうの。「いじめられて恥ずかしい」と思うのも呪縛だし。教師や親に頼ったらいけないんです。だけど教師や親に通報する(「打ち明ける」んじゃなくて「通報」)ためには、「恥ずかしい」と思う呪縛から解き放たれる必要があるでしょ?だから教師や親に堂々と通告した時点で、彼・彼女はなにかを乗り越えているんです。いじめる側も乗り越えなくてはいけないことがあると思います。それは「イライラする相手」との適切な距離の取り方です。個人的には「いじめるな」ではなくて、この「適切な距離の取り方」「相手を傷つけない突っ込み」を習得させたい。
2013/2/13(水) 午後 10:06
ルークさんへつづき。私、教会の兄弟に、「クサイよ」と言いましたよ。「ちゃんとお風呂入ってる?」「入ってるよ!チ○コもよく洗ってるよ!」「わかった。。。そのセーターがくさいんだ、きっと。洗ってないでしょ?」「洗ってない。。。」「エマールとかアクロンとかで洗うといいのよ。全自動洗濯機のドライで洗えるよ。」クサイのがまんするのはストレスです。でも愛をもって指摘するってむずかしい。教会って鍛えられるなあ。
2013/2/13(水) 午後 10:06
すたさん、私この記事のコメントで再三書いているように、学校って基本的に信用していないんです。教師でありながら。ある先生の授業の前だけ黒板を念入りに拭く生徒たちがいます。そういうふうに仕向けられているんですね。ま、それはその教師の力量ゆえだし、たまにでも念入りに拭いてくれているので、こっちも助かるし、いいんだけど。だけどその教師はそれでいいんだろうか。自分と直接関わる時空間だけでその行為が行われれば満足なんだろうか。ここんとこ、メンタリティを共有しません。人間がどういうときに意地悪になるか、イライラするか、人間の問題として興味がある。「なんでだろ?」を私も考えたいです。
2013/2/13(水) 午後 10:16