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学校裏サイト

「ネット上に死ね」と書かれ苦に高一自殺(毎日新聞5月31日

「いじめを受けたら一人で抱え込まず親や教師など周りの大人に相談してね」

一人で悩んで自殺していった子供たちのことを思うと親や教師としては当然言いたくなるセリフだけれど

当の子供としてはそう事は簡単ではないのだ、きっと。

私は中学校のとき、ちょっとしたいじめを受けていた

今思い起こすと「いじめ」の中ではたいしたことない部類だったと思う

おとなしくて(じつは単に調子が出ないだけだった)本好きだった私は休み時間に本を読んでいると

「お嬢さん」と言って、「不良」の男の子がからかうのだ

周りの子は時々便乗したりしたが、主にその子だけがからかうのであって、

椅子の上に画鋲が置かれていたことも、教科書に落書きされたことも

靴が隠されたこともない

リーゼントで赤いTシャツを学ランの下に着た「ビーバップハイスクール」そのままの不良少年

だったが、からかうだけで、体育館裏に呼びつけることも、私をド突くこともしなかった



それでも私は胸に鉛のようなものの存在を感じながら、毎日学校へ重い足取りで通った

毎日毎日が針のむしろに座っているようだった

しかし私はけっして両親にも先生にも相談しなかった

だから重松清が短編集『ナイフ』所収の「ワニとハブとひょうたん池で」で

主人公ミキにつぶやかせているセリフと気持ちがよくわかるのだ

家にだけはこないで、家だけはやめて!お父さんやお母さんの前では、いつもの元気で明るいあたしでいたい。両親への気遣いとか、そんなのじゃない。うまく言えない。でも、あたしがこんなに苦しんで落ち込んでいるのを、お父さんとお母さんにだけは知られなくない。好きな男のコの名前を内緒にしたり、たとえお母さんとでもいっしょにはお風呂に入りたくないのと、たぶん同じ理由で。

イメージ 1

表題にもなっている「ナイフ」ではいじめに遭っている息子の父親は

その息子の気持ちを「プライド」と表現している

そして少女の頃の私は友人関係の中でもがくと同時に

子供のプライドを平気でふみにじる親の無神経さにも怒っていたのである



「学校裏サイト」が世間を騒がせている

ケータイにネット、いじめは陰湿になって

子供世界の(大人世界も)人間関係は脆く不安定になっているように思える

解決策はどこにあるのか

これは直感なのだけれど

学校以外の居場所を子供たちが確かに持つことではないのかと考える

昔の子供たちにはこのような場所があった

学校が終わると家の手伝いをしたり店番をしたり、

遊ぶ場合でも弟妹を背中におぶって子守をしながらだったりした

家庭や地域社会という受け皿での「もうひとつの居場所」はたしかにあったのだ
イメージ 3
アメリカの話だけど『大草原の小さな家』のローラなんて幸せな環境に生きている

もちろんそんな時代は私も知らない

私には読書と勉強が「学校以外の居場所」だった

(勉強は学校で教えられるものだけど、学問や知識は学校という狭い社会を相対化して眺めることに役立った。)

今の子供たちはお小遣いをふんだんに貰い、ネットやケータイも与えられ
イメージ 2
人間関係が広くなったようにみえるが

実際はそうではないと思う

中学校は土日も部活である

放課後は塾で学校仲間と再び会う

ケータイやネットで友人同士、昼間のやりとりをまた蒸し返す

たぶんオトナも同じである

会社や母親同士のつきあいが、「自分」という人間を認識する人間関係の全てである

そこでつまづいたらアイデンティティそのものがグラつく



いじめをなくすのも、いじめに負けない心を育てるのも、同じだと思う

学校(あるいは会社、母親仲間)での人間関係を相対化するような人間関係と居場所を作っていくことではないのかと思う

教会は本当はそういう居場所にならなくてはならないんじゃないか

ほとんどのキリスト教会は残念ながらそういう場所になりえていないと思う

牧師や神父の説教は難しいし、医者や大学教授やその奥さんのようなハイソな信徒が仕切ってるし。

創価学会とか新興宗教のほうがよっぽど「居場所」になりえていると思う



「私は友達にいじめられているんです」

こういう告白をするには、「人間」を俯瞰する何かを背骨として持っている共同体が必要なのだ

私がかつて勤めていた僻地の小さな学校と今現在通っている小さな教会は、

そういう意味でなかなか素敵だ

僻地の小さな学校の周りには有機農業をやっている気骨のあるお百姓や山小屋のおじさんがいて

社会に向き合うたくましい背中を生徒たちに見せていた

今通っている小さなプロテスタント教会で「何の病気なのか」と問うた私に

Nちゃんは「腰痛なの」と言うのと同じような口調でその病名を教えてくれた

その病気のゆえに学校でも職場でもいじめられてきたかもしれない

「腰痛なの」と言うのと同じような口調で病名を教えてくれたことが嬉しかった

「そうなんだ、腰痛なんだ、つらいよね、腰痛って」

私もそう自然に答えられる環境にいることが嬉しかった



遠回りかもしれないけれど

私自身をしっかり根付かせることができるような共同体と出会い

共同体を育てていくことなしには

いじめをなくすこともいじめに負けない心を育てることもできないんじゃないかな

学校の外での人間関係がネットとアルバイトではムリなんじゃないかな(ないよりマシだけど)と

ヒョロヒョロした教え子の高校生を見ながら思う

閉じる コメント(17)

