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江の島の猫の飼い主がみつかった。
真犯人かどうかはわからない。
疑わしきは罰せずを貫いてほしい。
「いかにも友だちいなさそうな奴だ」「いかにも犯罪起こしそうな奴だ」
と視聴者が思うところが、あやうい。
で、多くの日本人と同様に、
この事件を話のネタに同僚とお昼ごはんを食べていたのだった。
私 「おたくってアニメとゲームとコンピュータが好きでしょ?この共通点は何なの?」
ユミさん 「ストーリーがあるとこかな」
私 「はっ?おたくって人間づきあいキライでしょ。生き物がキライだから、鉱物に向かうんじゃなくて、人間のストーリーに向かうの?」
ユミさん 「そういうもんでしょ。」
私 「リアルの恋愛はこわいけど、ラブストーリーの映画は観るっていうのとおんなじか。リアルの人間は避けるけど、人間の織り成すストーリーは欲するわけね。」
ユミさん 「そういうもんじゃない?」
私 「だけどさ、文学青年、文学少女とアニメやゲームが好きな少年はどうちがう の?」
ユミさん 「客観性があるかどうか。ゲームは自分の思ったとおりにストーリーを作れ でしょ?」
私 「なるほど!文学はフィクションであっても現実の観察を投影しているものね。」
ユミさんはスルドイ。おたくがなぜ他者と会話ができないか、犯罪予備軍とみなされがちなのか、その根拠を言い当てている。
文学はフィクションであっても、現実の観察に根差しているから、
異なる現実を生き、異なる体験をする他者と接点を持つことができる。
異なる場所と異なる時間を生きる他者と共有しうる問題を提起する。
そして他者との対話を通して、現実を掘り下げ、より普遍的な地平を開拓するという
開かれた視座を備えている。
読んだことのない小説の話でも、その小説が提起する問題が、自分の問題と重なることに気づき、興味を持つということがある。
アニメやゲームの多くはそうではない。
ユミさんいわく、「だからゲームはファン同士では会話は盛り上がるけど、
そのゲームを知らない人との間では会話が成り立たないのよ。」
聖書も一大ファンタジーである。
しかしそのファンタジーは、紀元前の現実と21世紀の現実を重ねることができるものだし、聖書の中の出来事は、自分の人生の出来事と重ねることのできるものである。
他者の現実と自分の現実を重ねることができなければ、対話は成り立たない。
ストーリーは創造主によって与えられ、私たちは自分に与えられたストーリーを見出し、生きることしかゆるされていない。
それが被造物であるということであり、自分がストーリーを創造するとき、私たちは他者を見失う。
現実のストーリーは私たちにとって「意のままにならないもの」である。
意のままにならない現実を生きるとき、私たちは、苦しみと悲しみを知り、
苦しみと悲しみを通して、他者の苦しみと悲しみにつながることを知る。
そして「生きる」ということの普遍的な意味に気づく。
「思った通りにストーリーを作る」とき、私たちは、被造物として味わう至福を失ってしまうのではないだろうか。
私が思いのままに作るストーリーより、創造主の作るストーリーの方がはるかにすばらしいのだから。
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