「才能」の英語はtalent、聖書の「タラント」である。
私には他人よりできることもあるけれど
決定的に苦手なこともある。
車の運転や方向感覚くらいだったら笑い話にまじえて「ニガテなの」と告白することもできるけど
自分が本当に恥じている「弱み」については
できるならば語りたくない。
触れられたくもない。
ブログにも書きたくない(笑)。
「努力すればがんばればできるようになる」なんてウソである。
私は40年以上気を取り直してはがんばってきたけど、できるようにならなかった。
肝心なことを努力していないのかもしれない。
しかし「努力の勘所」がわかるのも「才能」のうちなのである。
私はどうにもニガテな理科を除いて、勉強はわりと得意だった。
生徒を見ていると「なぜこの努力をしないのだろう」と常々思う。
どうして授業の前に単語調べをしないのか、どうして英文の構造を読み解こうとしないのか、
どうして何度も音読をして定着させようとしないのか、
大金を留学につぎ込まなくたって市販のCDを繰り返し聞いていれば
リスニングだってスピーキングだってそこそこできるようになる。
大学入試問題を読み解く英文解釈の授業のあと、
まじめに聞いていた一人の男子生徒がやってきて
「どこがわからないのかもわからないくらいわからないんです」と訴えた。
たぶんthatやtoに注意を払うこともなく今までうかうかと英文を読んできたのだろう。
私もきっと「勘所」をうかうかと見過ごしてレッスンをぼんやり過ごしてきたのだ。
「勘所」がキャッチできるのも才能のうちなのである。
そして「できない」ことについては語りたくない。
「どこがわからないのかもわからないくらいわからないんです」
私が得意なこと、「できること」は私に世間の(そこそこの)評価と地位と金をもたらす。
そしてその所有はいつか私が年を取り、身体も頭も鈍ってきたとき、奪われる。
英単語どころか自分の家の住所すら忘れてしまうかもしれない。
私がニガテなこと、「できないこと」は私に人間存在の意味を考えさせる。
「なぜ私はできないのだろう」
「私がこのことをどうしてもできないのは私の罪なのだろうか」
「こんなこともできない私に存在意義はあるのだろうか」
私は「できること」をいくつも数え上げ、「できないこと」を相殺して
自分の存在意義を留保しようとあがく。
「いいとこ探し」。
ホンキでやってみたら、アホらしくなった。
むなしくなった。
聖書が説いていることは、
才能(タラント)の大小が問題なのではなく、
そのタラントを何のために用いるかが問題なのだ、ということだ。
私が得意なこと、「できること」は私に世間の(そこそこの)評価と地位と金をもたらす以上に
何かの役に立っているだろうか。
私は「できない」自分のみじめさに押しひしがれ、
「できる」他人をうらやみながら思った。
「けれどあなたがどんなに豊かなタラントを持っていても、それは貧しい私に還元されない」
「あなたのタラントはあなたの所有にすぎない」
タラント(才能)自体はきっとよいものでも悪いものでもないのだ。
科学技術自体がよいものでも悪いものでもなく、
用い方によっては神の役にも悪魔の役にも立てるように。
だから私は私のタラントを「よいとこ探し」の「よいとこ」に数え入れる必要はないのだ。
「自尊感情」が「よいとこ探し」で数え上げられた「よいとこ」に依存しているのだとしたら、
人間の尊厳にも大小があることになってしまう。
与えられたタラントに多寡があるように。
こんなことを考えるようになったのも
私に願っても願っても「できないこと」があるからだ。
あなたは尊いのです。
なぜなら神さまがみずからの姿に似せてあなたを作られたからです。
そして私たちすべてに平等に与えられているタラントとは、
神のみこころを知る能力かもしれない。
神の呼びかけに応える能力(responsibility)。
そのことを信じます。
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