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ツタヤのDVDレンタルが先週末限定で一枚100円だったので、

4枚借りて、今週は映画漬け。

その中の1作、ロシア映画で金獅子賞を受賞した『父帰る』。

映画評をネット検索したところ、「後味が悪い」「不完全燃焼」「結末がわからない」

そのとおりの映画。

珍しい映画を観た。

ひとことで言うと「映画にならない映画」「ストーリー不成立のストーリー」。

12年間不在だった父親が幼い兄弟の前にある日突然現れる。

兄弟を旅行に連れ出すが、道中愛情らしい愛情は微塵も見せない父。

無人島へのハードな旅行の目的も、掘り出した箱の中身も明かされないままに、

物語は息子を助けようとして父がはしごから転落し、死ぬことでエンディングを迎える。

「お前なんか大嫌いだ!」幼い息子が叫んで父を拒否したのち、

すべての謎が明かされぬままに物語は終わる。

ストーリー不成立のストーリー。

しかしこれが多くの人々にとっての人生なのかもしれないとも思った。

「お前なんか大嫌いだ!」…このひとことで、すべての謎解きは中止され、

人生の多くの出来事の意味は未解明に終わるのだ。

映画のストーリーが不成立に終わったことをくやしがる私たちは、

私たち自身の人生の意味が明かされぬままに終焉することは怖れないのだろうか、

そんなことを思った。

イメージ 1

エデンの園でイヴが蛇にそそのかされて食べ

アダムにも食べさせた禁断の木の実

「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け」と聖書には書いてあり、

おいしそうで目を引き付けるけれど食べると罪に陥るものは何だろう、

女(イヴ」が男(アダム)を誘惑したのだから、

きっとこの木の実は肉欲だろう

と通俗的には解釈されてきたふしがある

しかしそう解釈すると、

この木が「善悪の知識の木」とよばれている意味がわからなくなる

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。
蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、
死んではいけないから、と神さまはおっしゃいました。」
蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。
それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、
賢くなるように唆していた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、
二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
(創世記3:1−7)

私は長いこと、この箇所の意味がわからなかった

人間に「原罪」とよべるものがあることは何となく感じたけれど

それが「善悪の知識」と関係があるというのが納得いかなかった

罪とは悪いことをすることなのだから

「善悪の判断」をすることは大切なことじゃないか

人を殺すのは悪いことだし

盗みをするのも他人をだますのもいけないことだ

「原罪」というものがあるとしたら

そうした悪いことを悪いと知りつつ状況によっては犯さざるをえない人間の弱さを言うのであって

たとえば殺さなければ殺される戦場において人殺しをすることとか

一文無しで腹がへってパンを盗んだとか

そんなことを指すのかと思っていた

さらに実際に人を殺すことはもちろん

「殺したい」「あんな人いなければいいのに」

と心の中で思ったことまで「罪」に含めるのなら、

たしかに全ての人には罪があるのだろう、

たとえ心に思うことさえしなくても

人間は豚や鶏や魚など他のいのちを食べなくては生きていけないのだから

仏教的観点からも、たしかに罪があるのだろう

そう考えて「原罪」を納得していた

しかし「原罪」は納得しても、善悪の知識と罪の関係は納得できないのだ



けれど今までの自分の「痛み」の経験を振り返ってみると

聖書に書かれている言葉の意味が不思議と納得されてくる

自分が今まで痛みを与えられた出来事をひとつひとつ挙げてみると

それは例外なく自分が「善悪」のまな板の上で切り刻まれた経験だ

たとえばこんなことがあった

70歳を越えて強迫神経症がひどくなった姑を私たち夫婦は引き取った

夫の兄は「お母さんは一人で暮らすのがいいんだ」と主張して

最後まで「俺の反対にもかかわらずお前たちが勝手に引き取ったんだ」と言い続けた

姑の強迫神経症はひどくて、とても一人にはしておけなかった

近所の人はみんな自分を監視していて、警察も自分をマークしている、

ゴミ収集の日に出したゴミ袋を警察が持っていく、

水道工事の時に盗聴器を設置された、等々…

そして南向きの明るいリビングなのに一日中カーテンを閉め切って

眉根を寄せた暗い顔をしてただ座っている彼女を

どうして一人にしておけただろう

また一方そんな彼女と一緒に暮らすことに、どうしてストレスを感じないでいられただろう

義兄はたまに電話をかけてくるたび、ただ「母はいますか」とだけ私に言い、

ねぎらいやお礼の言葉を述べたことは一度もなかった

「母がいつもお世話になっています」「大変でしょう」とは一言も言わなかった

「俺の反対にもかかわらずお前たちが勝手に引き取ったんだ」から。

姑との同居のストレスも大きかったが、その義兄の態度も澱のように心にしこった

「母は一人で暮らすのがいい(善)んだ」

なぜ義兄はその意見に固執したのだろう

義兄は私に一度も心を開いてくれなかった

「俺はあんなおふくろとは一緒に暮らしたくないんだよ」

「お前たちがおふくろを引き取ってくれることはありがたいけど、なんだかやましい、
だからできたらやめてほしいな」

「お互いに知らんぷりしようよ、同居はストレス溜まるからさ」

そんなふうに率直に言ってくれたら、私の心もどんなに軽くなったことだろう

「でもさ、ほっとくわけにもいかないしさ」「お義兄さんは負い目を感じることないよ、
余力のあるほうがやるからさ」「どうにも行き詰ったらそのとき考えよう、私たちも無理しないからさ」

