無題

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

イメージ 1

教会のI姉は縁起恐怖症です

お葬式や死を連想させるものは一切受け付けません

霊柩車はもちろん、お葬式で出されそうなどら焼きやロールケーキ、

白いカーネーションもダメだし、

すでに亡くなった俳優が出演している古い映画も受け付けません

お葬式に参列した兄弟姉妹に触れることすら拒絶します

この病気の原因が何なのかは誰にもわかりません

けれどきっと愛の問題なのではないのかな、と漠然と感じるのです



「わすれられないおくりもの」

大好きな絵本です

年取ったあなぐまさんがある日死にます

みんな悲しみますが

そのうちモグラが、そしてカエルがアナグマに教えてもらった

忘れられない素敵なことを思い出します

キツネとウサギの奥さんも思い出します

さいごの雪がきえたころ、アナグマが残してくれたもののゆたかさで、

みんなの悲しみも、きえていました。

アナグマの話が出るたびに、だれかがいつも、

楽しい思い出を話すことができるように、なったのです。

あるあたたかい春の日に、

モグラは、いつかカエルと、かけっこをした丘に、登りました。

モグラは、アナグマが残してくれた、おくりもののおれいがいいたくなりました。

「ありがとう、アナグマさん。」

モグラは、なんだか、そばでアナグマが、聞いていてくれるような気がしました。

死が私たちを分かつのではない、と確信させるような愛、

愛された経験。

もし私たちがそんな愛をI姉に贈り物として贈ることができたならば、

I姉の縁起恐怖症は治るのかな、とふと思いました。

4年前のゴールデンウィークにブログを始めたのでした

3年前のゴールデンウィーク、家を出る準備をしていたのでした

4年前に書いた記事をあらためて読み直していました

記事の内容とその後の離婚という思いがけない出来事のつながりに

思いを馳せながら



この最初の記事は

ほんとうはクリスチャンの友人にメールで送ったものでした

私は返事を待ちわびていました

けれど友人はその内容に返事をくれず、ゴールデンウィークが終わる頃になって

私は心底がっかりしました

「ブログでも始めれば?」とだけ短い返信メールをくれました

つまり、「そんなものを読まされるのはゴメンだ、

誰かに発信したいんだったらブログをやればいいじゃないか」

と言いたかったのかもしれません

それで私はブログを始めたのです



そうやって始めたブログに

初めてまともな「レスポンス」を返してくれた人を

私は愛するようになりました

夫との関係は修復できないものになっていきました

3年前の今頃、はっきりした決心がつかないままに

単身者用のアパートに引っ越してきました

また夫のもとに戻るつもりで長いこと荷ほどきもせずに…

ブログを通して愛し合った人とは疎遠になっていきました

ブログ上の彼は虚像だったとは思わないけれど

実際に付き合った彼には、ブログでは窺い知ることのできない側面がありました

ブログ上の彼もまた一面ではありました

ブログで知ることのできるような人の内面に

私はもともと人一倍関心があり重要視していたので

ブログの交流はひと時、リアル世界での社交以上に重要なものでした

彼は最低限の社会的地位や金すら持たなかったけれど

文章を通して自分を表現することができ

自分の痛みとこの世の痛みを重ねて生きている人と映りました

それはたぶん本当でした

けれどそれ以外の真実もありました

「彼と結婚して一緒に暮らしたら、

私はいつか彼を憎むようになるだろう」

