子ろばのエッセイ

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日本人の寛容

『バカの壁』の養老孟司さんへ



一神教は自己絶対化につながり非寛容で

多神教は寛容だというのは思い込みなんじゃないか

寛容というのは「相手の声なき声に耳を傾けること」

「相手のリアリティに立つ」ことだと思う

それはそんな簡単なことじゃない

自分のリアリティと相手のリアリティをすり合わせることだって

簡単なことじゃない

殺人犯のリアリティに立つことは簡単なことじゃない

自分を傷つける人のリアリティに立つことも簡単なことじゃない

「自分は寛容でありうる」という思い込みこそ傲慢なんじゃないか

「わたしはキリスト教もイスラム教も仏教も神道もスピリチュアルもぜんぶそれぞれいいと思うよ」

と言って寛容であると悦に入っている日本人は

ゆるせない思いとか他人に理解されない孤独とかをくぐってそう言っているのだろうか

9.11のテロリストがいるとして(これにも諸説あるけれど)

テロリストをゆるすことは

「イスラム教もキリスト教もどっちもいいよね」という「宗教的寛容」によるのではなくて

「にもかかわらず愛したい」「愛されたい」という一筋の祈りによるのだ

十字架に向き合うことなしにどうしてそのことが可能なのか

十字架以外でそのことが可能なのだとしたら

そのときはじめて

ヒンズー教徒やイスラム教徒、仏教徒や無神論者との高次の対話が開かれるのだと思う

そのときの対話は日本人の考える「宗教的寛容」なんかとは別のものだ
あなたがたはその実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべてよい木や良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
(マタイによる福音書7:16−18)

「実」をあらわす言葉に「成果」という言葉がある

ノルマを全て達成したんだったらそれは「成果」だろうし

東大に合格したんだったらそれは「成果」だ

上のみことばは「そうかそうか、東大に合格したのか、それは努力したんだねえ、アタマいいんだねえ、
東大合格というキミの『成果』から、キミが努力家でアタマがいいということがわかるよ」

ってな意味なんだろうか

まあ、いちおうそうサックリ言ってもかまわない

けれど「木」にたとえられている「キミのありよう」「わたしのありよう」は

アタマがいいとか努力家だとか有能だとかそんなことばかりを指すわけではない

「実」もまた東大に合格したとかスベッたとか営業成績が社内で一位だったとかビリだったとか

そんなことばかりを指すわけではない

たとえばキミは「東大に入って周りの奴らを見下してやりたい」という動機から猛勉強するかもしれないし

「東大に入って官僚になり、一流の人間とだけ交わって、地位も名誉もカネも手にするんだ」という

偏狭な動機からまい進するかもしれないのだ

そういう動機はすべて他人の目からは隠すことができる

「日本の未来のために経済改革を断行したい」とか

「多くの人の命を救うために医者を志しました」とか

「あなたを愛しているから結婚したい」とか

「日本の福音宣教のために大口の献金を募っています」とか

なんとでもいえる



イエスさまの言われる「木はその実で知られる」とは

そうした隠れた動機のすべてが「実」で明らかになるという意味なんだと思う

なぜならたとえば財産目当てで結婚した女は

夫が財産をすべて世の恵まれない子供たちのために寄付しようなんて遺言を書いたら

激怒してののしるだろうし

カネを稼ぐために医者になった人間は

妊婦をたらいまわしにするかもしれない

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
(ガラテヤの信徒への手紙 5:22−23)


