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きのう学校で家庭科の授業を研修のため参観しました 「デートDV」http://www.pref.oita.jp/13100/date-dv/naiyou.pdf#search='デートDV 漫画' 高校では教師全員が理解しておかなければならない重要な問題になっています 彼氏彼女と付き合うなかで起こる身体的、性的、言葉の暴力のことです 高校生は中学生とちがい「学校と家が生活のすべて」ではなくなっています メールを含めた友だち関係、彼氏彼女との関係の方が 学校の授業や行事より心のウェイトを大きく占めている場合がほとんどでしょう 友だちや彼氏に嫌われたくなくて求めに応じていくなかで精神が不安定になっていく 不安定になればますます自分を受け入れて「愛して」くれる友達や彼氏を求め、依存していく とくに彼氏彼女との関係は友だちに話すことはあっても 学校の教師や親に相談することはまずありません 友だちに相談しても、今の子たちは相手の感情にさからって忠告するなどということはないから デートDVの被害者になっている友だちが一端を漏らしても 「ラブラブでいいじゃん!」なんて無責任なことしか言わない デートDVの当事者の高校生の男女が性的関係を持っていたら 密室性はますます高まります デートDVは単なる暴力ではなく 「愛と表裏の暴力」だから これをきっぱり否定することは 人生経験も自信もない若者には、とても難しいことだと思います とくにそれが殴る蹴るのようなわかりやすい暴力でない場合は 今の若い子たちは本当に大変な状況に置かれているなあと思います 高校生はやっぱりセックスしちゃいけない 避妊をすればいいとかそういう単純な問題ではない ホントは一対一で付き合うのもできたらやめたほうがいい 相手の人格を尊重し、なおかつ友だちや親や教師や世の中との(そして神さまとの!)関係も全て損なわず すべての関係を豊かにはぐくむような愛を育てていくには 成熟と訓練と自制が必要なのです 読書をしたり勉強に打ち込んだり多くの人と深い対話をしたりしなくてはなりません 未熟な男女が密室で「深い」関係を持つことはそれを妨げます デート資金を捻出するためにバイトに明け暮れれば、勉強や読書の時間を奪われます そういうふうにはっきり言ってあげる大人がいないのも 今の若いコたちにとって不幸です お父さん、お母さん、そういうふうにはっきり言ってあげて下さい 私が数年間を過ごした僻地の小さなキリスト教の学校は 寮生活を基本としていましたが 在学中は生徒たちが性的関係はもちろん男女で一対一で付き合うことまでを禁じていました なぜなら一対一の関係は、ほかの友だちが気兼ねする閉じた関係を作り出し 互いを成長させる共同体の生命力を損なうからです これを頑迷、時代遅れと呼びますか 封建道徳あるいは律法主義と呼びますか あるいは共同体を個人に優先しようとしていると考えますか そうではない 生徒たちひとりひとりを守り育てようとしていたのです この学校で男女かかわりなく深い友情をはぐくんだ高校生たちは 卒業してからもお互いに得がたい友人でありつづけ カップルになって結婚する者たちも多くいました 若者よ、清い交際をせよ 死語ですね(笑) キスをしたりセックスしたりすることが不潔だからそう言うのではありません 不潔だからではなく扱いの大変むずかしいものだから 大切なものをほんとうに大切にするために 大人たちよ、愛情をこめて若者にそう言ってあげて下さい
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学校
