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新年度の一年生の担任で目が回るほど忙しく ほとんどブログを放棄したような状態になっていました はじめてのホームルームで生徒たちに言った心からの願いの言葉 「けんちん汁のようなクラスになってほしいな」 にんじんもさといもも大根もゴボウもネギもグツグツ煮えてやわらかくなり それぞれのうまみが引き出されて おいしい一品になってほしい ポイントはただグツグツ煮ること 熱を加えると野菜はやわらかくなる 固いと大根もにんじんも「個」だけれど あたたかくなってやわらかくなると お互いのうまみが引き出される そして混ぜ合わさって 全体は「個」では出せない絶妙な味になる 神さま あなたの熱であたためてください みんながやわらかくなりますように 私も生徒もあなたの熱で やわらかくなりますように そうしておいしいお料理になりますように
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学校
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「コミュニケーション力」はいまどきたいていのギョーカイで重要な仕事力とされている また子供たちが学校生活や社会生活を乗り切るために必要な力、 結婚するために、とりわけ男性が女性の心をゲットして結婚するために必要な力だといわれている コミュニケーション力のある人間は出世する 人気者になれる オンナにモテる コミュニケーション力が一番あるのはお笑い芸人だ 昔、お笑い番組のなかで明石家さんまが教師役を演じていたが さんまは実際教壇に立っても生徒の心をつかむ教師になれるんじゃないかと思った 人をリラックスさせる 相手の気乗りのしない反応も責めずに笑いに包むか自分を揶揄することで 敵対関係にならずに自分のペースに持ち込む とっても鈍いんだけど いまさらやっと これが現代の教師に求められているスキルなんだと気がついた 「指導力不足教員」には若い教師ではなく、40代50代のベテランが多いと聞く 先日の初任者研修の際、教育委員会の指導主事が言っていた 「コミュニケーションがとれない、生徒が何を求めているのかを察知できない、これが 『指導力不足教員』の典型です」 今思うと、わたしはずっとこの「コミュニケーションがとれない」という言葉につまずいてきた 「コミュニケーションがとれない」という言葉の意味するものはわたしにとって 「あいさつができないこと」「相手の気持ちに立てないこと」「場をわきまえられないこと」 「その場の雰囲気をよくするための自分の責任を果たそうとしないこと」だった 臨時任用として勤めた中学校では、「おはようございます」とあいさつしても あいさつを返してくれない教員がいることにおどろいた 中学生のほとんどが「おはよう」と言ってもウンともスンとも言わないことにびっくりした 電車のなかで化粧をする女性が理解できなかった 若者が仲間内ではコミュニケーションがとれても目上の人や立場のちがう人と話ができないのは コミュニケーション力が不足しているせいだと思っていた わたしは目上の人とも立場のちがう人とも礼儀をわきまえて会話をはずませることができるし その場の雰囲気を生産的なものにするために努力を払うし あいさつもできるから コミュニケーション力に問題はないと思っていた しかし対生徒ではこれが通用しないのだ 今やっとわかった気がする 現代の教師に求められている「コミュニケーション力」とは そういったものとは全くちがうものなのだ いまどきの教師に必要とされているのは 生徒の気分の方に降りていくことなのだ もちろんこれから授業や「教育活動」を始めようとするわけだから 終始生徒の気分に引きずられるわけにはいかない しかし導入としてまず生徒の気分にまで降りていって そこでこの「空気」に自分を合わせないことには すべてが空回りに終わってしまうのだ 「起立・礼」をさせようが「姿勢を正せ」といおうが そこから始まるわけではない まず生徒の気分と空気に自分を合わせなければ、まったく形式的な「押し付け」になってしまい 「苦痛な授業」になってしまうのだ 「信頼関係」とは、「この教師が自分たちの気分にまで降りてきてくれる」という確信である なぜ電車の中で化粧をするのか 自分の気分と態度を「場」によって変えなくてはならないと思わないからだ この行動にめくじら立てる者は自分の世界の外の人たちで「カンケイない人たち」である いまどきの子供たち、若者たちは 「自分の気分」を「場」に合わせるよう強制されたことはほとんどないのだろう 「食事のときは肘をつくな」とか「親にむかってその口の利きかたは何だ?!」