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condemnation vs. conviction

condemn, condemnation
≪語源≫ラテン語condemnare(『判決』を言い渡す)com-=throughly『完全に』+damnare(『責める』『害を与える』)=完全に破滅させる  <damnum(『損失』)
 
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動詞[編集]
condemn (三単現: condemns, 現在分詞: condemning, 過去形: condemned, 過去分詞: condemned )
  1. (他動詞) 責める非難する
  2. (他動詞) 糾弾する、とがめる、罵倒する
The president condemns the terrorist.
The president condemns the terrorist attacks.
  1. (他動詞) 公用接収する。
  2. (他動詞) 不良品[使用不能]だと決めつける、廃棄処分にする、(建物)を使用不可とする
The house was condemned after it was badly damaged by fire.
  1. (他動詞) 有罪と判決する、刑の宣告をする
  2. (他動詞)苦境を強いる、運命づける
 
  1. (他動詞)不治の宣告をする
  2. (他動詞、 法律) 没収を宣告する。
類義語[編集]
  • damn(非難する、ののしる、破滅させる)
  • damned(のろわれた、いまわしい)
  • damage(損害、破損、損なう、傷つける)
対義語[編集]
 
convict, conviction
convict  有罪と断ずる、罪があることを深く納得させる
 be convicted of sin  罪の意識に苦しんでいる
 be convicted by one’s conscience   良心に責められる
conviction  有罪の決定、確信、信念
convince  納得させる、承服させる ≪語源≫ラテン語con-=thoroughly『完全に』)+ vincere (=conquer 征服する)=相手を完全に征服する
 
イメージ 2
 
I came, not to condemn the world, but to save it. (John 12:47)
  *condemnjudgeとなっている英語聖書が多い
 
There is no condemnation now for those who live in union with Christ Jesus. (Romans 8:1)
 
“Now God’s salvation has come! Now God has shown his power as King! Now his Messiah has shown his authority! For the one who stood before our God and accused believers day and night has been thrown out of heaven. They won the victory over him by the blood of the Lamb and by the truth which they proclaimed: and they were willing to give up their lives and die. (Rev. 12:9)
 
Do you, my friend, pass judgment on others?  You have no excuse at all, whoever you are.  For when you judge others and then do the same things which they do, you condemn yourself.  (Romans 2:1)
Surely you know that God is kind, because he is trying to lead us to repent.  (Romans 2:4)
 
 
和訳 
condemnation と conviction
神を信じるあなたたちの中にも、人の罪を責める(condemning)考えを聞いたことのある人は多いでしょう。こうしたことを言うのは神ご自身だと思う人さえいます。友よ、とんだ考えちがいです。あなたがどんなにダメ人間かなんて、神様はけっして言いません。イエスさまは言います。「わたしは世をさばくためではなく、世を救うために来たのである。」(ヨハネによる福音書1247節)
 
condemnationとは何か
condemnationはサタンから来ます。あなたを傷つけることがねらいです。condemnationはたえず、あなたがどんなにダメ人間か、これまでどんなに失敗ばかりをしてきたかを指摘します。condemnationはあなたに問題を示しますが、解決は示しません。
 
イエスさまが来られたのは世をさばくためではありません(ヨハネによる福音書1247節)。イエスさまの中にcondemnationはありません(ローマ人への手紙81節)。一方サタンは、兄弟たちを告発する者として知られています(ヨハネによる黙示録1210節)。
 
あなたがどんなにダメかなんて神様はこれからもけっして言いません。どうしてでしょうか。イエスさまが言われたからです。「わたしは世をさばくためではなく、世を救うために来たのである。」(ヨハネによる福音書1247節)
 
convictionとは何か
convictionは聖書の中では、神様のあわれみとして知られています。聖書には、神様のあわれみは私たちを悔い改めに導くものであると書かれています(ローマ人への手紙24節)。condemnationはあなたに言います。「おまえはなんてダメ人間なんだ!自分のやったことを見てみろ!」。一方convictionはあなたに言います。「わたしのもとに来なさい。ゆるしてあげよう。」
 