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自分の思いをきちんと述べて その上で人間関係をつくっていくこと 簡単なようでむずかしい オトナにも子供にも 今年から勤めはじめた学校の生徒の姿もだんだん見えてきた今日 文化祭のクラスの出し物を何にするか ホームルームの話し合いはどこのクラスも盛り上がらない 重い沈黙が支配する 自分の提案が反論に遭ったらどうしよう それを恐れて子供たちは堅く口を閉ざす 思いがないわけではないけれど 周囲の目が怖いから だから文化祭の出し物は「無難」なゲームとかお好み焼き屋とかクレープ屋になる 劇なんてやってクラスがまとまらなかったら苦しいし悲惨な結果になるし 人間を育てていくものは 安心して自分をさらけ出せる相互の信頼関係だ 4年間を過ごした「日本で一番小さい学校」を思い出す コーラスも劇も夕拝での「所感」も日本の高校生としてはかなり質の高いものだった あの子たちが特別感性の鋭い優秀な子供たちだったわけではない あの子たちを育てたのは優秀な「コーチ」や熱血教師ではない あの子たちを育てたのは聴衆の「聴く姿勢」だ 1学年1クラス、30名足らずのほとんどが寮生活で起居を共にする生活の中で お互いをよく知るようになり友情が育ち お互いの「あるがまま」を苦悶しながら受け入れるように鍛えられ そんな中で友の声や思いに関心を持って「聴く」姿勢が育っていった 自分の思いが注意深く聴かれていると感じたとき 子供たちは自分の率直な思いを言葉にして語る励ましを得た 自分の言葉に責任を持ち いっしょうけんめい劇を演じるようになった 思いをこめて歌うようになった 東北の僻地の小さな学校を離れ 都会の公立の「ふつうの」学校に今私は勤めている 子供は変わらない あの僻地の小さな学校の子供たちと今の学校の「ふつうの」子供たちは変わらない 他人の目を恐れる気持ちも 人間は励まされて育っていくのだ そして人間を励ますものは 「あなたの声に関心をもって耳を傾けていますよ」という周囲のメッセージだ 私は教師に向かないと時折思うことがある けれど人間を励ます気持ちは持っていると気づいたとき こんな私でも教師を続けていていいのかもしれないと思い直した 私には指導力もカリスマ性もないし、気の利いた軽妙な冗談も言えないけれど 注意深く聴く人になろう そして子供たちもお互いの心の声に耳を傾ける繊細さを持つように そうしてお互いを励まし育てあう人間関係を持てるように いつも祈りましょう 私は教師に向かなくても 神さまが私を教職にとどめて下さっているのは 祈ることができると思われたからですね 明日も祈ることができますように
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「中学生は『死ね!』という言葉を一日百回くらい使うよねえ」 「ボキャブラリー少ないからね。なんでも『死ね!』で表すんだよ」 「そうそう、『あっち行け!』も『ありがとう』も全部『死ね!』で表すんだよね」 「『死ね!』って生徒に言われて、先輩の先生に相談したら、『オレはそんなこと言われたことないけどね』と得意げに言われておしまい。結局あたしに指導力がないから生徒にナメられるんだって言いたいみたい」 「一度、とうとう生徒の前で泣いちゃった。。そのあと職員室に戻ってボーっとしたまま次の授業を忘れてスッポかしちゃった」 「泣きたいときはトイレで泣くの」 「部活指導ばっかりで夏休みも土日もない。 私、ホントにこんなことをやりたかったんだろうか。。。 やめるなら今のうちと思って、民間企業の就職試験を受けに行った」 初任教員のホンネ。中学校に配属された若い先生たちと飲んだとき。 とりあえず悩みを吐き出せる場があるのはいいことだ。 皆それぞれがんばり屋さん。。。 この苦しい局面をなんとか乗り越えて「生徒指導のコツ」をつかむと 「『死ね!』だって?あたしはそんなこと言われたことないケドね」と後輩教員にむかって言うようになるのだろうか 泣いてしまうのは彼女たちの指導力がなくて甘えているからだろうか 「オレに向かっては子供たちは『死ね!』なんて言わないぞ。子供たちはオレの言うことはきくぞ。オレの前では皆いい子だぞ。オレは指導力があって尊敬され慕われてるからな」 という自信満々なベテラン教師のほうが怖い こういう教師たちの方こそ子供がみえていないのではないだろうか 昨年一年間、中学校で臨任教員を勤めていたときのことを思い出す 相手によって露骨に態度を変える子供たちに 「正しいことは、誰の前でも正しく、間違っていることは誰の前でも間違っているのではないの?」 と言ったら、 「宗教みた〜い!」と子供たちに言われた 絶句した。。。 「正しいことは誰の前でも…」こういう発想を子供たちは今ここで初めて聞いたのだろうか 家庭は何をしているんだ?と、ありきたりだけど私はやっぱり思ってしまうのであった そして教育を「教師の力量」に依り頼む学校教育もやっぱり何をしているんだろうな。。。
