子ろばのエッセイ

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ルター

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「信仰によってのみ義とされる」

ルターがこの「発見」にそんなにも感動したワケがやっぱりわからない

どうしたって正しいことを行いえず、罪びとでしかありえない「私」、

義なる神の裁きでは救いから漏れてしまうはずの「私」が、

神の慈悲によって義とされ、救われるんだから感動するに決まっているだろう、という

リクツはわかる

リクツはわかるがしかし、私自身は感動しない

そもそもルターが気も狂わんばかりだったという悩みは、私の共有する悩みではない

私にも悩み苦しみはいっぱいあるけど、その中にルターが抱えていた悩みは含まれていない

私はどうしたって正しいことを行いえず、罪びとでしかありえない…教会ではともかく

日常ではそんなことにはほとんど悩み苦しんではいない

いわゆる「良心の呵責」というのを感じるときもまれにあるが、

あくまで例外的なケースである

大体が常識的でルールに沿ったことをして、挨拶もすれば雑談もする「フツーの人」なんである

じゃあ自分は罪びとだと思わないかと教会できかれたら、

「いやあ、どうしたって罪びとです」と答えるだろう

今こうやってブログを書きながらビールを飲み、納豆ごはんを食べてる瞬間も

教会のNちゃんは点滴している、なんにも食べられない

それでも私はビールがおいしい

アフリカの飢えた人たちのこととかエイズに苦しむタイの子供たちのことは、

自分の今日の授業がうまくいかなかったことほど重要じゃない

だからどうしたって罪びとです

だけど「私はアフリカの飢えた人たちのことを深刻に悩めないんです」と頭を抱えて悩む人がいたら

それはそれで、「アナタ、おかしいんじゃない?病気じゃない?」と言うだろう

「アフリカの人たちのことを深刻に悩めない?誰だってそうだよ」…フツーの反応

「誰だって罪びとだよ」…クリスチャンの反応

自分が罪びとだということに、日常的にはほとんど悩んでいない

だから天国に行けない、救われない、と深刻に悩んでいる日本人はほとんどいないだろう

教会内だって、I姉を除いて皆あんまり悩んでそうもない

私には欠点はいっぱいある

どうしてもできないこともいっぱいある

悪いところもいっぱいある

だけどそれがそのまま私の悩み苦しみになるわけじゃない

それでも周りの人々に受け入れられ、愛され、冗談を言って笑いあえれば

私はバカでそこつ者で不器用で鈍感でどうしようがなくても

つまり自分を誇れなくても、

幸せである

私が不幸だったり悩み苦しんだりするのは、「うまくいかない」からである

「うまくいかない」とはつまり、周囲の人たちとしっくりいかないということである

周囲の人たちに受け入れられ、愛されていないという感覚である

必ずしも「評価」されなくてもよい、

「おまえバカだねえ」とあきれられながらも愛されれば「うまくいって」いるのである

それがフツーの日本人の、いやフツーの人間の感覚じゃないのだろうか

そういう意味で、フーテンの寅さんは「うまくいって」いるのである

寅さんがこんなにも多くの日本人に愛されているのは、

自分も寅さんのようでありたいと多くの人が思っている証拠ではないのだろうか

他人より上に立ちたい、えらくなりたい、尊敬されたい、評価されたいというのは

この「寅さんのように愛されたい」という基本的な願望が挫折した後の 

病的な願望のような気がする

「自分が正しいか正しくないか」「自分が悪いのか相手が悪いのか」という問いも同じように

「私はあなたが好き」「あなたも私が好き」が挫折した後の

病的な問いのような気がする

自分の気持ちがわかってもらえず、非難されたつらい状況で、

この問いは決まって頭をもたげるからだ

これについて書くと長くなりそうだから次にするけど、

寅さんは「自分が正しいか正しくないか」「自分が悪いのか相手が悪いのか」

なんて悩まない

だからそもそも「正しくない自分は救われないかもしれない」なんて悩むこともしない

「こんな私を義として下さった」神に感動することもしないだろう