とか 私の子供時代にはまだかろうじて残っていたそうした強制(矯正)はほとんど経験せずに来たのだろう 「他人と関係を持つためには、ある意味で自分を矯正しなければならない」という暗黙の前提を いまの若者は共有していないのだ だからいまどきの若者とカンケイを持とうとするならば わたしたちのほうで彼らの気分にまで降りていかなければならないのだ これが現代の「教師力」の必須条件である わたしはかつての卒業式で歌われてきた『仰げば尊し』が好きだった 今のほとんどの学校からは撤去された教壇というものも実は好きだった この歌や教壇を「封建的」だと批判して取り払った全共闘は どこか根本的なところで勘違いをしているのではないかと思ってきた かつて勤めた無教会の学校には「神を畏るるは学問の始め」という言葉が校舎に刻まれていた 教師がどんな人間であれ、教師をまず初めに尊敬しないことには教育活動は成り立たないだろう それが教育の約束事だと思ってきた その考えが間違っていたとは今でも思わない けれどそういう考えでは今の学校で教師としてやっていけないだろうということもわかった 『指導力不足教員』に「コミュニケーション力」が欠けているとは思わない ただ「コミュニケーション力」という言葉の定義が 時代とともに180度変ってしまったのだ どっちの定義が正しいのかはわからない けれど人間観察のために しばらくはこの言葉の新しい定義に従って「コミュニケート」してみようと思っている
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3連休初日ではあるが、仕事がたまっていたので休日出勤した 閑散とした職員室に入ると、片隅で女生徒がうずくまって泣いている 一人の男性教師がなだめている 「ごめんなさいって謝る以上のことはできないだろう?!で、謝ったからってゆるしてもらえるとはかぎらないさ。人によるからな。でもこっちとしては謝る以上のことはできないさ。謝ったのか、だったらそれでいいさ。」 女生徒はまだ泣いている 推薦の面接試験の練習をわざわざ休日にしてくれようとした担任との約束の時間に30分遅れて、 怒った担任は「面接の練習をしてやらない」と言って、部活の練習に行ってしまったそうだ 生徒はずっと泣いている 「仕方がないな。じゃあ代わりにオレが面接の練習をしてやる。」 ややしばらく経って、代わりに面接練習をしてくれた教師に「ありがとうございました!」 と女生徒の声が聞こえる そして数分後、彼女を怒って出て行った担任教師が職員室へ帰ってきた 「ああ、あいつ、ずっと泣き崩れてたから、オレが代わりに面接練習してやったよ」 「そうですか、あいつ、30分も遅れてきて『ごめんなさい』って言いながらもヘラヘラ笑ってるから怒ったんだ」 3者のやりとりを私はフクザツな思いで聞いていた 女生徒はなぜ泣いていたのかな 代わりに面接練習をしてあげたことはいいことだったのかな 女生徒は、代わりに面接練習をしてくれた教師と担任教師にそれぞれどういう思いを抱いたのかな 学校ではそれぞれの教師がそれぞれの仕方で生徒を愛しているように思える だけどしばしば「愛」は一つにならない 互いを助け合わない そして生徒は「○○センセイは好きだけど、△△センセイはキライ」なんて言ったりする 「好き」があって「キライ」がある 「キライ」があって「好き」がある だけど「好き」と「愛」はきっとちがうものなんだ 誰かを愛することは他の人を排除することじゃないはずなんだ 誰かを愛することはその人を深め、他の人をも愛することを可能にするもののはずなんだ だけどこの世では、なかなかそうはいかない。。。