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低下したのだと思う 私は中学校までは勉強はできなかった オール3に4が二つくらいだった 公立で偏差値が一番下のランクの普通科高校に入学した (当時は公立高校の数が少なかったのである) 高校に入ってから勉強に目覚め、簡単な質問にも答えられないクラスメートに始終イライラしていた こんな程度の低い授業に付き合わされるより自分で家で勉強しているほうが効率的だと思い 親公認の上、学校をしばしばサボって家で勉強していた しかし、しかしである 今思うと結構高度な授業をやっていたのである 英語のリーディングの教科書は絵も写真も入っていない英文ばかりのB5版だった グラマー(文法)やコンポジション(英作文)も高校1年生から必修で 「次の和文を英訳せよ」などという問題ばかりが情け容赦もなくテストに出された 数学では教科書に加え、「スタンダード」という問題集が渡され、試験範囲にされた 基礎と応用からなる問題集だったが「応用」も試験範囲だった 世界史の教科書は分厚くて、到底全部は授業でカバーしきれない近代史を200年分くらい 「自分で教科書を読んで勉強しておくように」と言われ、しっかり試験範囲にされた 現在勤めている公立高校に在籍する生徒の中学校時代の内申は、私の中学時代の内申と同じくらいである 生徒が「できない」のかどうかわからないけど 私が高校時代に受けたような荒っぽい授業をする教師はいない 英語の予習でわからない単語を辞書で引いて単語帳に書き留めるのは、昔は当然のことだった 今は新出単語の意味を書き留めるプリントを配る プリントにカッコがあいていると反射的に「書かなきゃ」と思うが 何も渡されないと生徒は何もやってこないからだ 「訳読プリント」なるものも毎回配り、全訳をしなくてもいいようにところどころ英熟語だの部分訳だのを書き入れさせる 教科書もすごく「親切」である 一言でいうと「食べやすいように」やわらかく噛み砕いて口当たりよく料理されているのだ ではなぜ学力が低下したのか 結論…学力は「親切」な教え方と口当たりのよい調理では身につかないのだ そんなこと言ったら教師の存在意義がなくなってしまうのだけど… それと「考えよう」とする生徒が驚くほど少ない たとえば次の英文 The best colors are the ones that match your skin color. the onesは何を指すか、という試験問題に正答できた生徒はわずかであった The best colors もmatchもskin colorも意味がわかるだろうから 「最高の色とはあなたの肌の色にマッチする( )である」という日本語になることくらいわかるだろう(関係代名詞のthatがわかるとすれば、だけど、関係代名詞は中学校の既習事項だ) とすればthe onesの指すものはthe colorsでしかありえないだろうが! それをthe best colors だのskin colorだのと答えるのだ 「最高の色とは最高の色である」では同義反復だろうが! 自分の頭で考えていないとしかいいようがない このテの、文法理解以前に「自分の頭で考えてる?」