子ろばのエッセイ

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ジェラシー

英語の勉強をしていたら面白いエッセイをみつけました。
 
「嫉妬(ジェラシー)について」
 
歳をとってできなくなることはたくさんあります。歳だけ重ねて依然としてできないこともたくさんあります。
 
けれど歳をとって、せめてジェラシーやプライドから解放されて、謙遜に、イエスさまの軽やかさをもって生きることができたら、どんなに素敵だろうと思います
 
以下、心に触れたこの英文エッセイを翻訳してみました。
 
 
 
          ジェラシーとは何か
 
ジェラシーは、他人が何かを成し遂げたり、周囲から認められていたり、魅力的だったり、何かを持っていたりす
 
ることに対する憤り、あるいは優位に立って意気揚々としているようにみえる誰かさんに向けられた敵意という特
 
徴をもつ精神的な態度、ないしは感情的な罪である。
 
ジェラシーはプライド=傲慢、という罪にかならず伴う結果である。ジェラシーは、プライドから始まる一連の罪、
 
あるいは罪の複合体の一部であると考えられうる。
 
プライドが高いということは、感謝するということとは反対の態度である。プライドの高い人は、神の恩寵に対して
 
盲目である。プライドを持つと、人は実際とはかけ離れた大層な自尊心、他人より自分の方が優れているという
 
事実ないし思い込みに根差した自尊心で、自分を眺めるようになる。
 
箴言14:30 「健全な心は身体を生かすが、ジェラシーは骨を腐らす」(註)
 
箴言 27:3,4,「石は重く、砂も重い。しかし愚か者の怒りは石よりも砂よりも重い。怒りはすさまじく腹立ちはとうて
 
い収まらないが、ジェラシーの前に立つことのできる者がいるだろうか。」
 
プライドは虚栄の同義語である。虚栄とは自分の人物、業績、所有についてのむなしいプライドであり、注目され
 
たい、認められたい、他人の是認や称賛を得たいという過度の願望と一体である。
 
他人の受けている恵みや成功、所有物、魅力、注目に不満だからジェラシーを感じるのである。
 
ジェラシーはまた、友情や愛を失うのではないかという怖れから生まれる。もとはといえば自己中心的な気分、
 
相手の愛情がライバルに移ってしまったのではないかという疑う気分である。
 
そうしてジェラシーは、愛やビジネス、職業生活、社交、運動競技、さらにはまた信仰生活においてさえ、熾烈な
 
競争をもたらす。(続きはまた更新時に)
 
(註)新共同訳では「穏やかな心は肉体を生かし、激情は骨を腐らせる」とあります。New International Versionの英語聖書では、A heart at peace gives life to the body, but envy rots the bones. この英文エッセイの引用聖書はA sound heart is life to the body; but jealousy is rottenness to the bones. ですから、「激情」ではなく「嫉妬」と訳す方が正しいように思います)
 
Definition
Jealousy is a mental attitude or emotional sin which is characterized by resentment of another person’s accomplishments, recognition, attractiveness, or possessions, or by hostility towards someone else who is believed to be enjoying some advantage.
Jealousy is a common result of the sin of pride, or arrogance. Jealousy can be thought of a part of a collection or complex of sins which begin with pride.
A prideful attitude is the opposite of a grace attitude. A person who is filled with pride is blind to the grace of God. Pride makes a person think of himself with a lofty self-esteem that is far apart from reality, and has a source in some imagined or real superiority to others.
Prov. 14:30, “A sound heart is life to the body; but jealousy is rottenness to the bones.”
Jealousy is one of the strongest mental attitude sins.
Prov. 27:3,4, “ A stone is heavy, and the sand weighty, but a fool’s wrath is heavier than them both. Wrath is cruel (fierce), and anger is outrageous, but who can stand before jealousy?”
Pride is synonymous with vanity, which is empty pride in regard to one’s person, attainments, or possessions, coupled with an excessive desire to be noticed, to be recognized, to receive approval or praise from others.
Jealousy, then, is the result of discontent with the blessings, successes, or possessions of other people, or of their attractiveness, or of the attention that they receive.
Jealousy also comes from the fear of losing another person’s friendship or love, a mood that is based on self-centeredness, that suspects that the other person’s love has been diverted to a rival.
Jealousy, then, brings about a frantic competition in love, business or professional life, social life, athletics, as well as in the religious life.

