|
ついさっき受けた教員初任者研修のテーマである。 なんだかあやしいよね。 でも私はこういうのって現実にはけっこう役立つんだろうと思っている。 「他人に好かれる技術」とか。 何に役立つのかというと、まずこういう人間の根本にかかわることを 「技術」「スキル」としてとらえるそのドライさが ストレス多き社会の中で精神の健康を維持するのに役立つだろうと思っている。 私はマジメな人が自分を追い込んでうつのスパイラルにはまる気持ちがわかるのである。 私自身はうつの経験はないが、若い頃つらくて「自殺したい」とまでは思わなかったけど 「死んだらラクになれるのになあ」とチラと思ったことはある。 私はマジメなクリスチャンだけど(ほんとかいほんとかい?!←自分でもかなりあやしいと思ってる…笑) マジメなクリスチャンの同僚が自分を追い込んで自殺した出来事にも遭遇している。 マジメな人は、人間関係がうまくいかないとき、 原因を自分に求めてしまうのである。 それも自分の「スキル」にではなく、自分の性格とか「愛」の欠如に、である。 マジメなクリスチャンはさらに原因を自分の信仰の薄さに求めてしまうのである。 「周囲の人とうまくいかないのは私に愛が足りないためではないのか」 「私に信仰が足りないためではないのか」 「私に他人に嫌われる性格上の欠陥があるためではないのか」 これは苦しい自問である。 うつと自殺に至るこのスパイラルはわかる気がする。 ってか半分くらいまでこのスパイラルをたどっていったことはある気がする。 もちろんイエスは言う。 「あなたが目が見えないのは、あなたに罪があるためでも祖先が罪を犯したためでもなく、 神の栄光があなたを通して現れるためです」 それでも私は私の目がみえないこと、目の前の人間関係がうまくいかないことに日々苦しみ、 苦しい自問のスパイラルからのがれることは難しい。 そして周囲の人間はあわれみと愛のかけらもなく私の「欠点」を指摘しあげつらうこともある。 「あなたのこれこれこういうところがキライ。改めなさい!」 中学校では情け容赦もなかった。 ひとりの子供を数人が取り囲み、「だからキライ!」「直しなさい!」と合唱するのである。 なだめ、とりなしたけれど、何の役にも立たなかった。 私が漫画かドラマに出てくる教師だったら、 「じゃかあしい!ぎゃあぎゃあ一人を責めるお前の方がよっぽど性格悪いだろうが!」 「えっ?!お前はブスだろうが!ブスは他人に不快感を与えんだよ!」 「お前は頭悪いだろうが!」 と教育委員会の懲戒をモノともせぬ暴言で子供たちをだまらせたあと、 「いいか、誰にでもな、欠点はあんだよ!お前にも、お前にも、お前にもな。オレにもだ。だからぎゃあ ぎゃあ言うんじゃねえ!!お互いに大目にみてもらうしかねえんだ。わかったか、お前の度量を広げろ、 それしか解決策はねえんだ。」と啖呵を切るだろう。 しかしリアル世界の教師はそんなことはまさか言えない。。。 周囲の人と愛にあふれた関係を築くことができないのは、 あなたの愛が足りないためでも、あなたの性格が悪いためでも、 あなたの信仰が足りないためでもない。 スキルの問題である。 あなたはあなたの魅力と愛と思いやりをそのままに伝えるスキルを会得していないだけである。 こう発想を転換することだけで、人はずいぶんラクになることだろうと思う。 そして私は実際大部分はそういうことだろうと思っている。 私の父親はコミュニケーション技術の未熟な男だった。 (昔の男はたいていそうだろうけど。) 父と向かい合っていると気詰まりだった。 けれど今、父が愛情の薄い人間だと断定的な判断を下しているわけではない。 教員になって、コミュニケーション技術に長けた同僚をずいぶん見てきた。 けれど彼らの人間性が高潔だったと断定的な判断を下しているわけでもない。 人間っておそらく五十歩百歩である。 ホームレスもヤクザもクリスチャンもおそらく五十歩百歩である。 十字架にかかったキリストの愛を私は信じている。 けれど人間の愛にはどうしたって不純物が混ざっているのだ。 そしてそんなどうしようもない存在だけど、私は周囲の人間と楽しい関係を築きたいと願っている。 「信頼関係を築くコミュニケーション術」、いいではないか。 ドライにいこう。 そして周囲の人間とうまくいこうがいくまいが、 私の懺悔すべきことはもっと深い次元にあるのだ。 でもできれば今日一日、あなたと笑いあって過ごしたいよ。
|

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用