といった事態に 授業ではしょっちゅうぶつかるのである 大学全入時代 わたしの勤めるこの高校で、大学進学希望者は8割を越える 「高校の授業内容が教えられない」レベルの高校ではない しかし彼らに大学レベルの授業内容はムリだと思う 90パーセントを超える生徒が高校に進学する現実は 高校教員であるわたしの雇用にはありがたい現実である 大学に進学しようという高校生が多いことは大学教員にとってはありがたい現実だろう だけどなぜ中学校で教わる内容をダラダラ三年間も引き延ばして高校でやらなくてはならないのか、 高校レベルの学習内容をダラダラ4年間も引き延ばして大学でならなくてはならないのか 不合理ではないだろうか わたしの勤務校では、高卒で就職する生徒もわずかながらいる 就職希望者には成績のよい生徒が少なからずいる 私が企業の人事担当者だったら テキトーに「入れる大学」に入り、遊び暮らした大学生より 高校3年間マジメに授業に取り組み、生活態度もコミュニケーション能力もたしかで 感じのよい高卒の若者を採用する そういうたしかな人選をしている企業は少なくないようだ なまじ「3流大学」や専門学校へ進学するより 高い内申点を取って就職するほうが、安定した企業に正社員として入社できる それなのになぜ親は経済的にムリをしてまで子供を大学に入れようとするのだろうか 不思議である
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ネガティヴな言葉は使いたくないと思っている だけど「コミュニケーション下手」という言葉を思いついて この言葉、「心が育っていない」とか「思いやりがない」とか「空気が読めない」って言葉より ずっとやわらかい言葉なんじゃないかなと感じた 「キレる」人が多くなっている 末には人を殺す人まで そしてそれに反応して「厳罰を課せ」と叫んで ますます世の中はパサパサする 「コミュニケーション下手」 私は教師だ だから「授業のプロ」であると同時に「コミュニケーションのプロ」になりたいと思っている 「今の子供たちはコミュニケーションが下手だ」 ハッキリと気づいた 昔より子供たちはおしゃべりだし ケータイやネットといったツールを駆使してるけど 傷つきやすいし しょっちゅうイジメやハブのようなトラブルが起こる 「コミュニケーション下手」なのだ しばしば授業中寝るし 単語調べもしてこないで 当てるとシレっとして「知りません」と答える生徒がいる そして授業の後に寄ってきて 「授業の進め方がわかりづらい」と言う ちょっと前までならカチンと来たところだ 教師の授業の進め方にクレームをつけるなら せめて言われた課題はキッチリこなし 真剣に授業を聞いて クレームはそれからというものだ 「あなたねえ」とちょっと前なら言ったかもしれない しかし今日はそうは答えなかった 「そうか、どこがわかりづらいの?」 「そうか、じゃあ考えてみるね」 「また聞くから教えてね」 私は学んだのだ ここで「私の授業の進め方はねえ、こういうことを意図してるのでねえ、だからこういうふうに授業を受けるべきなんだよ」なんて言ったら反発しか返ってこないのだ 「先生の言い訳」と感じるのである 「わたしの言うことを聞いてもらえなかった」と感じるのである 「わかりやすい授業」のハードルは昔より格段に上がっている あらゆるものにマニュアルがついているおかげで マニュアルなしには子供たちは何物にも対応できなくなっている 「学力低下」が問題になってるけど 原因は子供たちが自分の頭で考えなくなったせいだと思っている 小学校からワーク形式のプリントに慣らされたために 話を聞いて自分で要点をメモしたり 勉強の仕方を自分で工夫することができない したがって授業でも「今何をすべきか」を細かくマニュアル的に示してあげないと 「わかりづらい」と感じるのである それをこなして本当に「わかった」か、学力がついたかは別として しかしそれを嘆いても始まらないし、ましてや非難しても仕方ないのである 他人に何かを要求するときのマナーについてここで説教しても関係が悪化するだけなのである だから「何に困ってるの」「そうか、じゃあ考えてみるね」「また言ってね」と言う 社会に出てからはそれじゃすまないだろうなとは思う 上司にドヤしつけられて出社拒否になったり会社を辞めてしまったりするハメになるだろうとは 心配する とりあえずここは学校である だから教師がまず「コミュニケーションのプロ」になる 生徒がどこにボールを投げてもレシーブする レシーブが悪くてもトスする 私はバレー部の顧問だ とりあえずボールをつなげていくことが最優先なのだ 「教育」はその先である
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