神様はあなたの罪をよろこんでゆるそうとするばかりではありません。神様はゆるしたいと切望し、ゆるすことを深く深く願っておられるのです。イザヤ書3018節には次のように書いてあります。「それゆえ、主は恵みを与えようとしてあなたたちを待ち、それゆえ主はあわれみを与えようとして立ち上がられる。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。」
 
ヨハネの第一の手紙19節をみてみましょう。「自分の罪を告白するのなら、神は誠実で正しい方ですから、私たちの罪をゆるして下さいます。そしてあらゆる不義から私たちをきよめて下さいます。」
 
ローマ人への手紙24節:「あるいは神のあわれみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」
 
convictionはあなたの抱えている問題に解決を示します。convictionはあなたに、あなたの罪を洗い流すイエスさまの血を見せます。
 
何がちがうのか
convictionはあなたに解決を示します(つまりイエスさまの血です。イエスさまの血が罪を洗い流します)。一方condemnationはあなたに問題を示します(罪と過去、あなたの失敗です)。condemnationはあなたに問題を示しますが、convictionはあなたに解決を示すのです。
 
condemnationは叫びます。「おまえの過去!おまえの罪!ダメな奴だ!」けれどもconvictionは叫びます。「イエスさまの血が罪を洗い流します。イエスさまのもとに来て、罪をゆるしていただきなさい。あなたの罪と過去はもうあなたの一部である必要はありません。」
 
神様のゆるしの本質を理解すること
神様のゆるしの本質とわたしたちを過去から浄めたいと願っておられる神様のねがいを理解することはとても重要です。罪のゆるしは、神様のゆるしの本質を示す偉大な教えなのです。

平和ボケ

戦争を直接体験で知る世代の多くが亡くなってから、
 
憲法を変え、戦争できる国になろうとしている、
 
これこそを平和ボケと呼ばずなんと呼ぶのだろう
 
68年前のあの戦争で、政府や軍の指導部がいかに無責任だったか
 
いかに無謀で無策だったか、
 
いかに一般大衆を見殺しにしたか(死へと追い込んだか)
 
を思い起こしてみれば、
 
安部総理の勇ましさを信頼できるはずがない
 
安部総理は改憲を「私に課せられた歴史的使命」として、
 
戦争ができる国づくりへと準備を着々と進めている。
 
正気の沙汰とは思えない。     
 
イデオロギーの立場から憂えているのではない。イメージ 1
 
「愛国者」だとか「自虐史観」だとかウヨクだとかサヨクだとか、
 
ここまで来たらとりあえずどうでもいい。
 
自分で言うのもなんだが、人一倍現実主義的で、手堅く、
 
経済観念の発達した、いい年のオトナとして思うのである。
 
平たく言おう。
 
ニッポンはカネがない
 
それでもカネをかけざるをえないことが少なくとも1つあって、
 
その1つには果たして総額いくらかかるのか見当もつかない。
 
それでも国際的な責任もあって、いくらかかっても取り組まざるをえない。
 
そう、福島の放射能事故の後始末である。
 
いまだにどんどん漏れ出ている高濃度放射能汚染水をとりあえずタンクに詰めてるけど、
 
タンクがどんどん増え続け、海に流れ出ている。
 
どうしたらいいのか先もみえない。
 
少子化で納税者が減り、老人が増えるとなると、
 
税収は減る上に、出費はかさみ、
 
並行してインフラも老朽化していく。
 
どこかの国のように、錆びて傾いたままの建物をだましだまし使っていくみたいな状況になるんだろう。
 
それがみえていて、なぜこの期に及んで「改憲」「集団的自衛権を!」というのかわからない。
 
いくらかかるのか?
 
アメリカは大喜びだろう。
 
戦力はそのままに軍事費を削減したいのだから。
 
「そんなお金どこにあるの?」と夫や子供に対してなら言いたい。
 
「投資」としてなら無理をして銀行から借金をしてでも出してやっていい。
 
軍備増強や戦争(ソフトには「集団的自衛権の行使」と呼ぶ)は投資か?
 