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学校以外の世界を持つことって大事ですよね。

2008/6/2(月) 午後 8:32 [ - ]

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星さん、それが難しい現代ニッポンですね。

2008/6/2(月) 午後 10:51 koroba

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そうですね。

この者も、高校時代、学校以外の居場所という視点があれば
大事な思春期を苦しみいっぱいにすることがなかったのにと
思うことがあるのです。

通過したから言えることで、渦中では、到底思いもつきません。
楽になってはいけない、くらいに、呪縛されていたのですから。

2008/6/2(月) 午後 11:06 [ - ]

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教会は建物ではないのだけれど、、、
こころの居場所は、教会の建物の中であってもいいのかも知れない。
教会こそが、こころの憩いの水のほとり、緑の牧場であればいい♪♪♪
教会(勿論イエスさまと教会の兄弟姉妹なのだが)があったお陰で、今こうして生きていられるのかも知れない・・・

2008/6/2(月) 午後 11:21 憩 ヨハネ

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学校以外の価値観になかなか出会えないってのが問題よね・・・そして出会うとしたらシャレじゃないけど「出会い系」とかしかない。

いろいろな「ものさし」を心に持てたら強くなれるのよね・・・それが わかったのは最近かも、私。

私は中2の3学期、イジメを受けた。
リーダー格の女の子の好きな男子と仲良かったから・・・
やっぱり「親と教師」にだけは知られたくなかったわ。
意地、プライドね。
一回も欠席しなかった。
中3で、またイジメの中心の子と同じクラスになった時は目の前真っ暗だったわ。
でも「先手必勝」と おとなしくて力なくても数で勝負!とクラスで仲良し増やしたの。

・・・それだけなら良かったけど、相手イジメタ。

2008/6/2(月) 午後 11:34 すたぁびれ♪

たくさんの価値観があるコミュニティーにいる、ということがきっといじめを防ぐのでしょうね。

家庭も学校と同じ価値観になって、いい子、勉強を頑張ること・・ばかりを要求していては 子どものストレスはたまるばかり。。ですね。

2008/6/3(火) 午前 8:47 ぱーぷるふぃんがー

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子ども達の「居場所」ですか。私の町にも「居場所作り」と言ってリタイヤした人たちやボーイスカウトの子ども達が土曜日等に小学校に出かけて行っていろいろな取り組みをしているようですね。昔あった町の空き地は今はどこにあるのでしょうね。どこにもないですね。私が以前所属していた地元のボーイスカウトはそんな「居場所」のささやかな場面ですが、旧態依然とした隊の運営では子ども達の「居場所」にはなれませんね。幾つかの改善を提案したのですが、そのまま手つかず私も退団しました。教会ですか、宗教に無縁になりつつある若者や子ども達を取り込むには無理ですね。学会のように強力な組織力と大衆制も必要かもしれませんね。全ての面で八方ふさがりを感じますね。教師にとっては自らが「落書き可能な空き地」「心の広場」となり小さな世界でのガス抜きをするしかないかも知れませんね。

2008/6/3(火) 午前 9:48 [ kabanotakara ]

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学校でいじめを受ける事ほど辛い事はない。その後一生友達は出来ない。人生は諦めた、だから将来の夢は1人で誰もいない所に行く、だった。
主と出会った、私と最初の友となってくれた。この方は決して裏切らない、どこまでも共に居て慰め励まし、戒め助けてくれる。心の奥底までご存知で、「真実の愛」を持っているから。
いじめにあっても誰にも言えないよ、それが本音。言える相手が居たら良かったのにね、なんて甘いものではなかった。人と人とは到底理解し合えないもの。自分の身を、存在自体を消すしか方法は浮かばなかった。
人に相談しても何の解決にもならない。人が自身の存在価値を見い出した時、初めてそれは解決の道をたどる、のではないかと想えるように変えられた。

2008/6/3(火) 午前 11:33 [ flowral9184 ]

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星さん、「呪縛されていた」ってわかります、すごくわかるような気がする。。。「そんな学校から逃げたっていいんだ」と言われても、どこに逃げたらいいのかわからないんですね。また逃げる、立ち向かうという発想がすでにある土俵の上にあることにも気づかないんですね。「そんな無益な闘いに私は私の貴重な時間を費やしたくありません、ばかばかしい」と言うには、やはり「もうひとつの世界」を子供が知っている必要があると思います。もしかしたらオトナも。すべての人にとっていわばナルニア国が必要なのかもしれませんね。

