子ろばのエッセイ

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人間にとって究極的に重要となる力は、不幸を受け止める力である。そしりや悪口、非難、嘲り、世に認められないこと、愛する人を失うこと、愛する人に捨てられること、貧しさ、病気、災難、老い…。
 
 仏教は富や名声、健康や愛を求める気持ち自体を「煩悩」として斥けることで、それらを得られない苦しみ、失う苦しみから逃れようとした。けれど人間は自然な気持ちとして、周囲と仲良く折り合いたい、友だちがほしい、恋人がほしい、自分を認めてもらいたい、愛されたい、お金がほしい、無病息災でありたいと願うものである。そんなことを願ったらよけい苦しくなるからやめておけ、とは他人にも自分にも言えないであろう。異性を愛すると傷つくから2次元のアニメに逃げるという青年はいるが、そういうあり方を多くの人は健全だとは思わないだろう。傷つくことを覚悟で愛するからこそ、愛は感動を誘い、小説や映画のテーマになってきた。精魂を込めた仕事が評価されることを願うのは当然の気持ちだし、他人が全く評価もせずありがたがりもしない仕事に生きがいや喜びを感じることはできない。どのくらいお金が必要かは人によって違うだろうが、とりあえず食べていけるだけのお金がほしいと願わない人間は、今日にも自殺しようと思っている人間だけだろう。仏教をよく知らず偏見でものを言っているのかもしれないが、「煩悩」を否定することは、人間が人間であることを否定することのように思える。
 
 堂々めぐりのようだが、人間が人間であるかぎり、幸福を追求することは不幸に脅かされることでもある。だからこそ人生は「賭け」であるという考え方が一般的になる。「賭け」に勝つために「神頼み」をし、よく当たる占い師のもとに殺到する。しかし「賭け」に勝とうと夢中になっている人間は、原理的に自己中心的になる。一人の人間が1億円の宝くじに当たるということは、ハズレくじを引いたあまたの人間がいるという事実なしにはありえないし、「自分の幸福」を考えることが「人間全体の幸福」を考えることとどんどん隔たっていってしまう。それ自体が不幸なことではないかとふと考えるところにこそ、人間存在の不可思議と深さがあるのではないだろうか。
 
 シモーヌ・ヴェーユは「不幸」について突き詰めて考えた稀有な思想家である。『重力と恩寵』という著作の中で、彼女は「不幸な人間は不幸について考えない」という不思議なことを言っている。しかし経験的に事実である。飢えている人間は食べ物について考える。食べ物のことしか考えられなくなる。いじめられている中学生は、どうしたら友だちに受け入れられるかとそればかり考える。貧しい人はどうしたら金を手に入れられるかということで頭がいっぱいになる。不幸な人間は「自分ばかりがなぜ不幸な目に遭うのか」とうらむことはあっても、「人間にはなぜ不幸がふりかかるのか」とは考えないのだ。共産主義思想の最大の功績は、この問題に対して取り組み、「私の不幸」から「私を含む同胞の不幸」へと目を向けさせたことであろう。発想の転換をもたらしたことはまさに「革命的」であるが、いじめられている中学生や病気に見舞われた人の不幸まで視野に入れているわけではない。不幸の意味について突き詰めて考えたのは実はキリスト教である。長くなるので、今日はここまでにする。

聖書と労働

教会の牧師先生が労働についてブログで書いておられたので、わたしも聖書から探してみました。
 
テサロニケ第二3:6-15
3:6 兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。
3:7 どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、
3:8 人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。
3:9 それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。
3:10 私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。
3:11 ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。
3:12 こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。
3:13 しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。兄弟たちよ。
3:14 もし、この手紙に書いた私たちの指示に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。
3:15 しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい。
 
 
テサロニケ第一4:11〜12
また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。
 
 
テサロニケ第一2:9
兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。
 
 
エペソ4:28
盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。
 
 
使徒言行録20:33-35
私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。
 
 
箴言31:27-31
彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。『しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている。』と。麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。
 