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私はポケットの中でロザリオを握りしめていた マミはメチャメチャ反抗的な生徒で 授業のやり方に文句をつけるくせに なんにも予習してこないし授業中もケータイをいじったり楽譜や雑誌を机の上に広げている 当てると「知らない!」と言う 今日は机につっぷして寝ていたので肩を叩いて起こそうとした そうしたら「さわらないでよ!」と叫び、肩から埃を払いのけるような仕草をして 立って教室を出て行ってしまった 私はポケットの中でロザリオを握りしめていた 担任に頼んで放課後彼女を連れてきてもらって空き教室で一対一で話したとき 何が気に入らないのかと訊くと 授業のやり方についてあれこれ不満を述べ立てる その批判を私が受け止めて反省していないからだと言う 私はポケットの中でロザリオを握りしめていた そうすると不思議と光に照らされるのだ こんなことは数年前にもあった そのときはロザリオを握りしめていなかった 生徒の批判にイチイチ応えたり、「君自身」の身勝手さを指摘したりして関係をこじらせていた 反抗的なマミのいるクラスの雰囲気は最悪だった 冷たい空気の中では何をやってもうまくいかない マミが授業への不満を述べ立てたあと私は言った 「でもそれが今日、教室を出て行ったことのほんとうの理由なの?ほんとうの理由とは思えない」 マミは一瞬黙ったあと、「キライだから!」と言った そうなんだね、とロザリオを握りしめた私は不思議に静かな気持ちで思った 不思議に傷つかなかった 十字架のイエスさまが傷を背負って下さったからだろう 「授業評価でみんなが批判しても先生は、私のやり方を変えるつもりはないって言ったじゃない!」 「そんなこと言ってないよ。授業のここの部分を変えてほしいという具体的な批判だったら聞くよ。 だけど、『先生を変えてほしい』とか『私立から来たせいか雰囲気が固い』とだけ書かれたら、どうにもできないじゃない。 私のキャラを変えてほしいっていうんだったらそれはムリだよ。あなただって、あなたのキャラが気に入らないから変えてくれって言われたらどうしようもないでしょう?私を受け入れてくださいって頼むしかないよ。」 マミは黙った 私は続けた 「キライだって他人から言われらどんな気持ちになるかわかる?あなたは他人からキライだって言われたことある?」 マミ「…中学校のとき、いじめみたいなやつ、周りから言われたことあるけど、担任がその子らに謝らせた。だけど思ってないことばっかり言って、バカみたいだった。。。でももうべつにいいよ。」 私「うん、そうだね。高校入れば過去のことになるしね。そんな人間関係ばっかりじゃないって色んな経験するとわかってくるから、キライだって言われても自分だけの問題じゃないってわかってくるもんね。私もこの年まで生きてきて、いろんな経験したから、それでメゲたりしないよ。だけどキライだって言われたことはやっぱり『どうしてなのかな』って解決されないままに残っちゃうんだよ。あんたは賢い子だから、授業中もこうしたら私がどういう気持ちになるか、どう反応するかわかっててやってるんでしょ?」 マミが黙っているので私は続けた 「私はね、西さん(マミ)と仲良くなりたい」 マミは黙っていたあと言った 「まあね、あたしのせいでクラスの雰囲気も悪くなるし、みんなには悪いことしてるかなとも思うし、そろそろいい子になろうかなとも思ってる」 「いい子にならなくてもいいよ。わがままでもいいよ。ただ西さんと仲良くしたい。」 マミ「成績とかあるしね。いい子にならないと。」 私「関係ないよ。前期の成績、どうだった?」 マミ「4だった。テストの成績か。」 私「うん。だからいい子じゃなくても関係ないんだよ。何言っても関係ないから安心してよろしい。あんたは面白そうな子だから、私は仲良くなりたい。どうするかはあんたの自由だけど、気が向いたら考えてほしい。」 ロザリオのおかげ。 「天の御国」ってどういうのか、またちょっとだけわかった 「天の御国」はいい子の住むところじゃない いい子ばっかりのクラスでは私はいつも調子が出ないのだった 私だけじゃなくて、生徒のみんな、自分の調子が出ないようなのだった 心から笑い合えるクラスには必ず、わがままな子がいた わがままな子は大きな声で「ああ〜、お腹すいた!」