なぜなら寅さんは愛されているからだ

「信仰によって義とされたい」から教会に来る人なんてどれだけいるんだろう

最近教会に加わった「お父さん」も元ホームレスのYさんも自転車乗りのMさんも

「義とされたい」から来るんじゃないと思う

教会で楽しく食事ができたり、話を聞いてもらえたり、笑い合えたりするからだと思う

「居場所」を与えられるからだと思う

日本人であろうと外国人であろうと

クリスチャンであろうと無宗教者であろうと

人間ってみんなそんなもんじゃないだろうか

傷つきやすさ

教師をしているとそのつもりがなくても生徒を傷つけたり、

また生徒に傷つけられたりすることが多くある

「先生のひとことで傷つきました」と面と向かって言われたこともある

「死ね!」と言われたことも

「教師に向かないよ」と言われたこともある

中学校では生徒の肩に触れると、バイキンを払うような仕草をされた

若い頃は傷つきやすかった

だから生きることが日々困難だった

あまりにもつらくて「死にたい」と思っていたような気がする



いつからかさほど傷つかなくなっていった

なぜなのだろう

いくつかの成功体験による自信というのも多少はある

しかしそれだけではない

うまくいかないことは今だってある

人間関係なんてナマモノだから、

「成功」するか「失敗」するか、いつだって蓋を開けないとわからない

そういう意味では「自信」なんて脆いものなのだ



「死ね!」と言われても傷つかなくなっていったのはなぜなのだろう

一番大きな理由は

「視点の転換」だと思う

簡単に言えば、

「なんでそんなこと言うの?!」から

「なんでそんなことを言うのだろう」への転換である

「なんでそんなこと言うの?!」は

疑問ではなく非難であり反語である

「私に向かってそんなことを言うあなたはひどい!」

「わたしはそんなことを言われる何かをしただろうか、いやしていない!」

非難の激しさと反語の断定は、

自己防衛から発している

「私に向かってそんなことを言うあなたはひどい!」と相手を非難するのでなければ

「私はそう言われて当然だ」と認めることになるから

そしてそう認めるのはあまりにつらいから

自分を守るために相手を非難する

自分を責めるか相手を責めるか

どっちにしても地獄である

だから私は若いとき攻撃的であり、同時に傷つきやすかった

今日教会でカップを投げつけて割った姉妹のように



「なんでそんなことを言うのだろう」と問うとき

自分から他者への関心の転換がある

他者の視点に立って出来事を眺めようという視点の転換がある

今日、姉妹のカップにコーヒーを入れ忘れたのは

姉妹なんていなくていい、と思ったからではない

単に「うっかりした」のである

「入れ忘れ」は姉妹のコーヒーカップでなく牧師先生のカップであることもありうるし

牧師婦人のカップであることもありうる

「そういえば子ろばはいつもうっかり者でヌケていた」という事実に関心を向けさえすれば

傷つかないのである

中学生に「死ね!」と言われたとき

「そういえば中学生はまだ子供でなんにもわかっちゃいなかったのだ」

ということをわきまえていさえすれば

傷つかないのだ

生徒が教師に向かってひどい言葉を投げつけたり「あんまりな態度」をみせたりするとき

教師が原因を自分の中にのみ探すのは間違っている

自分に原因がある場合もある

けれど生徒は教師の知らない現実の中で、教師の知らないさまざまな人間関係の中で生きている

前の晩、機嫌の悪い父親から殴られたせいでムシャクシャしていたかもしれない

「なんでそんなことを言うのだろう」「なんでこんなことをするのだろう」

を非難や反語としてではなく

科学者のような客観的な態度で考えてみるとき

私の知りえない地平=他者の現実に目を開かされる

そのとき私は「私」という牢獄から抜け出す

そして不思議と傷つかなくなる



姉妹へ

どうかこの小さな「事件」からExodus(出エジプト)の道を探り当てて下さい

あなたが日々出会うつらい出来事を

切り抜けるヒントをつかんで下さい

「なんで私にだけコーヒーを入れてくれないの?!」を

「なんで私にだけコーヒーを入れなかったのだろう」に転換するのと同様に

あなたのこうむる様々な「不都合な出来事」を