戦争が「投資」であった時代は終わっただろう。
 
戦争に勝って富裕になった国は、現代史の中には一つも見当たらない。
 
アメリカが第二次大戦後繁栄を享受したのは、
 
ギリギリまで参戦しなかったからだ。
 
そのアメリカもベトナムやイラク、アフガニスタンという弱小国を相手に
 
泥沼に入り込み、いまだに抜け出せずにいる。
 
戦争放棄を宣言した憲法9条は、理想主義者の理想なんかではない。
 
それは弱者が国際社会で生きていく知恵である。
 
「私は武器は持たないし、あなたに暴力をふるうようなことは絶対しないから、
 
あなたも私に暴力をふるわないでね」という、
 
大変安上がりなわりに効果の高い、お利口なオプションなのである。
 
その反対に、「オレは武器を持っているんだぞ。なめんなよ。」という手に出た場合、
 
「何を?!オレだってスゲエ武器を持ってるんだ。いきがってんじゃねえ、クソガキ!」
 
というたえずツッパッテいなくてはならない大変疲れるシチュエーションに追い込まれる。
 
(教会には元ツッパリ少年がいるが、「ツッパるのはいつもピリピリして疲れた」と言っていた)
 
私はこれまで自分から暴力をふるったことは一度もないが、それは私が平和を愛する乙女だからではない。
 
ひとえに腕力がなかったからだ。
 
だから暴力をふるわれたときは、自分が悪くなくてもとりあえず謝って、
 
相手の(かんしゃく持ちの父だけど)怒りをなだめようとしてきたし、
 
なるべく相手を怒らせないように細心の注意を払ってきた。
 
それで自分の尊厳が侵されたとも思っていない。
 
暴力に訴えて自分の思い通りにしようとする人間は心の中で軽蔑しているし、
 
とりあえず謝るのは処世術であって、そうやって父をやりすごして大学まで終え、
 
あとは独り立ちして自由に生きているのである。
 
上から目線で悪いが、みなさんもっと歴史を勉強したほうがよろしいと思う。
 
武器で自衛して自分や国を守れるのかどうか、
 
銃規制のないアメリカや「ハリネズミ国家」イスラエルをみよ。
 
私には今の日本が、竹槍でB29を追い落とそうとした70年前の日本と変わらなく思えるのである。
 
 
 
 
 
 

