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このブログに何度か登場しているおじいちゃん先生と親しくなったそもそものきっかけは 池田晶子という哲学者が私の大学時代の友人だったと話したことだった おじいちゃん先生は池田晶子をえらく気に入っていて とりわけ彼女の「人は病気で死ぬのではない。生まれたから死ぬのだ」 という言葉を何度も感心して引用していた 私は池田晶子とわりと親しくて卒業式のときも隣り合わせに座っていたけれど 当時からあまり話が合ったという記憶はない どっちかというと話はブツッブツっと途切れがちであった そして彼女がガンで数年前に早逝して、今は亡き彼女の言葉をおじいちゃん先生の口から聞いたときも 感動して語る先生を 「そうですね」とやり過ごすしかなかった、当時と同じように 「人は生まれたから死ぬ」という「事実」を老いの入り口に立った先生が なぜ新鮮な驚きをもって受け入れたのかということのほうに 関心をそそられる 勉強することの意味とか働くことの意味とか出世することの意味とか生きることの意味とか。。。 とりあえず「将来のため」というのが定番の答えなんだろうけれど それでは「将来」を断ち切られた「生」である「老い」と「死」には何の意味があるのか 「生まれたから死ぬ」というのがおじいちゃんへのピンポンの答えとなったということのほうが 私には不思議なのだ 大ヒットしたアニメ『千と千尋の神隠し』の主題歌「いつも何度でも」のなかで 生きている不思議 死んでいく不思議 花も風も街もみんな同じ とあったけれど 「わたしが死んでもこの景色は何一つ変らず続いていくんだなあ」という感慨は 死をちょっとでも考えた中高生の心に必ず浮かぶことなんじゃないだろうか それではなぜ私は今むなしさを感じずに生きているのだろう 「わたしが死んでも花も風も街もみんな同じ」だとは思わないからだろう 「あなたが死んでも花も風も街もみんな同じ」だとは信じないからだろう あなたが死んだらこの景色はたぶん違ったようにみえる あるいはこの景色を見るたびに あなたがこの景色のなかにいた日々のことを思い出す この景色を眺めていたあなたを思い出す 『千の風になって』が大ヒットした背景には 亡くなった愛する人が風となり光となって私と共におり 私を生かしているのだという歌詞への共感があったのだと思う この歌は日本的なアニミズムの感性に訴えているけれど 単なるアニミズムでもないと思う 愛は永遠なのです 愛は風となり光となって いのちをささえるのです 十字架にかかって死んだキリストの愛が 聖霊の風となり光となって わたしのいのちをささえます
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