そんなふうにはっきりと感じた瞬間を覚えています



上野の国立美術館に絵を見に行ったとき、

上野公園内でホームレスの人々に説教をしている牧師をみかけました

「ホームレスの人たちの礼拝」とは到底よべない礼拝でした

その衝撃を記事にしてアップしたところ、

同じテーマで書かれた記事の紹介が画面上に現れました

クリックしたら、寿町の伝道について書かれた牧師のブログに飛びました

牧師らしい格好のいい言葉で語るより

ありのままの自分がありのままに感じていることを

なんとか言葉にしようとしているらしい書き手の姿勢に興味を抱きました

その記事の書き手が、今通っている教会の牧師です

小さな教会とその交わりの中におられる主に

私は離婚してから今までの月日を支えられてきました



4年前のGW、

ブログを始めた日

私の人生を変えた日でした
ツタヤのDVDレンタルが先週末限定で一枚100円だったので、

4枚借りて、今週は映画漬け。

その中の1作、ロシア映画で金獅子賞を受賞した『父帰る』。

映画評をネット検索したところ、「後味が悪い」「不完全燃焼」「結末がわからない」

そのとおりの映画。

珍しい映画を観た。

ひとことで言うと「映画にならない映画」「ストーリー不成立のストーリー」。

12年間不在だった父親が幼い兄弟の前にある日突然現れる。

兄弟を旅行に連れ出すが、道中愛情らしい愛情は微塵も見せない父。

無人島へのハードな旅行の目的も、掘り出した箱の中身も明かされないままに、

物語は息子を助けようとして父がはしごから転落し、死ぬことでエンディングを迎える。

「お前なんか大嫌いだ!」幼い息子が叫んで父を拒否したのち、

すべての謎が明かされぬままに物語は終わる。

ストーリー不成立のストーリー。

しかしこれが多くの人々にとっての人生なのかもしれないとも思った。

「お前なんか大嫌いだ!」…このひとことで、すべての謎解きは中止され、

人生の多くの出来事の意味は未解明に終わるのだ。

映画のストーリーが不成立に終わったことをくやしがる私たちは、

私たち自身の人生の意味が明かされぬままに終焉することは怖れないのだろうか、

そんなことを思った。

イメージ 1

エデンの園でイヴが蛇にそそのかされて食べ

アダムにも食べさせた禁断の木の実

「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け」と聖書には書いてあり、

おいしそうで目を引き付けるけれど食べると罪に陥るものは何だろう、

女(イヴ」が男(アダム)を誘惑したのだから、

きっとこの木の実は肉欲だろう

と通俗的には解釈されてきたふしがある

しかしそう解釈すると、

この木が「善悪の知識の木」とよばれている意味がわからなくなる

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。
蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、
死んではいけないから、と神さまはおっしゃいました。」
蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。
それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、
賢くなるように唆していた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、
二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
(創世記3:1−7)

