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子供のときはともかく
高校に入ってからは私は勉強が好きだった
勉強すればしただけ確実に報われた
自然とやる気になったし、楽しかった
だから「勉強が嫌いだ」「勉強が苦手だ」という子の気持ちが
本当にはわからない
高校時代の私にとって、
先生の教え方なんてあんまり問題じゃなかった
学校や予備校や塾で教わらなくても
千円程度お金を出せば
数学の原理や英語の文法をわかりやすく説明した参考書が手に入る
独学で十分だけど、「高校には通うものだ」という世間常識から、
独学より能率の悪い集団授業をする高校に通っていただけだ
だから今、教師になって、
「おまえの教え方が悪いから生徒が勉強ができるようにならないのだ」
といわれても(さすがにそう露骨に言われたことはないけど)
ピンと来ないのだ
「生徒のやる気を引き出す授業術」というのもピンと来ない
教師にやる気があろうとなかろうと
生徒の私には、いつもやる気があったし
教え方がめちゃくちゃ下手な教師の授業であればあるほど
理解の穴を埋めるために疑問点を明らかにし、参考書で調べ直す必要に迫られ、
つまりは思考力を鍛えられた
大学に行ってからも同じことで、
「キリスト教概論」の授業はめちゃくちゃ退屈だったが、
講義の要点をノートに取りながら、疑問点と反論もノートに書いていったので
その場で自分が考えたことは、いまだに覚えている
そういうわけで「教え方の上手い面白い授業」より
「教え方の下手な退屈な授業」のほうが好きでさえあった
「教え方の上手い面白い授業」をする教師は、自分のペースに生徒を引っ張りこもうとするので、
小学校で「前へナラエ!」をされている子供になったみたいな閉塞感を味わわされたが
「教え方の下手な退屈な授業」は突っ込みどころ満載で、
「突っ込み」を頭の中でまとめるのは、アクティヴでスリリングな作業だった
突っ込みといっても「先生のこと、キライです」なんていう突っ込み(?)はしたことがない
勉強とはそもそも個人的な好き嫌いは超越して(あるいは脇へ措いて)
学問の土俵で、そのルールで渡り合うものだ
先生もそこらへんはわかっていたのか
私がどんなにぶっきらぼうに無愛想に質問しても
質問の内容がよければ敬意を表してくれた
「教え方が上手な面白い授業」ってどういう授業なんだろう
それは果たして理想の授業なんだろうか
今、教壇に立つ私は、
勉強があまり好きでも得意でもなく
そこそこ真面目だけど自信のない生徒たちを相手に
わからないことを責めて苦痛を味わわせないよう
小さな達成感と成功体験を積み重ねてやる気を出させるよう
あれこれ工夫をしている
工夫の甲斐あって
「わかりやすい」と言ってくれる生徒もいる
だけどホントにわかったんだろうか
わかったような気がするだけなんじゃないかなと内心思う
私は中学二年まで、be動詞が動詞だということがわからなかった
He is play baseball.なんていう英文を平気で作っていた
be動詞という言葉は頭の上をかすめて通り過ぎていっても
そのことと上の英文のまちがいが結びつかなかったのだ
be動詞が動詞だということが「わかった」ときは、
ヘレン=ケラーがコップの水と井戸のポンプから出る水と、サリバン先生の指文字が
同じものを指し示しているのだということが「わかった」ときのような
「地平が拓けた」驚きとよろこびがあった
勉強ができるできないは頭の良し悪しではないのではないかと思っている
生徒たちは不定詞のtoの後は原形動詞が来ると「知って」いるのに、
どうして平気で
They found it to possible contribute to their society.なんて英文を作るんだろう
そしてどうして間違ったとわかったときに
あっと驚いたり悔しがったりしないで
無表情に「まじめ」に赤ペンで修正するんだろう
どうして勉強ができるようにならないのか
それは間違いを指摘されたときにハッとしたり驚いたりしないということに
関係があるような気がする
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