この病、死に至らず

子供のころは死ぬのが怖かった。

子供の気持ちなんてまったく考えない父親が、ある時水素爆弾の話をした。

父「原爆よりも破壊性のある水素爆弾っていうのがあって、ボタンひとつ押し間違えると

  発射されてしまうんだ」

私「じゃあ外国へ逃げたらいいの?」

父「どこへ逃げたって同じさ。放射能は空気や海流にのって運ばれるんだから」



幼い私は心配で心配で数日間勉強も遊びも何も手につかなかった。

北極か南極へ逃げようかとも真剣に考えたが、「それもむだだ」と父親は言う。

そう言う父親はなぜ平気なんだろう、と不思議だった。

また子供にこんな話を聞かせて不安がらせる意図は何なのだろうと悩んだ。

わが子を愛してはいなかったのだろう、つまり。



別のある日、遊んでいて指を切った日の夜中、猛烈なだるさに襲われたことがある。

「体がだるいよ、痛いよ」と母に訴えると、

「破傷風かもしれない」と母はあわて、なんと救急車を呼んだ。

結局、破傷風でもなんでもなかったが、

あわてふためいた母の様子とともに病気や死の恐怖は幼い私の心に刻印され、

小学生の私は初めて「宗教」にめざめた。

毎晩寝る前に、知っているかぎりの「おそろしい死病」の病名をとなえた。

「マラリア、コレラ、チフス、水俣病、イタイイタイ病etc...」

となえることで寝ている間に死病に感染することが防げるかのように。

また「破傷風騒ぎ」の時に抱いていたサルのぬいぐるみを忌み嫌うようになった。

「宗教」はおそらくこうして生まれる。

地震と原発事故が起こり、

同僚の奥さんは「神社にお祓いに行った」そうだ。



大人になり、

いつのまにか「死」は一番怖いものではなくなった。

なぜなのだろう。

たぶん「死」よりももっと怖いもの、悲惨なものがあることを知ったからだ。

たとえば戦争が悲惨なのは単に「死」をもたらすからではない。

ヒロシマよりもオキナワよりも特攻隊よりも戦慄する事実は、

補給を断たれた日本兵が、南京で中国人を殺し、レイプし、略奪したということだ。

中国人を「マルタ」と呼び、ペスト菌を注射して、

生物兵器の人体実験をしたことだ。 

食べ物もなくマラリアでフラフラになりながら亡霊のようにさまよったジャングルで、

くじ引きに負けた仲間の日本兵を殺してその肉を食べたことだ。

同時にこんな事実も知った。

アウシュビッツのガス室で、殺されようとする友の代わりに名乗りをあげて

死んでいったコルベという名前の神父がいたことを。

第二次世界大戦で日本軍の捕虜になり泰緬鉄道の建設に酷使されたイギリス人が、

その地獄のような「クワイ河収容所」で、

友をいたわり、助け、

「天国とはここのことなのだ」と確信するに至った奇跡のことを。




これまでだってつらいこと苦しいこと、目の前が真っ暗になることはあったけれど、

その暗闇を照らしてくれたのは、

コルベ神父や「クワイ河収容所」の囚人たちだった。

絶望的な状況とみえるものの中にも希望があるのだということを

教えてくれたのは彼らだった。

「一粒の麦もし死なずば」




子供のころのたあいない質問あそびで、

「いちばん大切なものはなに?」と聞かれるたびに、

私は迷うことなく「命」と答えていた。

「命」より大切なものがあるはずがない、と思った。

大人になって、死よりも怖いものがあると同時に、

命よりも大切なものがあるということを知ったのだ、たぶん。

うちのくまちん

うちのくまちんです。
「主の羊教会」であばれています。十字架によじのぼったりとか。
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Sちゃんに抱っこされて、I姉にクッキーを食べさせてもらっています。
教会へ来るとみんなにかわいがってもらえるので、くまちんは教会がだいすきです。
もちろんイエスさまとあそぶのもだいすき!
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友人から送られた春の写メールです。
春のおとずれ。みんなこの花をたのしむ気持ちでいられますように。
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二つの愛…アガペーとエロースについては、高校の倫理の試験の答案に書く模範解答くらいには知っていたけれど、本当はよくわからなかった。