私は長いこと、この箇所の意味がわからなかった

人間に「原罪」とよべるものがあることは何となく感じたけれど

それが「善悪の知識」と関係があるというのが納得いかなかった

罪とは悪いことをすることなのだから

「善悪の判断」をすることは大切なことじゃないか

人を殺すのは悪いことだし

盗みをするのも他人をだますのもいけないことだ

「原罪」というものがあるとしたら

そうした悪いことを悪いと知りつつ状況によっては犯さざるをえない人間の弱さを言うのであって

たとえば殺さなければ殺される戦場において人殺しをすることとか

一文無しで腹がへってパンを盗んだとか

そんなことを指すのかと思っていた

さらに実際に人を殺すことはもちろん

「殺したい」「あんな人いなければいいのに」

と心の中で思ったことまで「罪」に含めるのなら、

たしかに全ての人には罪があるのだろう、

たとえ心に思うことさえしなくても

人間は豚や鶏や魚など他のいのちを食べなくては生きていけないのだから

仏教的観点からも、たしかに罪があるのだろう

そう考えて「原罪」を納得していた

しかし「原罪」は納得しても、善悪の知識と罪の関係は納得できないのだ



けれど今までの自分の「痛み」の経験を振り返ってみると

聖書に書かれている言葉の意味が不思議と納得されてくる

自分が今まで痛みを与えられた出来事をひとつひとつ挙げてみると

それは例外なく自分が「善悪」のまな板の上で切り刻まれた経験だ

たとえばこんなことがあった

70歳を越えて強迫神経症がひどくなった姑を私たち夫婦は引き取った

夫の兄は「お母さんは一人で暮らすのがいいんだ」と主張して

最後まで「俺の反対にもかかわらずお前たちが勝手に引き取ったんだ」と言い続けた

姑の強迫神経症はひどくて、とても一人にはしておけなかった

近所の人はみんな自分を監視していて、警察も自分をマークしている、

ゴミ収集の日に出したゴミ袋を警察が持っていく、

水道工事の時に盗聴器を設置された、等々…

そして南向きの明るいリビングなのに一日中カーテンを閉め切って

眉根を寄せた暗い顔をしてただ座っている彼女を

どうして一人にしておけただろう

また一方そんな彼女と一緒に暮らすことに、どうしてストレスを感じないでいられただろう

義兄はたまに電話をかけてくるたび、ただ「母はいますか」とだけ私に言い、

ねぎらいやお礼の言葉を述べたことは一度もなかった

「母がいつもお世話になっています」「大変でしょう」とは一言も言わなかった

「俺の反対にもかかわらずお前たちが勝手に引き取ったんだ」から。

姑との同居のストレスも大きかったが、その義兄の態度も澱のように心にしこった

「母は一人で暮らすのがいい(善)んだ」

なぜ義兄はその意見に固執したのだろう

義兄は私に一度も心を開いてくれなかった

「俺はあんなおふくろとは一緒に暮らしたくないんだよ」

「お前たちがおふくろを引き取ってくれることはありがたいけど、なんだかやましい、
だからできたらやめてほしいな」

「お互いに知らんぷりしようよ、同居はストレス溜まるからさ」

そんなふうに率直に言ってくれたら、私の心もどんなに軽くなったことだろう

「でもさ、ほっとくわけにもいかないしさ」「お義兄さんは負い目を感じることないよ、
余力のあるほうがやるからさ」「どうにも行き詰ったらそのとき考えよう、私たちも無理しないからさ」

そんなふうに答えて、義兄もたまに遊びに来て、私のグチを聞いてもらえたら

どんなに慰められたことだろう

「あなたが引き取らないから私たちが引き取るハメになったんだ!」

そう責められることを義兄はおそれていたのだろう

「精神を病んだ母親を一人にさせておくなんて、ひどい息子ね」

そう見られることを義兄はおそれていたのだろう

だから

「母は一人で暮らすのがいい(善)んだ」

と義兄は主張し、さいごまで主張しつづけた

私の心に重く澱のようにしこったものはなんだったのだろう

なぜ私はあんなにもつらかったのだろう

義兄が母親を顧みるあたたかい心を持たなかったからだろうか

そうではなかった、と今思う

そんなあたたかい心など、私も持ち合わせてはいなかった

シーツを何日も換えてあげなかった

お風呂に入ることもいやがり清潔に無頓着な姑を

それでもやさしく「お風呂に入ろうね」と諭してきれいにしてあげる根気を

私は持たなかった

部屋とテレビをあてがい、ご飯を用意して、あとはほっておく冷たい嫁だった

愛の少ない私にできる、それが精一杯だったのだ

だから義兄の冷たさをなじる権利など私にはなかった

私がつらかったのはただひとつ

「母は一人で暮らすのがいい(善)んだ」

その善悪の土俵から義兄が一歩も降りてきてくれなかったことだった

幸いだったことは

「あなたが長男なんだから、お義母さんの面倒をみるべきでしょう?!」

「お義母さんは息子と暮らすのがいい(善)に決まってるわ!」と反撃して、

言い争うことをしないうちに姑を看取れたことだ

そういう言い争いは、国と国の戦争と同じ構図を宿している

私は一度耐えかねて、姑と夫を置いて家を出た

何年か後、また関係を戻して姑を再度引き取った

そのことで姑を傷つけたのか、

同居したことがよかったのかどうか

わからない

わからないでいいんだと今は思う

何がよくて何が悪いのか

そんなことは人間は知らなくていいのだ

人が傷つくのは多くの場合、

「あなたが悪い」と他人に言われた時だ

そう言われて割り切れない感情がある時、つらい時、

人はそのつらさを「相手が悪いんだ」と考えることで軽減しようとする

そんなことはしなくていい

私が悪いのか相手が悪いのか

そんなことは考えなくていい

ただ自分のつらさと痛みをキリストに差し出そう

十字架のイエスさまに差し出そう

十字架こそが

エデンの園の「いのちの木」だから

あなたが…

イメージ 1

あなたが大切だ

僕がそばにいるよ

今泣いているあなたが再び笑顔になるのをみたいから










神より

.
koroba
koroba
女性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事