「他者の視点」と「他者の事情」から眺めてみるのです

「ゆるし」とはそういうことなのではないか

と最近気づいたのです

そしてそうだとすれば

相手をゆるすことによってのみ

私はエジプトを抜け出せるのかもしれない

今日コーヒーを入れ忘れた私をゆるして下さい
クリスマスを祝わないあなたへ


クリスマスが12月25日であると聖書のどこにも書いていないことは確かです

12月25日はもともと異教の冬至のお祭りでした

クリスマスにドンチャン騒ぎをするのが主のみこころなのかと問う

あなたの気持ちもわかります

サンタクロースの赤と白の衣装が

コカコーラのシンボルカラーだったことも

今日知りました

馬小屋の中で生まれたイエスさまの貧しい生誕と

にぎやかで豪勢なクリスマスの祝いが

大きく隔たっていることも事実です



けれどこの祝いを通して

人と人の心がつながるのだったら

それでいいではありませんか

サタンの業は人と人とを隔てることです

神の業は人と人をつなぐことです

クリスマスの宴が人と人をつなぐことになるともかぎらず

クリスマスを廃止すれば人と人がつながるともかぎらない



クリスマスを祝わないあなたと

心を通じさせるにはどうしたらいいんだろうか

あなたと心がつながるのなら

そのことこそがイエスさまの生誕を証するのです




クリスマス会なんて本当はどうでもいいから

私はあなたと

あなたの友達と

心をつなぎたい

クリスマスなんていう「偶像」は私もどうでもいいんです

ただ神が最も低いところに降りてくださったからこそ

私とあなたは心をつなぐことができるのだということを

信じています



12月24日

その日があなたにとって

「心をつなぐ日」となりますように

そのことを祈っています

イエスさま

どうか私が

クリスマスを祝わない人の悲しい目の目線にまで降りていくことができますように

そのためにこそ

イエスさまは生まれて下さったのですから

花嫁修業

聖書でわたしたちは神の花嫁だといわれている

ジョン・ビビアが書いている

「彼」が救い主だと信じ、

「彼」がどういうお方であるかに関心を向けるよりも

「彼」がわたしたちのために何をしてくれるか、することができるかに関心を向け

そのことゆえに「彼」とつながるのならば

金目当てで男と結婚する女と寸分違わない

なんという的確な表現!さすがジョン・ビビア

神とのあいだの溝は次のような夫婦の溝に似ているかも

「あなたは私を幸せにしてくれるって言ったじゃない!

あなたと結婚して私はかえって不幸になったわ!結婚する前のほうがましだったわ!」

出エジプトのイスラエルの民がエジプトを恋しがって言ったセリフとなんと似ていることだろう

人は生まれつき「愛する」能力を持っているわけではない

「愛する」ことができるようになるためには

多くの訓練を必要とする

だから私たちがこの地上で多くの傷を受けたり

理解されなかったり

善意や努力が報われなかったり

冷たくされたりして

心に血を流すのは

「愛する」ことができるようになるための訓練だ

神さまの花嫁になるための花嫁修業
福音書でイエスさまは「裁くな」と言われる

そのこととイエスさまが「最も重要な掟」といわれた「隣人を自分のように愛しなさい」ということは

同じこと、コインの裏表なのだと知った

裁かれたときにわたしの心は萎縮する

冷たく固く小さくなる

わたしの心は身動きが取れなくなって

「おまえはこうじゃないか」

と言われたそのとおりの自分でありつづける他はなくなる

それが呪いというものだ

愛のない批判は呪いに他ならない

愛することは

その人の悩み苦しみを共に担うことだ

その人が「悪いから」改善を迫るのではなく

その人が「悩み苦しんでいるから」問題を解決しようと力を貸すことだ

そんなsupportiveな関係が世に満ちれば

私たちはもっとフランクに人に悩みを打ち明け

勇気をもらい

自分の非にも素直になり

前向きに問題を解決しようとすることだろう

だからわたしたちが人に対してなすべきただ一つのことは

「愛する」ことなのだろう

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