オタク2

「意味」が、他者とつながる回路である。
 
自分の遭遇した経験の意味をみいだすとき、
 
「異なる」経験をした他者とつながることがはじめて可能になる。
 
「意味」が、個から普遍への、孤立から共感への地平を拓く。
 
「情報」と「知性」の違いは、「情報」が意味を問わないのに対して、
 
「知性」はつねに情報の意味を考え、
 
そのことによって、情報相互の関係を見出し、体系を打ち立てることにある。
 
意味を問わないのならば、「量」だけが問題になる。
 
どれだけたくさんの単語を覚えたか、どれだけたくさんの年号を覚えたか、
 
どれだけたくさんのキャラクターを集めたか、
 
どれだけたくさんの人間が「友だち」に登録されているか。
 
一方、科学も学問も文学も、「個」から「普遍」に至る道をめざしてきた。
 
「りんごが木から落ちる」現象と「地球が太陽の周りを回る」現象は
 
一見全く異なる個別の現象であるようにみえるのに、
 
「重力」という同一の力によるものであることをみいだしたのが科学であった。
 
文学はフィクションを通して、作家の経験した出来事の意味を作家自身に再認識させる営みであった。
 
「人間とは」「人生とは」「世界とは」と問うのが科学や学問や文学である。
 
また他者と対話していてたのしいと感じるときは、
 
自分の経験と他者の経験が一見まったく異なっているのに、
 
共通する意味をみいだしたときである。
 
たのしい対話はたのしい読書と本質的に同じである。
 
他者の経験をとおして、自分の経験の意味を見出すとき、
 
人生の深さとゆたかさを教えられる。
 
オタクがどんなにたくさんのトリビアな情報を披歴しても、
 
どんなにたくさんのコレクションをも公開しても、
 
どんなにコンピュータ操作にすぐれても、
 
他者とつながることはできない。
 
キリスト教の神はわたしたちに、
 
「たくさんの」ものを与えてはくれない。
 
そうではなくて、わたしたちに、
 
人生と世界の意味を教えてくれる。
 
そのことによって、
 
他者とつながることを可能にしてくれる。
 
 
 
 
 

おタク

江の島の猫の飼い主がみつかった。
 
真犯人かどうかはわからない。
 
疑わしきは罰せずを貫いてほしい。
 
「いかにも友だちいなさそうな奴だ」「いかにも犯罪起こしそうな奴だ」
 
と視聴者が思うところが、あやうい。
 
で、多くの日本人と同様に、
 
この事件を話のネタに同僚とお昼ごはんを食べていたのだった。
 
私 「おたくってアニメとゲームとコンピュータが好きでしょ?この共通点は何なの?」
 
ユミさん 「ストーリーがあるとこかな」
 
私 「はっ?おたくって人間づきあいキライでしょ。生き物がキライだから、鉱物に向かうんじゃなくて、人間のストーリーに向かうの?」
 
ユミさん 「そういうもんでしょ。」
 
私 「リアルの恋愛はこわいけど、ラブストーリーの映画は観るっていうのとおんなじか。リアルの人間は避けるけど、人間の織り成すストーリーは欲するわけね。」
 
ユミさん 「そういうもんじゃない?」
 
私 「だけどさ、文学青年、文学少女とアニメやゲームが好きな少年はどうちがう     の?」
 
ユミさん 「客観性があるかどうか。ゲームは自分の思ったとおりにストーリーを作れ      でしょ?」
私 「なるほど!文学はフィクションであっても現実の観察を投影しているものね。」
 
 
 
 
ユミさんはスルドイ。おたくがなぜ他者と会話ができないか、犯罪予備軍とみなされがちなのか、その根拠を言い当てている。
 
文学はフィクションであっても、現実の観察に根差しているから、
異なる現実を生き、異なる体験をする他者と接点を持つことができる。
 
異なる場所と異なる時間を生きる他者と共有しうる問題を提起する。
 
そして他者との対話を通して、現実を掘り下げ、より普遍的な地平を開拓するという
開かれた視座を備えている。
 
読んだことのない小説の話でも、その小説が提起する問題が、自分の問題と重なることに気づき、興味を持つということがある。
 
アニメやゲームの多くはそうではない。
 
ユミさんいわく、「だからゲームはファン同士では会話は盛り上がるけど、
そのゲームを知らない人との間では会話が成り立たないのよ。」
 
聖書も一大ファンタジーである。
 
しかしそのファンタジーは、紀元前の現実と21世紀の現実を重ねることができるものだし、聖書の中の出来事は、自分の人生の出来事と重ねることのできるものである。
 
他者の現実と自分の現実を重ねることができなければ、対話は成り立たない。
 
ストーリーは創造主によって与えられ、私たちは自分に与えられたストーリーを見出し、生きることしかゆるされていない。
 
それが被造物であるということであり、自分がストーリーを創造するとき、私たちは他者を見失う。
 
現実のストーリーは私たちにとって「意のままにならないもの」である。
 
意のままにならない現実を生きるとき、私たちは、苦しみと悲しみを知り、
苦しみと悲しみを通して、他者の苦しみと悲しみにつながることを知る。
 
そして「生きる」ということの普遍的な意味に気づく。
 
「思った通りにストーリーを作る」とき、私たちは、被造物として味わう至福を失ってしまうのではないだろうか。
 
私が思いのままに作るストーリーより、創造主の作るストーリーの方がはるかにすばらしいのだから。
 
 

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