この世は動機を問わない

利己的な動機からであろうと「いいこと」をするんだったらいいとしている

だから新聞記者は不正を告発し正義を掲げるし

学校は環境と人権を守ることを教える

シンガーは愛を歌う



しかし隠された動機はすべて明るみに出される

死んだ後の裁きを待つまでもなく

この世において「実」となって顕われる

「よいこと」を行いながら「この世」において御国が開かれないのならば

それはわたしたちが「ぶどうの木」につながっていないのだ

一方でもしわたしたちが道端にかぐわしい香りをかぐのならば

どこからか安らぎと深いよろこびを感じるのならば

そこに「ぶどうの木」が植わっているか

「ぶどうの木」につながった人がささやかな務めを

人知れずなしているのにちがいない

だからこの世で問われないことに思いを注ぎ

愛をこめて芋の皮をむきましょう

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「知る」ということ

今ごろになってやっと、数年前のベストセラー『バカの壁』(養老孟司)を読んでいる

この本がどうしてベストセラーになったのかわからないし

信仰についても大きな誤解と乱暴な決めつけをしていると思うけど

一つだけ胸にストンと落ちたことがある

それは「知る」とはどういうことか、だ

養老さんは「情報は移り変わるけど自分は自分で変らない」という現代の思い込みを否定した上でこう言う

知るということは根本的にガンの告知だ。(つまり)知るということは、自分がガラっと変ることだ。

なんで「ガンの告知」が「自分がガラっと変ること」かというと、

自分がガンだ、あと半年の命だと知ったとしたら、

わたしたちは今年の桜を去年の桜とはまったくちがった目で見るだろうからだ

その桜が違って見えた段階で、去年までどういう思いであの桜を見ていたか考えてみろ。
たぶん思い出せない。では、桜が変ったのか。そうではない。それは自分が変ったということにすぎない。知るというのはそういうことなのです。(『バカの壁』p.60)

イエスさまを知るというのもそういうことだ

わたしが「ガラっと変ってしまうこと」

聖書でいう「知る」は「関係する」「関わる」という意味だと聞いたことがある

「知る」というヘブライ語やギリシャ語がわからないのでそうなのかどうかわからない

旧約聖書では肉体的に関係を持つことをも「知る」と表わしているけど
(「アダムはエバを知った」とか)

念のため英語の聖書をみたらなんのことはない

Adam lay with his wife Eve.(アダムはエバと寝た)とあからさまに書いてあった

福音書には「主よ主よ」と言って自分はりっぱなクリスチャンだと思っていた人が

「その日」にイエスさまにこう言って拒絶されるという話も載っている

「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」

ここは英語聖書にもI never knew you.と書いてあった

イエスさまに触れられたとき、しるしはまずその触れられた人の「変化」として証された

らい病が治ったり、目が見えるようになったり。

「知る」ということはただ情報を蓄積していくことなんかじゃない

聖書の知識をいくら増しても自分が変らないんだったら、それは「知った」ことにはならないんじゃないか

養老さんのいう「知る」という言葉にいちばん近いのは

「知識の習得」「情報の蓄積」よりむしろ「出会い」という言葉だ

わたしたちは出会いによって変っていくのだ

書物との出会い

他者との出会い

キリストとの出会い




「出会う」ために必要なものはなんだろう

物理的に会うことがそのまま「出会い」とはならない

出会いが出会いとなるためには「時」が必要だし

「時」は熟するまでいろいろな経験を必要とするのだ

もしも苦しまなかったら
神さまの愛を知らなかった♪

という歌は「知る」ために、「出会い」のために

ある準備期間が必要なことを示している




わたしはこの世で教師でもある

生徒たちが授業をとおして「知る」ようになることを目指し

また「出会い」とかかわっている

「教育」とはなんなのか、わたしにはいまだにわからないけれど

ここはわたしの霊的修養の場である




「あなたと出会えたことで、世界ががらっとちがったように見えるようになった」

出会いは「所有」であるよりもむしろ「変化」だ

知識の量、情報の量、ファンの数、付き合った異性の数ではなくて

「わたしは変った」「あらたに生まれ変わった」と思えるただひとつの経験である

一週間の始まりに

はじめて訪れた「十字架行進」さんという方のブログで、

マザー・テレサの魂に染み入るメッセージをいただきました。

マザー・テレサの言葉 (「母なることの由来」「母なるひとの言葉」より) 