2008/6/3(火) 午後 10:10 koroba

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あらっヨハネさん、珍しく長いコメント(笑)。建物としての教会を「私たちのあいだ」にしていくことができたらいいですね、日々新しく。

2008/6/3(火) 午後 10:13 koroba

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すたさん、まったくだわ。「出会い」の機会がないのは結婚を考えている男女ばかりではないのよ。ほとんどの人にとって出会いが職場か学校か「出会い系サイト」くらいのものになってしまっているのね。これってかなり寒い状況かも。。。すたさん、相手をイジメ返したのね(笑)。現場を知る者にとって、今、「やられたらやり返す」はリスクがあるわね。「そしたらまたやり返される」がありますからね。相手と別の土俵、別の次元に立てたら突き抜けられるのかもしれないけれど、そのためには「別のものさし」が必要ですね。

2008/6/3(火) 午後 10:19 koroba

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ぱーぷるさん、今の親は子供に何を期待しているのかなあ。「勉強しろ」と本気で子供の尻を叩いている親は割合にしてそう多くはないような気がするんですよ、教師の目から見て。そのわりには塾に通わせている親は多いけど。子供が「こうあらねばならない」という親や教師のプレッシャーでストレスを感じているようには思えない。今の親はむしろ「子供はのびのび育てたい」という志向性が強く、学校もゆとり教育を推進してきました。子供を取り囲む閉塞感は別のもののような気がします。

2008/6/3(火) 午後 10:23 koroba

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kaba先生、ボーイスカウトやサッカーのジュニアリーグや少年野球にハマれる子供はいいと思うんですけど、きっと子供時代の私にはムリだっただろうなあ(笑)。。。今のニッポンにいないのは、ケストナーの『飛ぶ教室』に出てくる「禁煙先生」のような存在かもしれません。先生でもなく親でもなく、少年野球の監督でもない。あるいは夏目漱石の『こころ』の中の「先生」。ふたりとも「先生」と呼ばれていますけれど、学校教師とは明らかに異質な存在です。ふたりの共通点は…自分の人生をしっかり背負い、苦悩を奥歯にかみしめ、けっして「先生」を自称しないところかもしれません。

自らが「落書き可能な空き地」「心の広場」となり小さな世界でのガス抜き、をしているような包容力のある教師は各学校に数人はいるように思います。それでも重松作品に描かれた子供たちの病みようは尋常ではないのですが。

2008/6/3(火) 午後 10:34 koroba

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flowralさん、「人と人とは到底理解し合えないもの」「人に相談しても何の解決にもならない」という諦観を私も奥底に持っているような気がします。だから中学校で歌われる安易な「友情と希望」の歌に拒否感を感じるのかもしれません。若いときは人を信じていたし、期待もしていました。今では根底のところで人を信じてはいません。むしろ人への幻想を捨ててからの方が他人に腹も立てず、深く傷つきもせず、淡々とことを進めていけます。そしてそのことと矛盾しないのですが、私はそれぞれの人の中にいる、自分の中にも他人の中にもいるキリストを信じています。

2008/6/3(火) 午後 10:49 koroba

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(flowralさんへつづき)私は人を信じていない。だからある子供を自殺に追い込むまでいじめたクラスメートが彼の自殺によって「自分たちはどんなにひどいことをしたか」と思い知り、罪悪感に一生苦しめられるだろうとも思わない。彼らはぬくぬくと生きていくでしょう。いじめを受けて自殺した子供には読みの甘さがある。「自分が死ねば相手は苦しむだろう」…甘い読みです。それを「甘い」と言うほどに、私は人間というものを信じていないし期待していない。いいかえれば私は人間が罪のなかにある存在だということを確信しています。そしてそれと矛盾しないのですが、その人間の奥深くにおられるキリストの存在を確信しています。

2008/6/3(火) 午後 10:50 koroba

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>私は人間が罪のなかにある存在だということを確信しています。そしてそれと矛盾しないのですが、その人間の奥深くにおられるキリストの存在を確信しています。

はい。罪の問題はもっと深く見ていく必要がありますね。
それこそ、パウロ以来、人があまり足を踏み入れていない問題なのかもしれない。理由は、きっと自分の罪について人は目を覆われているから・・・もし罪が分ったら、私たちの存在自体が成り立たなくなるかもしれない。

2008/6/5(木) 午前 2:52 [ - ]

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神の小羊さん、「子供を信じろ」「友達を信じろ」と言いますよね。どういう次元で信じるかが問題だと思うのです。ドストエフスキーの小説の中に「今度こそは」と誓いながら舌の根も乾かぬうちに安月給で飲んだくれてしまう男がしばしば登場します。人間とはこのような存在かもしれないという気がします。それでいながらドストエフスキーの小説に差し込む気高い光は何なのでしょう。希望と「信」を語るのだとしたら、この救いようのない嘘つきの飲んだくれの上にも高みから注がれるこの光以外に根拠はないと感じます。うまくいえないのですが。

2008/6/6(金) 午後 9:17 koroba


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