子ろばの詩

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なんとなく

神さま、

あなたのなさろうとすることが最善であると信じることがあなたを信じるということなのかもね

どうしてそれを信じられる気がするようになったのかしら

それは「不幸」というものが最悪ではなかったと経験したからかもしれない

「幸せ」というものが最善ではなかったと経験したからかもしれない

なんとなく

「私の触れるものがすべて金になりますように」と願って

最愛の娘が物言わぬ金の像に変えられてしまったミダス王のように

私たちの想像力はたかが知れているから

「しあわせ」や「不幸」についての想像力もたかが知れているから

「死」も私たちが恐れるほど

最悪なものではないのかもしれない

なんとなく

なんとなくそんな気がするのです

だからなんとなく私は信じられるような気がします

あなたの道をたどれば「不幸」や「苦しみ」に出会わないことをではなく

あなたの道をたどれば「不幸」や「苦しみ」を通して予期せぬ出会いがあるだろうということを

そして出会いは私を私という小さな檻から解き放ち

大空のような広い世界に連れ出してくれるだろうということを

振り返ればこれまでもそうだったから

少しづつ

そうであったから

「幸せ」が私という小さな檻を壊さないならば

「幸せ」は私の息を殺してしまうでしょう

一粒の麦。

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人生の味

人生の達人は、人生の味を味わう術を知っているらしい

酸っぱい味

苦い味

「くさや」のように臭い旨み

噛みしめれば噛みしめるほど沁みてくる味



ふきのとうが美味しいと気づいたのは

いつの頃だったろう

春まだ浅き雪国で

ふきのとうのほろ苦さは恵みのごちそう



今の子供たちも大人になったら

ふきのとうが美味しいと言うようになるのかしら

マクドナルドは子供の舌にハンバーガーの味を覚えこませ

一生ハンバーガーを食べ続けるように戦略を練っているらしいけれど

なんだかヘンゼルとグレーテルをお菓子の家に閉じ込めた

魔女を思い出す

甘いお菓子やハンバーガーばかりを食べていたら病気になるのに

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ハンバーグやミートソースが好きだった私も

いつか納豆や「くさや」やふきのとうや玄米やライ麦パンが好きになった

同じように苦い出来事やなかなか噛み砕けない思いも

かみ締めて

味わうことができるようになった

(ちょっとだけ)

それでも人生の達人には程遠い



神さま

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わたしのお皿から

にんじんを取り除くのでなく

にんじんの美味しさを味わえる舌を与えて下さい

苦さも酸っぱさも堅さも

あなたが用意して供してくださったお料理ですから

噛みしめてじわっと広がる旨みと滋養をいただけますように

成熟した舌をお与え下さい

才能

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「才能」の英語はtalent、聖書の「タラント」である。

