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クリスマス、神が人となって生まれ給いました。
世人の中に住むべきために。
エデンの園で神となろうとして禁断の木の実を食べたアダムとエバをあがなうために。
人は神となろうとしたが
神は人となった、
救いは神秘としかいいようがない。
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こんにちは、ゲストさん
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クリスマス、神が人となって生まれ給いました。
世人の中に住むべきために。
エデンの園で神となろうとして禁断の木の実を食べたアダムとエバをあがなうために。
人は神となろうとしたが
神は人となった、
救いは神秘としかいいようがない。
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教育の敗北だと思います。
たくさんの年号を覚えさせ、過去の出来事について学ばせながら、経験の意味を考えさせることができなかったのだから。
戦争経験者が世を去り、あるいは体力も気力も知力もなくなった今、
こんな法案が通るのは、
人間が直接体験からしか学べないということに等しい。
他者の経験から自分の直接体験を照射し、そこに普遍的な意味をみいだしていくことが
人間として生きるということであるのに。
過去の出来事に照らして現在の意味を考えることこそが
知性の意味であるのに。
この敗北に絶望しない教育者とは、いかなる教育論についても語り合う意味をみとめない。
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人間にとって究極的に重要となる力は、不幸を受け止める力である。そしりや悪口、非難、嘲り、世に認められないこと、愛する人を失うこと、愛する人に捨てられること、貧しさ、病気、災難、老い…。
仏教は富や名声、健康や愛を求める気持ち自体を「煩悩」として斥けることで、それらを得られない苦しみ、失う苦しみから逃れようとした。けれど人間は自然な気持ちとして、周囲と仲良く折り合いたい、友だちがほしい、恋人がほしい、自分を認めてもらいたい、愛されたい、お金がほしい、無病息災でありたいと願うものである。そんなことを願ったらよけい苦しくなるからやめておけ、とは他人にも自分にも言えないであろう。異性を愛すると傷つくから2次元のアニメに逃げるという青年はいるが、そういうあり方を多くの人は健全だとは思わないだろう。傷つくことを覚悟で愛するからこそ、愛は感動を誘い、小説や映画のテーマになってきた。精魂を込めた仕事が評価されることを願うのは当然の気持ちだし、他人が全く評価もせずありがたがりもしない仕事に生きがいや喜びを感じることはできない。どのくらいお金が必要かは人によって違うだろうが、とりあえず食べていけるだけのお金がほしいと願わない人間は、今日にも自殺しようと思っている人間だけだろう。仏教をよく知らず偏見でものを言っているのかもしれないが、「煩悩」を否定することは、人間が人間であることを否定することのように思える。
堂々めぐりのようだが、人間が人間であるかぎり、幸福を追求することは不幸に脅かされることでもある。だからこそ人生は「賭け」であるという考え方が一般的になる。「賭け」に勝つために「神頼み」をし、よく当たる占い師のもとに殺到する。しかし「賭け」に勝とうと夢中になっている人間は、原理的に自己中心的になる。一人の人間が1億円の宝くじに当たるということは、ハズレくじを引いたあまたの人間がいるという事実なしにはありえないし、「自分の幸福」を考えることが「人間全体の幸福」を考えることとどんどん隔たっていってしまう。それ自体が不幸なことではないかとふと考えるところにこそ、人間存在の不可思議と深さがあるのではないだろうか。
シモーヌ・ヴェーユは「不幸」について突き詰めて考えた稀有な思想家である。『重力と恩寵』という著作の中で、彼女は「不幸な人間は不幸について考えない」という不思議なことを言っている。しかし経験的に事実である。飢えている人間は食べ物について考える。食べ物のことしか考えられなくなる。いじめられている中学生は、どうしたら友だちに受け入れられるかとそればかり考える。貧しい人はどうしたら金を手に入れられるかということで頭がいっぱいになる。不幸な人間は「自分ばかりがなぜ不幸な目に遭うのか」とうらむことはあっても、「人間にはなぜ不幸がふりかかるのか」とは考えないのだ。共産主義思想の最大の功績は、この問題に対して取り組み、「私の不幸」から「私を含む同胞の不幸」へと目を向けさせたことであろう。発想の転換をもたらしたことはまさに「革命的」であるが、いじめられている中学生や病気に見舞われた人の不幸まで視野に入れているわけではない。不幸の意味について突き詰めて考えたのは実はキリスト教である。長くなるので、今日はここまでにする。
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