エロースのほうはわかりやすい。

価値あるもの、素晴らしいもの、美しいものにあこがれる愛、

自分もそうなりたい、

それにふさわしいものに自分もなりたいと願う向上心。

アガペーは価値のないもの、みすぼらしいものを愛する愛だ。

神の愛はアガペーだと教えられた。

人間にはアガペーは不可能だと言った人もいた。

博愛と言い換えた人もいた。

やっぱりよくわからなかった。

同情のことか、それならそんなにいいものじゃないと思ったりもした。

けれど、教会の交わりの中で、少しだけわかった気がした。

秀でた人、有能な人、地位や名声のある人、人気者、華のある人、

そうした人と友達になると、

自分もえらくなったような気になる。

そうした人と付き合っている自分を誇らしく思う。

周りからバカにされている人、ダメな人と付き合っていると、

自分もダメな人の仲間だと思われるからいやだ。

聖書には次のような出来事が紹介されている。

ヤコブとヨハネという二人の弟子が、イエスにお願いする。

「栄光を受けるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」

そうするとイエスは答える。

「あなたがたは、自分が何を願っているか分かっていない。

このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」

イエスが飲む杯、受ける洗礼とは十字架のことだったが、

イエスが十字架につけられることになると、ペテロはイエスを知らない、と言う。

ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄ってきて、
「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
ペトロはみなの前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこでペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉づかいでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

神の愛はアガペーだと簡単に言うが、上の聖書の記述を読んでみると、

イエスは周りからバカにされている人、ダメな人を上から憐れんでいるのではなくて、

イエス自身が「周りからバカにされている人」、「ダメな人」なのである。

神の受肉とはそういうことなのだ。

弟子たちは輝かしい神の子であるイエスの栄光にはあずかりたかったが、

バカにされ、ツバを吐きかけられているイエスの仲間とはみなされたくなかった。

このへんはすごくリアルで、ニッポンの中学校の教室でも、この二千年以上前の出来事が再現されていると思う。

中学校の教室に立ってみるならば、いじめられる子には大概いじめられてしかるべき理由というものはあるのである。

教師も親もイジメはいけないと言うが、子供たちは一般論ではともかく、個別の「いじめ」を悪いことだとは思っていない。学校教師として断言する。

いじめられる奴は、自己中心的であったり、鈍感で他人の気持ちに気づかなかったり、

コミュニケーションが下手で話しているとイライラしたり、くさかったりフケが肩に落ちていたりする。

「注意しても治らない奴」を痛い目に遭わせて「わからせてやる」ことを

子供たちは悪いことだとは思っていない。



さて、それでは「周りからバカにされている人」、「ダメな人」を愛するために、私たちは観音さまのような広いやさしい心を必要とするのだろうか。

そうではない、と思う。

私自身が観音さまや神様になって慈悲やアガペーを下々に施すのではなく、

私自身が「周りからバカにされている人」、「ダメな人」である事実に向き合うだけで十分である。

私たちはなぜ、周りからバカにされている人、ダメな人の仲間だと思われたくないのだろう。

それは私たちが、自分自身も実はそういった「ダメな人」の部類に数えられるかもしれないと怯えているからだ。

私たちが実は自分自身の「ダメさ」を知っているからだ。

それはアダムとエバが禁断の木の実を食べてから隠そうとした恥部である。

私たちが栄光を受けられたイエスの右の座につこうとするならば、

私たちはこの私たちの「ダメさ」を克服しなければならない。

それでもどうしようもない「ダメさ」を隠さなければならない。

「ダメさ」が暴露されないかとびくびくしなければならない。

ダメな人の友になるということは、自分自身の「ダメさ」「どうしようもなさ」をも受け入れていくということだ。

それは痛みを伴う。

それはおそらく神さまの痛みだ。




今日、教会で、Kさんがクマのマスコットをくれた。

きたないクマだ。

Kさんの不器用さ。

もらってもあまりうれしくないようなものをあげて迷惑がられる自分の痛みを思い出した。

この痛みを抱えていよう。

このクマさんを抱えていよう。

これが福音だから。

今日、Kさんに福音をもらった。

大切にしよう。
ひところ学校でも改めて教えなくてはいけないとして話題になったテーマだ

人気作家宮部みゆきの『模倣犯』と『理由』を立て続けに読んだ

どちらも平気で人を殺す若者を描いた作品だ

そして思った

「なぜ人を殺してはいけないか」を倫理の問題として論じることはほとんど意味がない

「いのちの尊さ」を教えることも意味がない(かもしれない)

問題は、なぜある人間が「人なんか殺してもいい」と考えるようになったかを

その人に即して考えることなのかもしれない


何度か教会に来たことのある養護施設育ちの若者A君は、

自分の母親を「気違い」と呼んでいた

「自分を生んでくれた母親を気違いなんて言っちゃいけない」なんて説教は彼にとって意味がない

「人なんか殺してもかまわない」と考える人間に

「いのちの尊さ」を教えようとするのも似たようなものかもしれない


「ウソをついてはいけない」「万引きをしてはいけない」

「いじめはいけない」「他人を傷つけてはいけない」等々についても

同じことが言えるのかもしれない


人が人に対してできることは何なのだろう

「汝の隣人を愛せよ」

それだけだと神さまは言われる

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