 
詩篇104:23
人はおのれの仕事に出て行き、夕暮れまでその働きにつきます。
 
 
出エジプト記20−9
六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。
 
創世記2:15
神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
 
 
ヨハネ6:27
朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。
 

おタク

江の島の猫の飼い主がみつかった。
 
真犯人かどうかはわからない。
 
疑わしきは罰せずを貫いてほしい。
 
「いかにも友だちいなさそうな奴だ」「いかにも犯罪起こしそうな奴だ」
 
と視聴者が思うところが、あやうい。
 
で、多くの日本人と同様に、
 
この事件を話のネタに同僚とお昼ごはんを食べていたのだった。
 
私 「おたくってアニメとゲームとコンピュータが好きでしょ?この共通点は何なの?」
 
ユミさん 「ストーリーがあるとこかな」
 
私 「はっ?おたくって人間づきあいキライでしょ。生き物がキライだから、鉱物に向かうんじゃなくて、人間のストーリーに向かうの?」
 
ユミさん 「そういうもんでしょ。」
 
私 「リアルの恋愛はこわいけど、ラブストーリーの映画は観るっていうのとおんなじか。リアルの人間は避けるけど、人間の織り成すストーリーは欲するわけね。」
 
ユミさん 「そういうもんじゃない?」
 
私 「だけどさ、文学青年、文学少女とアニメやゲームが好きな少年はどうちがう     の?」
 
ユミさん 「客観性があるかどうか。ゲームは自分の思ったとおりにストーリーを作れ      でしょ?」
私 「なるほど!文学はフィクションであっても現実の観察を投影しているものね。」
 
 
 
 
ユミさんはスルドイ。おたくがなぜ他者と会話ができないか、犯罪予備軍とみなされがちなのか、その根拠を言い当てている。
 
文学はフィクションであっても、現実の観察に根差しているから、
異なる現実を生き、異なる体験をする他者と接点を持つことができる。
 
異なる場所と異なる時間を生きる他者と共有しうる問題を提起する。
 
そして他者との対話を通して、現実を掘り下げ、より普遍的な地平を開拓するという
開かれた視座を備えている。
 
読んだことのない小説の話でも、その小説が提起する問題が、自分の問題と重なることに気づき、興味を持つということがある。
 
アニメやゲームの多くはそうではない。
 
ユミさんいわく、「だからゲームはファン同士では会話は盛り上がるけど、
そのゲームを知らない人との間では会話が成り立たないのよ。」
 
聖書も一大ファンタジーである。
 
しかしそのファンタジーは、紀元前の現実と21世紀の現実を重ねることができるものだし、聖書の中の出来事は、自分の人生の出来事と重ねることのできるものである。
 
他者の現実と自分の現実を重ねることができなければ、対話は成り立たない。
 
ストーリーは創造主によって与えられ、私たちは自分に与えられたストーリーを見出し、生きることしかゆるされていない。
 
それが被造物であるということであり、自分がストーリーを創造するとき、私たちは他者を見失う。
 
現実のストーリーは私たちにとって「意のままにならないもの」である。
 
意のままにならない現実を生きるとき、私たちは、苦しみと悲しみを知り、
苦しみと悲しみを通して、他者の苦しみと悲しみにつながることを知る。
 
そして「生きる」ということの普遍的な意味に気づく。
 
「思った通りにストーリーを作る」とき、私たちは、被造物として味わう至福を失ってしまうのではないだろうか。
 
私が思いのままに作るストーリーより、創造主の作るストーリーの方がはるかにすばらしいのだから。
 
 

心の成熟度

私はこれまで6つの学校で教え、また学校外で社会人や子供にも英語を教えてきた。
 
そこで気づいたことは、心の成熟度というのは学力とは全く関係がないということだ。
 
年齢とはいくらか関係する。
 
トップの成績の中学一年生と偏差値最下位の高校の生徒を比べた場合、高校生の方が心が通う。
 
企業に出向いて英語を教えたときは、30代後半から40代の会社員の方が、
 
若い社員よりもはるかに気が利いていたし、心が通う楽しさを味わった。
 
3単現すらおぼつかないような英語力であったが、実にオトナであった。
 
とはいえ年齢的に大人でも心が成熟していないと感じさせる人はいる。
 
私の父は今80代だが、30代のときも今もずっと心は子供だ。
 
育ちのよさとか愛されて育ったとかいうことが心の成熟には関係するのではないかと思っていたが、
 
あながちそうでもないようだ。
 
親と始終トラブり、暴力を振るわれていた生徒は、言葉遣いは乱暴だけど実にやさしく、
 
他人の立場に立てる子だった。
 
私たちの心を成熟させるものは何なのだろう。
 
『おばあちゃんの家』という韓国映画を観た。
 
わがままいっぱいな孫はおばあちゃんの心がわからない。
 
ラストシーンに近づくにつれて、おばあちゃんの心に気づき始める。
 
おばあちゃんを神さまだとすると、
 
わがままいっぱいな私たちには神さまのみこころがわからない。
 
孫と自分を重ね、おばあちゃんと神さま(十字架の貧しきイエス)を重ねて映画を観た。
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いっさいは空である