とか「昨日のエンタさあ!」とか「ヒャヒャ!アオキの髪型へん〜!」とかカンケイないことを大声で言って授業を妨害するかわりに 教師のことも愛情をこめてからかってくれるのだった わがままな子はプイとふくれたり、しばしば私に「キライ!」というニラミをきかせたりするが 何かの拍子に「好き」になってくれると たくさんの笑いとリラックスをくれるのだった わがままにも色々あるのかもしれないけど、わがままと「生きる力」はどこか関係あるようなのだった もうひとつの英語のクラスでは、もも子がそんなわがまま娘だ 授業中他の子が答えている最中なのに大声で脱線話をするもも子の自己中を叱ってばかりいたけど もも子がこのクラスを明るく楽しくしてくれていることに私は感謝が足りなかった 今日も叱りかけたら、もも子が「みんなジコチューじゃん!」と言うので 私は思わず言った 「それはそうだ」 それでいいのかもしれない ジコチューとわがままを抑えて冷たい「いい子」になるより ジコチューとワガママなままで、他人をいっぱい愛した方がいいのかもしれない
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子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。 ルカによる福音書18:16−17 今日は初任者研修の一環で、特別支援学校へ行った 特別支援学校。一昔前は「養護学校」と呼んだ、知的障害の子供たちのための学校である 私が行ったのは、軽度の知的障害のある高校生の学校 普通の人のIQは100で、この学校の高校生たちのIQは60から70くらい 年齢にすると小学校3年生くらいの知能だという 一日授業や作業を見学したり一緒にお弁当を食べたりしたあとのミーティングで 初任者は一様に「子供たちが純粋で素直で誠実だ」と感嘆の声を上げていた わたしも知的障害の高校生たちが体育でソフトバレーをしているのを見て 「御国の子ら」ってこの子たちのことなんじゃないかなあ。。。 と思った この子たちが私たちとも「健常な」の高校生たちとも、また「健常な」子供たちとすらちがうところは 自分を誇ったり他人を見下したり、自分が他人にどう評価されているかなんて邪念がないところである だから笑うのである 自分がソフトバレーで得点を決めたから笑うのではない 他人が失敗したから笑うのではない 仲間とバレーをしていることが楽しいから笑うのである 去年中学校に臨時任用で勤めていたときも「おはようございます」「さようなら」と こちらの目をまっすぐ見て挨拶してくれるのは個別支援級の子供たちだけだった お掃除も「健常者」の中学生や高校生よりずっときちんとする なぜなんだろう わたしたちは「知能」とともに何をなくしてしまったのだろう あるいは何をくっつけてしまったのだろう 作業をしているとき、ひとりの女の子が大きな声をあげた わたしと手をつなぎたがり腕や肩にもさわってくれた子だ よく大きな声をあげてしまうらしい このときも。。。 そして帰りのホームルームで担任の先生がおっしゃった言葉と子供たちの反応に感動した 先生「今日作業の時間にSさんが大きな声をあげました。そしたら『鼓膜が破れちゃう』と言った人がいました。そんなふうに言われたらどんな気持ちがすると思いますか」 ひとりの生徒「むかつく!」 もうひとりの生徒「もっと大きな声を上げてやろうかと思っちゃう」 先生「そうだね。Sさんはあのとき気持ちがいっぱいいっぱいでどうしても大きな声を上げたくなっちゃったのね。それを『鼓膜が破れそう』なんて言われたらつらいよね。そんなことを言うくらいだったら、Sさん、どうしたの、だいじょうぶ?って声を掛けてあげるほうがいいね。」 生徒たち「うん。」 感動した 他者に対する想像力 一般の中学校や高校ではこうはいかないよ それって知能とは関係のないものだったんだ。。。 いや、むしろわたしたちの知能が「他者に対する想像力」を損なっているのかも この子たちはエデンの園で「善悪の知識の木の実」を半分くらいしか食べなかったのかもしれない
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