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闇の子供たち…神さまはおそろしく非情な方だと私は思いました 神はあの無辜の幼児たちが 欲望に駆られた獣たちの性器をくわえさせられ お尻から血を流し エイズに罹り ゴミ袋に詰め込まれ 生きながら臓器を抜かれるのを 黙って見ているほどに非情なのです 死にいたる最後まで介入しないほどに非情なのです キリストの十字架がなかったのならば 私はきっとこの神の非情さにつまづいたことでしょう 神自身がこの非情さによって血と涙を流しながら死んでいったという事実がなかったならば 神はなにゆえに黙っておられるのでしょうか 私はその理由をこの映画「闇の子供たち」でかいま見たように思ったのです それは私たちが有り余る財産の中から献金をするようにではなく やもめが有り金のすべてである2レプタの献金をささげるように 隣人を愛することを求めておられるのからではないのでしょうか 貧しいタイの子供から臓器を抜き取っての臓器移植に 私たちがヒューマニズムから反対することは容易なことです けれど愛するわが子が臓器移植で生きながらえるとわかっているときに あえて臓器移植をあきらめるには ヒューマニズムとはちがった「愛」と「希望」が必要です 人身売買のブローカーや売春宿の管理人も底辺に生きるタイの人々です 彼らは私たちが豊かなヒューマニズムで「闇の子供たち」に同情するようには ささげるべき「愛」を持ち合わせていません それは人間性の問題ではなく パリサイ人が有り余る財産を持っているのにたいして やもめが2レプタの所持金しか持っていなかったのと同じことです アランヤーの所在を教えろとNPOに迫られた少女は 余計なことをしゃべれば自分が殺されると知っていました 口を割らなかった少女はギリギリの2レプタを守ろうとしたにすぎません 悪はこの貧困の中で増殖します それでは悪を断ち切るには私たちが豊かになればよいのでしょうか 私たちが有り余る財産を所有すれば たくさんの献金ができ たくさんの愛が世に満ち溢れるのでしょうか 愛をささげるもう一つの道は 私たちが別の「貧しさ」にあることかもしれないと思いました 私たちが豊かな先進国で暮らしていたとしても この命を生きながらえさせるだけのパンに飽き足らないと感じて 「飢えた」者になったとき 豊かに所有して「与える」側ではなく 飢え渇く者、乞い求める者となったとき 私たちは別の「貧しさ」にあるといえます 貧しくなることによってしか与えられないという 逆説的な贈り物があるのではないでしょうか 映画の中で宮崎あおい演じるNPOの恵子は エイズの少女の唇にキスをしました 「私は汚れているでしょう?」というエイズの少女アランヤーに 「汚れてなんかいないわよ」といって恵子はキスをしたのでした アランヤーの微笑み 地獄の中でたったひとりの隣人からでもこんな微笑を引き出すことができたのなら 私たちのはかない人生もけっしてむなしいものではないと 胸を張って言うことができるでしょう どうしたらエイズの少女の唇にキスすることができるのでしょうか 溢れる正義感をもってしてもヒューマニズムをもってしても エイズの少女にキスすることはできないにちがいありません もしそのことが可能にさせるものがあるとしたら 私たち自身が飢え渇く者であることを措いて他にないでしょう 私はエイズの少女の唇にキスをしたことはないし そんなことがこれから先できるかどうかもわからないけれど アランヤーが微笑んだとき 乞い求めていたパンが与えられ アランヤーも恵子も 他の何をもってしても不可能な満ち足りた体験をしたということは 感じられるのです タイの貧困と人身売買を先進国は見過ごしていていいということではありません タイの人々が解決すべき問題だと言っているのでもありません ただタイが地獄で日本や欧米が天国だと思っている私たちは 実は一番天国から遠いところにいるのかもしれないと気づかされたのでした
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