空の空、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、
その身になんの益があるか。
世は去り、世はきたる。
しかし地は永遠に変らない。  (伝道の書第一章)
 
 

私の父は暴君であった。
 
かんしゃく持ちで、気に入らないことがあるとすぐ暴力をふるった。
 
小さな商店を営んでおり、母をあごで使った。
 
勤勉ではあったし節約の習慣もあったから、
 
家長としての責任は果たしたと言わなければならない。
 
私を大学まで出してくれたことには恩義を感じている。
 
しかし父と心を通わせたことは一度たりともなかった。
 
「一度たりとも」という表現に、われながら愕然とする。
 
無口でおっかない父親があるときふと情をみせたとか
 
何気ないひとことが忘れられないとか
 
大人になってから父の気持ちに気づいたとかいうこともない。
 
かんしゃく持ちで時折殴りつけてきたことを除けば、
 
とくに虐待されたという覚えもないが、
 
愛されたという実感もない。
 
リカちゃん人形が登場する前の「タミーちゃん」「ペパーちゃん」という
 
アメリカの人形を私と妹に、海外旅行の土産として買ってきてくれた。
 
当時としては高価な人形だったのだと思う。
 
しかしどこか唐突感が否めず、
 
子供好きな伯父が正月に甥姪全員におもちゃを買ってくれた自然さとはほど遠いものがあった。
 
近所の寿司屋で夕飯後一杯ひっかけた後、寿司を土産に買ってくることもあった。
 
「しゅしだあ!」と妹はおどけて、私も喜ぶふりをしたが、
 
食べるかと聞かれれば、夕ご飯を食べたあとだから明日、と答えたのは、
 
礼儀正しく正直な子供の返事であった。
 
しかしそう返事をするや否や父の機嫌が悪くなるのを見て、
 
おなかがいっぱいなのに美味しそうにお寿司を食べたものである。
 
母が風邪で寝込むと、初日は張り切って夕飯を作り、デザートまで奮発するが、
 
一日二日と経つうちに機嫌が悪くなり、三日目には爆発するのを
 
私も妹も経験から予測するので、
 
初日の上機嫌で差し出されたデザートを恐怖とともに味わったのを覚えている。
 
万事がこの調子で、
 
私と父は今日に至るまで概ね平和裡に父子関係を続けているが、
 
心が通ったことは一度もない。
 
母は甘える女ではなかった。
 
「母である」ということが母のアイデンティティであり、
 
「度量の小さい男とはちがって女はどこまでも度量を大きくしていくことができるのだから」
 
というのが母の口癖であった。
 
父と母も今日に至るまで概ね平和裡に夫婦関係を続けている。
 
父は悪人というのではなかったが、
 
大人の男として妻子を愛するほどに成熟してはいなかった。
 
 
 
 
父は今、もうろくしている。
 
母の姿が少しでも見えなくなると不安に駆られて探し回る。
 
幼児のように。
 
このまま赤ん坊のように看取られていくのだろうか。
 
父の人生にもいろいろあり、金儲けの他に趣味らしきものさえあったことも知っている。
 
まだ貧しい日本の零細商店の息子の分際でスキーやヨットもやり、
 
コーヒー豆を手に入れてサイフォンで淹れて、蘊蓄を垂れていたことも覚えている。
 
人は人生にたくさんのことを為し、たくさんの言葉を発する。
 
しかし父が人生において為すべき唯一つのこと、唯一つの言葉が何であるかを
 
父の人生の数年間をともにすごした私は気づいているように思う。
 
母に対する(父にとって妻に対する)「ありがとう」だ。
 
もしその言葉を発さずに逝くのならば、
 
父がこれまで何を為し、いくつの言葉を発したにせよ、
 
私はソロモン王と同じく、
 
「空の空、空の空、いっさいは空である。
 日の下で人が労するすべての労苦は、
 その身になんの益があるか」
 
とつぶやかざるを得ない。
 
父にかぎらず、人は人生で多くのことを為し、多くの言葉を発するけれど、
 
本当に必要なただ一つの言葉を語って死ぬだろうか。
 
職場の同僚にも、配偶者にも、子供にも言えない言葉があるのを知っている。
 
心を重ねなければ言えない言葉があることを知っている。
 
元夫の父(私の舅)は、戦争中ビルマに赴き、そこで経験したことを
 
妻にも息子にも語らずに息を引き取った。
 
自分の人生で一番重要だったことをなぜ人は語らずに死んでしまうしかないのだろうか。
 
インターネットの世になろうと変わらない。
 

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