人々は忙しすぎます
何かに夢中で時間がありません
互いに微笑みを交わす暇さえないのです



食べ物に飢えた人ならば 食べ物を与えればその飢えは満たせます
けれど孤独な人の心の貧困は、もっと深刻なのです
よく見れば 世界中に“コルカタ”があります



愛への激しい飢え
誰もがその苦痛や孤独を 人生で経験します
家族の中にもいるかもしれない“貧しい”人々を見出し、愛し、 愛を実践に移すのです





すべての人は愛し愛されるために創られました

ヒンドゥー ムスリム ユダヤ教徒 キリスト教徒
人種や宗教の別なく 男性も女性も子供も神の子なのです



許すには多くの愛を要します

けれど 許しを請うには より多くの謙虚さが必要です



貧困を作り出すのは神ではなく 私たち人間です

私たちが、 分け合わないからです





人は皆 特別な才能を与えられています

芋の皮しかむけないならそれを立派にやるのが神への愛なのです
問題は何をするかや、その大きさではありません
その行動にどれだけ愛を込めるかです



愛や神を語っても

実際には愛さない人もいます
実践してこそ愛なのです


この言葉を胸に、来る一週間を過ごしたいと思います

「芋の皮しかむけないならそれを立派にやるのが神への愛なのです
問題は何をするかや、その大きさではありません
その行動にどれだけ愛を込めるかです」

神さまの価値観です

人間の価値観は、どれだけ大きな難しいことをどれだけ多くやれるかで人を測ります

神さまの価値観は、私たちが与えられたタラントでどれだけみこころに添ったかを問います

安息日は一週間の始まりか終わりかで教会の交わりは盛り上がりました

「働くために休むんじゃなくて、安息日のためにつらい労働をするんだよ」とヨハネさん

安息日は一週間のなかで一番たのしい日だもの、それはそうだ。。。

だけどマザーの言葉を糧に私は来る一週間、芋の皮をいっしょうけんめいむこう

愛をこめて芋の皮をむこう

わたしにでもできることを心をこめてしよう

「おはようございます」と心をこめてあいさつしよう

廊下にゴミが落ちていたら拾おう

わたしにでもできる小さなことに愛を込めよう
勤務している高校で女生徒は休み時間にマスカラを塗りなおしたり

マニキュアを塗ったりしている

あるときは金髪、あるときは茶髪、あるときは黒髪のかつら

おしゃれして男の子の気を惹き、デートする

おしゃれ代とデート代を稼ぐためにバイト

バイトに追われて勉強するヒマがない

夜更かししてメールしたりブログしたりしてるから授業中に寝る

大学はラクして入れるところにできれば推薦でさっさとケリをつける

浪人なんてしない

かたや「百年に一度の経済不況」

「派遣切り」

寝る所も食べる物もなく見通しもないというこの切迫感と

高校生たちの目先のことだけにとらわれているようなノンキさのコントラストは

いったいなんなのだろう



勉強は将来安定した暮らしをするためだと言い切るのにはためらいがある

だけどその観点を無視できるほどお嬢さんに育ったわけでもなかった

地位や権力や富を求めて生きてきたわけではなかった

だけど「どうしたら食っていけるか」はやっぱりいつも考えてた

「天の父は養ってくださる」と信じているけど

それは何の努力もしないで遊び暮らして「なんとかなるさ」と言うのとはちがう気がする

「自己責任」なんて言うつもりはない

予備校の教師が学校に来て研修したとき言ってた

「『明日までに単語を百個覚えて来い』と言われて文句を言わず黙々と覚えた奴だけが

早慶東大に入って、大企業や官庁に入り、『明日までに完成しろ』と言われた書類を書き上げるんだ」

この言い方も好きではない

だけど世の中はそういうもんだということも「どう生きるか」を考える上での前提として踏まえてる

「世の中はそういうもんだ」と知っておくということは

そういう世の中の価値尺度に沿って生きることを意味しない

私は離婚のときにこれまでの労働の対価の全てであった家財産を全部夫に譲り渡した

夫にうらみを残して残りの人生を生きていくことは

何千万円かの所持金を得たとしても耐え難いと思ったからだ

それで老後のある時点で一文無しになって寒空に放り出されたとしても

夫にうらまれて、夫の心から平安を取り上げて生きのびるよりましだと思ったからだ

でも「老後のある時点で一文無しになって寒空に放り出されるかもしれない」

「世の中とはそういうものだ」という認識は踏まえての決断だ

「なんとかなるだろう」なんて思っていない

そんなところで神さまを当てにはしていない

変らず信頼しているのは

たとえ放り出された寒空の下でも神さまは出会って下さるだろうということだ

この年齢で公務員に採用されたのは恵みだと思っているけれど

神さまにより頼んでいればいつでも安定した職と衣食が与えられるとも思っていない

神の恵みの中でイスラエルの民は40年間砂漠をさまよったし

神を依り頼む人々もヒロシマで、アウシュヴィッツで、南京で、ガザで苦しみを受けた(受けている)

だから私はなんとか食いつないでいくために最大限の努力をする

それと同時に、たとえ食いつないでいけなくなる日が来るとしても

その日にもやはり神さまの恵みは変らずあるのだということを信じていたい

ヒロシマにもアウシュヴィッツにも南京にもガザにも

キリストはおられるのだということを信じている

コルベ神父はアウシュヴィッツでキリストに出会った

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結局のところ

それが私のさいごのよりどころであり、安心であり、平安だ

私は将来のためにこつこつ節約して稼いでは住宅ローンを繰り上げ返済していた

そんな努力と計画はパーになった

今またこつこつ節約してはお金を貯めて

なおかつ退職後の収入源となるくらい英語力を伸ばそうと努力している

「なんとかなる」とも「神さまがなんとか衣食をつないでくださる」とも思っていないので

いちおうそうする

それと同時に、そんな努力と計画もまたパーになるかもしれないとはどこかで思っている

それでもキリストはどこででも出会って下さるだろうと信じている

どんな状況にも恵みは注がれるだろう

そう信じていることが私の安心と平安

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