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クリスマス

クリスマス、神が人となって生まれ給いました。
 
世人の中に住むべきために。
 
エデンの園で神となろうとして禁断の木の実を食べたアダムとエバをあがなうために。
 
人は神となろうとしたが
 
神は人となった、
 
救いは神秘としかいいようがない。
 
 
 
 

教育の敗北

教育の敗北だと思います。
 
たくさんの年号を覚えさせ、過去の出来事について学ばせながら、経験の意味を考えさせることができなかったのだから。
 
戦争経験者が世を去り、あるいは体力も気力も知力もなくなった今、
こんな法案が通るのは、
 
人間が直接体験からしか学べないということに等しい。
 
他者の経験から自分の直接体験を照射し、そこに普遍的な意味をみいだしていくことが
人間として生きるということであるのに。
 
過去の出来事に照らして現在の意味を考えることこそが
知性の意味であるのに。
 
この敗北に絶望しない教育者とは、いかなる教育論についても語り合う意味をみとめない。
 
 

ディベートと黙想

私は今流行りのディベートというものが嫌いだ。ディベートがこれほどまでにもてはやされているのはサタンの策略ではないかとすら思うことしばしばである。あるテーマに対して「賛成」と「反対」の立場に分かれて議論することで、問題を双方の立場から見ることができると謳われているが、リクツの上で納得しても心に落ちない。「即座に反論する」というのがそもそも嫌いなのである。そういう脊髄反射を鍛えることが「考える」ことだとはどうしても思えない。深く考えるということは、そんな理論武装を解いて、空を見上げるようなことだと思う。アタマを真っ白にして、ゆっくり動く雲を眺めるようなことだと思う。「深く考える」ことは祈りに似ている。「私」をからっぽにして足元のスミレに膝をかがめて見入るという点で。反論しようと身構えている人には見えないものがたくさんあると思う。空をゆっくり行き交う雲や雨の後の虹や足元のスミレなど。神様の造られた美しい世界が。だから祈りはディベートとは反対に、黙想しようとする。ディベートと黙想。Tさんを黙想会に誘ってみようかとふと考えた。黙想と労働。修道院がこの二つを日々の営みの柱としたことには深い真理があると思う。
イメージ 1
 

オタク2

「意味」が、他者とつながる回路である。
 
自分の遭遇した経験の意味をみいだすとき、
 
「異なる」経験をした他者とつながることがはじめて可能になる。
 
「意味」が、個から普遍への、孤立から共感への地平を拓く。
 
「情報」と「知性」の違いは、「情報」が意味を問わないのに対して、
 
「知性」はつねに情報の意味を考え、
 
そのことによって、情報相互の関係を見出し、体系を打ち立てることにある。
 
意味を問わないのならば、「量」だけが問題になる。
 
どれだけたくさんの単語を覚えたか、どれだけたくさんの年号を覚えたか、
 
どれだけたくさんのキャラクターを集めたか、
 
どれだけたくさんの人間が「友だち」に登録されているか。
 
一方、科学も学問も文学も、「個」から「普遍」に至る道をめざしてきた。
 
「りんごが木から落ちる」現象と「地球が太陽の周りを回る」現象は
 
一見全く異なる個別の現象であるようにみえるのに、
 
「重力」という同一の力によるものであることをみいだしたのが科学であった。
 
文学はフィクションを通して、作家の経験した出来事の意味を作家自身に再認識させる営みであった。
 
「人間とは」「人生とは」「世界とは」と問うのが科学や学問や文学である。
 
また他者と対話していてたのしいと感じるときは、
 
自分の経験と他者の経験が一見まったく異なっているのに、
 
共通する意味をみいだしたときである。
 
たのしい対話はたのしい読書と本質的に同じである。
 
他者の経験をとおして、自分の経験の意味を見出すとき、
 
人生の深さとゆたかさを教えられる。
 
オタクがどんなにたくさんのトリビアな情報を披歴しても、
 
どんなにたくさんのコレクションをも公開しても、
 
どんなにコンピュータ操作にすぐれても、
 
他者とつながることはできない。
 
キリスト教の神はわたしたちに、
 
「たくさんの」ものを与えてはくれない。
 
そうではなくて、わたしたちに、
 
人生と世界の意味を教えてくれる。
 
そのことによって、
 
他者とつながることを可能にしてくれる。
 
 
 
 
 

天の御国

民主主義は「弱く小さく貧しき者」の権利までをも保障しようとする
 
神さまは「弱く小さく貧しき者」にのみ関わってくださる
 
ひとりの人の中に「強く大きく富める部分」と「弱く小さく貧しい部分」があるのなら
 
後者にのみ神さまは関わられる
 
民主主義と神の御国は似ているようでいてまるでちがう
 
成り立ちがちがい、まなざしがちがう
 
そのことを身をもって知っているのは、
 
「弱く小さく貧しき者」だ
 
教会にNちゃんという姉妹がいる
 
先天性の病を持ち、教会でも長いことしゃべらなかったNちゃん
 
今では元気によくおしゃべりするNちゃん
 
教会でもはじめのころそうだったように
 
学校でもほとんどしゃべらず友だちもいなかったというNちゃん
 
良心的な教師が「Nちゃんも仲間に入れてあげてね」と言うのが
 
有難迷惑だったと語るNちゃん
 
この良心的な教師がNちゃんを救わなかったのはよくわかる気がする
 
イエスさまは「Nちゃんをさえ」仲間に入れてクラスづくりをされるのではない
 
Nちゃんの痛みを「隅の親石として」御国を作られるのだ
 
そこに民主主義と天の御国の
 
似ているようでいて
 
まるでちがう成り立ちがある
 
イエスさまだけが
 
わたしたちの涙をぬぐってくださり
 
わたしたちを慰めてくださる
 
 
 
 

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