そんなふうに答えて、義兄もたまに遊びに来て、私のグチを聞いてもらえたら

どんなに慰められたことだろう

「あなたが引き取らないから私たちが引き取るハメになったんだ!」

そう責められることを義兄はおそれていたのだろう

「精神を病んだ母親を一人にさせておくなんて、ひどい息子ね」

そう見られることを義兄はおそれていたのだろう

だから

「母は一人で暮らすのがいい(善)んだ」

と義兄は主張し、さいごまで主張しつづけた

私の心に重く澱のようにしこったものはなんだったのだろう

なぜ私はあんなにもつらかったのだろう

義兄が母親を顧みるあたたかい心を持たなかったからだろうか

そうではなかった、と今思う

そんなあたたかい心など、私も持ち合わせてはいなかった

シーツを何日も換えてあげなかった

お風呂に入ることもいやがり清潔に無頓着な姑を

それでもやさしく「お風呂に入ろうね」と諭してきれいにしてあげる根気を

私は持たなかった

部屋とテレビをあてがい、ご飯を用意して、あとはほっておく冷たい嫁だった

愛の少ない私にできる、それが精一杯だったのだ

だから義兄の冷たさをなじる権利など私にはなかった

私がつらかったのはただひとつ

「母は一人で暮らすのがいい(善)んだ」

その善悪の土俵から義兄が一歩も降りてきてくれなかったことだった

幸いだったことは

「あなたが長男なんだから、お義母さんの面倒をみるべきでしょう?!」

「お義母さんは息子と暮らすのがいい(善)に決まってるわ!」と反撃して、

言い争うことをしないうちに姑を看取れたことだ

そういう言い争いは、国と国の戦争と同じ構図を宿している

私は一度耐えかねて、姑と夫を置いて家を出た

何年か後、また関係を戻して姑を再度引き取った

そのことで姑を傷つけたのか、

同居したことがよかったのかどうか

わからない

わからないでいいんだと今は思う

何がよくて何が悪いのか

そんなことは人間は知らなくていいのだ

人が傷つくのは多くの場合、

「あなたが悪い」と他人に言われた時だ

そう言われて割り切れない感情がある時、つらい時、

人はそのつらさを「相手が悪いんだ」と考えることで軽減しようとする

そんなことはしなくていい

私が悪いのか相手が悪いのか

そんなことは考えなくていい

ただ自分のつらさと痛みをキリストに差し出そう

十字架のイエスさまに差し出そう

十字架こそが

エデンの園の「いのちの木」だから

あなたが…

イメージ 1

あなたが大切だ

僕がそばにいるよ

今泣いているあなたが再び笑顔になるのをみたいから










神より

彼女と話す話し方

言ってもきかない人がいる

自分の主張を押し通す

議論をしても実りがなく

エネルギーだけ消耗するし

反論して恨まれると後から面倒なので誰も何も言わない

正面切って何も言わない分

陰で悪口を言う

表面では皆友好的に振舞っている

周りも本人も気の毒だと思う



多かれ少なかれこういう人は世間にいる

「彼/彼女に何を言ってもムダだから」

そう思われている本人も不幸だし

摩擦を避けて「NO」を言わないで愛想笑いを浮かべている職場も不健全だ

ではどうしたらいいのだろう



こうしたらいいんだよと

アドバイスしてくれたおじいちゃん先生

今は定年退職してしまわれたけど

さすがまっすぐ謙遜に長い年月を生きてこられた人は

知恵を備えておられるんだな

彼女と議論せずに

「私はこう感じました」ということだけを伝えればいいんだよ

「自分はこう感じた」ということは事実であって

議論して成否を争う事柄ではないから

「私はこう感じた」ということはきちんと伝える

彼女の感じ方や意見は否定しない

「私はこう感じた」と伝えた上で、それを相手がどう受け止めるかは

相手の問題

相手にゆだねる

そう、そういえば同じことが今読みさしている

『境界線』(BOUNDARIES)という本にも書かれていたのだった


相手と敵対関係になる必要はないけれど

同意したそぶりをしたり愛想笑いを浮かべる必要もない

相手を人格として尊重するならば

自分の気持ちを押し隠すことはかえって真実の関係を損なう

それでも相手は耳を傾けないかもしれないし

さらには怒るかもしれない

それは相手の問題、相手の領域=BOUNDARIES

言葉を受け止めるかどうかは相手の問題、相手の領域だけれど

種を蒔くか否かは私の側の問題であり責任だろう

福音書にもこう書いてあったのでした

町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、
その人のもとにとどまりなさい。
その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。
家の人々がそれを受けるにふさわしければ、
あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。
もしふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。
あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、
その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。
(マタイによる福音書10:11−14)

BOUNDARIESという本は、愛の限界を説いているわけではないようです

人間関係というのは関係だから

私の側の熱意や思いだけではどうにもならない部分があります

そのときにどうしたらいいのか

相手の言うなりになるのか

沈黙するのか

従ったふり、同意したふりをするのか

怒るのか決裂するのか憎むのか

いずれでもない第三の道はないのか

どこにでもあるような職場での出来事と人間関係に

読書とおじいちゃん先生の言葉がヒントを与えてくれたようなのでした

神秘

人間は神さまを愛するのでなければ

互いに愛し合うことができないように作られている

砕かれて、神さまにのみ栄光を帰してはじめて

愛し合えるように作られている

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