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「意味」が、他者とつながる回路である。
自分の遭遇した経験の意味をみいだすとき、
「異なる」経験をした他者とつながることがはじめて可能になる。
「意味」が、個から普遍への、孤立から共感への地平を拓く。
「情報」と「知性」の違いは、「情報」が意味を問わないのに対して、
「知性」はつねに情報の意味を考え、
そのことによって、情報相互の関係を見出し、体系を打ち立てることにある。
意味を問わないのならば、「量」だけが問題になる。
どれだけたくさんの単語を覚えたか、どれだけたくさんの年号を覚えたか、
どれだけたくさんのキャラクターを集めたか、
どれだけたくさんの人間が「友だち」に登録されているか。
一方、科学も学問も文学も、「個」から「普遍」に至る道をめざしてきた。
「りんごが木から落ちる」現象と「地球が太陽の周りを回る」現象は
一見全く異なる個別の現象であるようにみえるのに、
「重力」という同一の力によるものであることをみいだしたのが科学であった。
文学はフィクションを通して、作家の経験した出来事の意味を作家自身に再認識させる営みであった。
「人間とは」「人生とは」「世界とは」と問うのが科学や学問や文学である。
また他者と対話していてたのしいと感じるときは、
自分の経験と他者の経験が一見まったく異なっているのに、
共通する意味をみいだしたときである。
たのしい対話はたのしい読書と本質的に同じである。
他者の経験をとおして、自分の経験の意味を見出すとき、
人生の深さとゆたかさを教えられる。
オタクがどんなにたくさんのトリビアな情報を披歴しても、
どんなにたくさんのコレクションをも公開しても、
どんなにコンピュータ操作にすぐれても、
他者とつながることはできない。
キリスト教の神はわたしたちに、
「たくさんの」ものを与えてはくれない。
そうではなくて、わたしたちに、
人生と世界の意味を教えてくれる。
そのことによって、
他者とつながることを可能にしてくれる。
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あぁ〜〜〜ほんま そうやなぁ〜〜!
すっごく納得して 読みました。
>自分の遭遇した経験の意味をみいだすとき、
「異なる」経験をした他者とつながることがはじめて可能になる。
私 いろいろ いろいろ体験したけど、
その意味をやっぱり考えました。
普段 信心深い訳じゃないけれど、
自分の体験に「意味」がある・・と思わないと
自分を支えられないし。
でも自分なりに意味を見出したとき、
人生が深くなった。
(辛いから 浅くても 平凡が良かったけど)
文学でも音楽でも 今まで以上に心が震えるようになった。
命の重みも理解できたかな・・・
少しだけど。
2013/2/14(木) 午後 8:26
すたさんもいろいろつらいつらい思いをしたもんね。だからよけい「レ・ミゼラブル」に感動することができるようになったんやね。(大阪弁ってつられるわ…笑)。私の愛読書にフランクル(アウシュビッツを体験した「夜と霧」の作者ね)の『それでも人生にイエスと言う』という本があるんや。アウシュビッツで動物のように扱われ、「生きていても意味がない」と思ったその淵で、世界観と人生観が「コペルニクス的転回」をするんや。「意味」とはなにか、ということについての「コペルニクス的転回」。
2013/2/15(金) 午後 8:33
イエス・キリストの理解とも通じますね。イエスは事実を示し、キリストは意味を示します。私が関心を持っている史的イエスは、ここでは情報収集ということになります。いくら掘り下げても情報を集めてもそれだけで終わってしいまう。キリストは「意味」を示し、イエスの存在の意味を表すことと思います。このイエスとキリストを自分の中でどのように活かしていくか、私にとって思いテーマで今、私はそのことに思いを寄せています。
2013/2/16(土) 午前 9:49 [ kabanotakara ]
カバ先生、事実と意味、両方がなかったら、世界も人間もないのかもしれませんね。コンピュータ万能のように考えられている現代は、どこかあやうい時代だという気がしてなりません。
2013/2/17(日) 午後 8:39