|
あなたの血液型がA型であるとかB型であるとか カッとしやすいか温厚かとか 外向的か内向的かとか 社交的か引きこもりかとか やさしい性格かキツイ性格かとか 上品か下品かとか 頭がいいか悪いかとか スポーツ万能か身体障害者かとか サヨクかウヨクかとか そんなことは一切、人生の本質とは関係がない 重要なのはただひとつ 御霊によって私たちがキリストの人格に変えられていくということだ そしてキリストの人格に変えられていったとき すべては相対的な事柄であったと 気づくのではないだろうか あなたのなかで最もたいせつにしなければならないものは 思想でもなく知性でもなくやさしさや気遣いでもなく あなたの内なる渇きです そこはキリストが入る扉だから いのちの水がわき出る井戸だから |
子ろばの詩
[ リスト | 詳細 ]
|
私はどのみちたいした人間になんかなれない 私の欠点もなくならない 開き直るわけじゃないけど かなしいけれどそうだ そうしたらその悲しさに立とう 自分の望む者になれず このような私であり続ける他はない その痛みに立とう それしかできないからそうしようと思ったら そのようなあなたであり続ける他なかった あなたの痛みもみえてきた そうだ 私は負債を返せそうもないから 他人の負債をゆるすことで ゆるされるズルをしよう そうだ ズルをしよう 不正な管理人のたとえ(ルカによる福音書16章) 1 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。 2 主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』 3 管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。 4 ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』 5 そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、 6 その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。 7 それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。 8 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。 9 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。 10 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。 11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。 12 また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。 13 しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」 |
|
わたしたちの悲しみと苦しみは キリストの十字架の一部だ わたしたちは故なき悲しみと苦しみを背負わせられる たとえば「いじめ」の本質は不条理だ いじめられっ子にはいじめられる正当な理由があるんだなんて屁理屈だ 「主よ、なぜなのですか」 悲しみと苦しみの中にあるとき 私たちは十字架上のキリストに自分を重ねる けれど同時にまた 自分もまたキリストを十字架につけた側なのだということを 忘れていた そのことに気づかなかった 私の負った悲しみと苦しみは私の罪のゆえではなかったとしても 私にも罪はあった 私たちはキリストであると同時に キリストを殺した者でもある 私の中に両方がいる
|
|
羊は近眼です だから近くのものしかみえないんです よき羊飼いよ 遠いまなざしをもって羊を守る主よ あなたの眼には何が映っているのでしょう 羊は近眼です 羊がほかの羊を愛するとき 羊はやっぱり近眼です 羊のなかに住まわれる主よ どうか祈りをもって羊を助けてください 愛することがいけないことだとは思わない 愛してはいけないひと(羊)がいるとも思わない けれど羊はやっぱり近眼です 羊のなかに住まわれる主よ どうか羊の「愛」が欲望や執着や同情や依存ではなくて 祈りになるように 羊を助けてください はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 (マルコによる福音書10:29−30) 「汝の隣人を愛せよ」という言葉と矛盾するかのようにみえるこのみ言葉 神さまの遠いまなざしで深く深く愛したときに 目の前の生身の人間(羊)から一旦離れるのかもしれません 愛したことが罪だったとは思いません 今も愛していることがいけないことだとも思いません ただその「愛」が祈りに変わるように どうか祈ってください 「愛さないように」ではなく 愛がもっと深いものになるように もっと遠いまなざしをもって愛することができるように あなたの祈りをもって弱い羊を助けてください |
|
神さまみずからが姿をあらわしたら早いやん。。。 輝く白い衣を着てさ、七色の虹に乗って 「我、主なり!」ってあらわれたらさ、 「ハハーーーーっ」って皆ひれ伏すよ 印籠を掲げる水戸黄門にひれ伏すようにね 神さまが姿をあらわしたらさ 世の中もよくなって平和になるよ 人間を地獄へ落とす力を持った神さまの前で悪いことなんて誰もしないと思うよ そういう「秩序」のある「正しい」「平和」な社会に私は生きたいだろうかと自問してみる 怖い先生の前でシーンとしている中学生のように 神さまはそういう社会を作りたいだろうかと考えてみる やりたい放題をやってるゴロツキどもが自分の力の前にひれ伏すのを見て 気分がいいだろうか 騒ぎまくっている中学生が 自分が教室に入った途端にシーンとなって「いい子」になるのを見た教師のように 神さまは「私を愛せよ」とおっしゃる 姿を見せない神さまをどうやって愛せるのかと人は思う けれど姿を見せたら私たちは神さまを愛せるのだろうか 姿を見せたら私たちは神さまを怖れ、「いい子」になることができる 神さまのご機嫌を取ることができる でも「愛する」ことはできるんだろうか 主の「みこころ」 「こころ」ってなんだろう 神さまはいつも悲しんでおられる 私はどんなとき悲しいだろう 私が他人を愛していてその人のために心を砕いているのに 彼/彼女が自分のしてほしいことを私がしたり 言ってほしいことを私が言ったときだけ喜んで そうでないとソッポを向いてしまうとき 私は悲しいじゃないか 私を利用するだけ利用して 私という人間にちっとも関心を持ってくれないとき 私は悲しいじゃないか 「こころ」を持った存在は皆そうだ 「みこころ」を持たれた主も同じだと思う 神さまは隠れておられるけれど 私たちはお互いの「こころ」を深くみつめることで 神さまがどんな存在かを知ることができるように造られているのだと思う
|