私には他人よりできることもあるけれど

決定的に苦手なこともある。

車の運転や方向感覚くらいだったら笑い話にまじえて「ニガテなの」と告白することもできるけど

自分が本当に恥じている「弱み」については

できるならば語りたくない。

触れられたくもない。

ブログにも書きたくない(笑)。

「努力すればがんばればできるようになる」なんてウソである。

私は40年以上気を取り直してはがんばってきたけど、できるようにならなかった。

肝心なことを努力していないのかもしれない。

しかし「努力の勘所」がわかるのも「才能」のうちなのである。

私はどうにもニガテな理科を除いて、勉強はわりと得意だった。

生徒を見ていると「なぜこの努力をしないのだろう」と常々思う。

どうして授業の前に単語調べをしないのか、どうして英文の構造を読み解こうとしないのか、

どうして何度も音読をして定着させようとしないのか、

大金を留学につぎ込まなくたって市販のCDを繰り返し聞いていれば

リスニングだってスピーキングだってそこそこできるようになる。


大学入試問題を読み解く英文解釈の授業のあと、

まじめに聞いていた一人の男子生徒がやってきて

「どこがわからないのかもわからないくらいわからないんです」と訴えた。

たぶんthatやtoに注意を払うこともなく今までうかうかと英文を読んできたのだろう。

私もきっと「勘所」をうかうかと見過ごしてレッスンをぼんやり過ごしてきたのだ。

「勘所」がキャッチできるのも才能のうちなのである。

そして「できない」ことについては語りたくない。

「どこがわからないのかもわからないくらいわからないんです」


私が得意なこと、「できること」は私に世間の(そこそこの)評価と地位と金をもたらす。

そしてその所有はいつか私が年を取り、身体も頭も鈍ってきたとき、奪われる。

英単語どころか自分の家の住所すら忘れてしまうかもしれない。

私がニガテなこと、「できないこと」は私に人間存在の意味を考えさせる。

「なぜ私はできないのだろう」

「私がこのことをどうしてもできないのは私の罪なのだろうか」

「こんなこともできない私に存在意義はあるのだろうか」


私は「できること」をいくつも数え上げ、「できないこと」を相殺して

自分の存在意義を留保しようとあがく。

「いいとこ探し」。

ホンキでやってみたら、アホらしくなった。

むなしくなった。



聖書が説いていることは、

才能(タラント)の大小が問題なのではなく、

そのタラントを何のために用いるかが問題なのだ、ということだ。

私が得意なこと、「できること」は私に世間の(そこそこの)評価と地位と金をもたらす以上に

何かの役に立っているだろうか。

私は「できない」自分のみじめさに押しひしがれ、

「できる」他人をうらやみながら思った。

「けれどあなたがどんなに豊かなタラントを持っていても、それは貧しい私に還元されない」

「あなたのタラントはあなたの所有にすぎない」



タラント(才能)自体はきっとよいものでも悪いものでもないのだ。

科学技術自体がよいものでも悪いものでもなく、

用い方によっては神の役にも悪魔の役にも立てるように。

だから私は私のタラントを「よいとこ探し」の「よいとこ」に数え入れる必要はないのだ。

「自尊感情」が「よいとこ探し」で数え上げられた「よいとこ」に依存しているのだとしたら、

人間の尊厳にも大小があることになってしまう。

与えられたタラントに多寡があるように。


こんなことを考えるようになったのも

私に願っても願っても「できないこと」があるからだ。

あなたは尊いのです。

なぜなら神さまがみずからの姿に似せてあなたを作られたからです。

そして私たちすべてに平等に与えられているタラントとは、

神のみこころを知る能力かもしれない。

神の呼びかけに応える能力(responsibility)。

そのことを信じます。

高慢

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「おばあちゃんの家」という韓国映画がある。

私は教師なんてやってるけど、この映画に出てくるこういう「クソガキ」が大嫌いだ。

子供は好きなのかもしれないけど、こういうクソガキが近頃多すぎて

それも私が子供をつくることに消極的だった理由の一つかもしれない。

世の中のことなんて何も知らず

生きることの悲しみや痛み

人間の本当の尊さについても

まだろくに知らないのに

おばあちゃんをナメて高ぶってるクソガキ。




クソガキが

高ぶりを修正されたのは

ひもじい思い、怖い思いをしてからだ。

ケンタッキーフライドチキン以外食べないつもりが

お腹が空いて。

獰猛な牛に追いかけられて。

そして高ぶりを修正されたクソガキは

それまでバカにしていたおばあちゃんの尊さに気づいていく。



「最近のクソガキは」「最近の若者は」と思っていたら、

紀元前からそうだったんだよ、という記述を発見した。

民はおのおの、仲間同士で相しいたげ、

若い者は年寄りに向かって高ぶり、

身分の低い者は高貴な者に向かって高ぶる。     (イザヤ書3:5)



主は仰せられた。

「シオンの娘たちは高ぶり、

首を伸ばし、色目を使って歩き、

足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。」(イザヤ書3:16)


高ぶる気持ちは

おばあちゃんの真心をみえなくさせ

主のみこころもみえなくさせる



高ぶるクソガキにどう対したらいいのだろう

中学校では教師は怒鳴った。

「ナメるな!」

いまだにこのセリフが忘れられない。

そして何度も何度も考える。

神も同じように人間に怒鳴るんだろうか。

「ナメるな!」

イエスは十字架にかかるとき

めちゃめちゃナメられた

侮られ、ツバを吐きかけられ、滑稽な着物を着せられて嘲笑された。

イエスは叫ばなかった

「ナメるな!」って。

そして十字架にかかった。



主のみこころを知れ!

そのために神は私たちを試練に逢わせる。

「おばあちゃんの家」のクソガキが体験したように

ひもじい思いをさせたり

怖い思いをさせたり。

けれど「ナメるな!」と叫び威圧することでは

「こころ」を教えることはできないのだ。

中学校で感じたこと。

十字架上のイエスに感じること。

待ち望むということ

神さま

私は待ち望みます

あなたが来られるのを



私が裏切ったあなた

私は待ちます

あなたがゆるしてくれる時を



私は待ちます

バスをいらいらしながら待つようにではなく

蒔いた種が芽生え

花が咲くのを待つ人のように

その日、その時は、だれも知らない。

…だから、目を覚ましていなさい。      (マタイ24:36-44)



「いついつまで待ってやる」

「わたし、もうこれ以上待てない!」

「私、待つわ、いつまでも待つわ、
 いつかあなたが誰かにふられる日まで」(古い。。。この歌ご存知?)



待つことがつらく

待つ時間が長すぎて

待たせる相手にうらみが募るのは

私が私の時刻表と予定表を基準に考えているからだ

予定どおりにいかなければイライラする



でも待つということはそもそも

自分の予定と計画を手放すことなのかもしれない

植物が育つ音を聴くこと

相手の鼓動を感じること

相手の「時」をかんじること

そして相手の「時」に身をゆだねること

それが「待つ」ということなのかもしれません

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(上の写真はいちじく。
「いちじくの木から教えを学びなさい。
枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。」(マタイ24−32)

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