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『クワイ河収容所』の著者アーネスト=ゴードンは第二次大戦中、日本軍に捕らえられ、
地獄のような捕虜収容所でキリストに出会いました
伝道の書3:11
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。
死を待つような捕虜収容所で
人は自分以外の者に関心を持たず
ブリキ缶に一杯の粥を奪い合い
仲間の貧しい所持品を盗みました
病人やケガ人は捨て置かれ
死体は物体のように足蹴にされました
日本兵は捕虜に残虐のかぎりを尽くしました
私は直接、間近に、全体主義国家支配の残忍性を見て知った。
苦難について、幾ばくかの知識を得た。死に直面することとはどういうことかを知った。
また人間がどれほど深い奈落にまで沈みこむことができるものかを知った。
アーネスト=ゴードン『クワイ河収容所』より
私はずっと疑問に思ってきました。
なぜあの戦争体験のことを誰も語らないのだろう、と。
ヒロシマ、ナガサキの悲劇については、
オキナワ戦の地獄絵図については、
空襲を浴びて怖かったこと、
食べ物がなくてひもじかったこと、
疎開して父母と離れさみしかったことについては、
私自身の両親やひめゆり部隊の生き残りのおばあさんや被爆者でもあった先生などから
くわしく聴いています
けれど日本軍の占領地であったタイやビルマのジャングルで何があったのか
元兵士の誰も語ろうとしません
私の舅は軍医としてビルマに赴きましたが
その体験について私の姑である彼の妻にも、私の夫であった彼の息子にも
けっして語ろうとしなかったそうです。
おそらく語れないほどの凄惨な出来事があったにちがいありません。
口ごもりながら語った元兵士は、
餓死寸前であった日本兵たちが仲間の兵士を殺してその人肉を食べたと言っています。
その事実を掘り出し、えぐりだして、歴史の授業で教えるべきなのか
それとも自国への尊敬と愛を損なう「自虐史観」だから葬り去るべきなのか
私にはわかりません
思い起こすのは、忘れることのできない重要な経験を
妻にも息子にも打ち明けることなく逝った舅のことです
自分にとって最も重要な経験を誰とも分かち合うことができないのなら
そのひとは孤独です
生き延びるために愛を捨てたなら
そのひとは後の人生でどう回復していけるのでしょうか
「あの時は非常時だったんだから仕方がなかったんだ、
平和な社会にあっては俺はよき市民であり、よき夫であり、よき父なんだ」
そういう言い訳がたとえ法廷や常識や倫理において通用したとしても
「そのひと自身」を癒すことはないだろうとなぜか確信するのです
ゴードンは日本兵を裁判の原告席から指弾しているのではありません
捕虜収容所で一杯の粥を仲間と奪い合い
互いへの無関心に支配されていくなかで
日本兵と同じ罪を自分自身の中にも見出していくのです
『クワイ河収容所』は希望の書物です
その希望とは、どんな奈落の底でもキリストは私たちに出会ってくださるという希望です
ゴードンは復員後、平和を回復して豊かになった戦後のイギリス社会のなかに
イエスさまを見出すことに苦労しました
一方で、「ここが天の御国なのだ」と奈落の底で確信することができたなら
そのひとはどんな大きな歓喜の中で生きていることでしょう
私はそのことを信じることができるような気がします
収容所で、骨と皮だけになった捕虜たちが互いに仕え合い、
恵みに感謝しながら喜びに満たされて生きていたことを
信じることができるような気がします
なぜならひとの喜びは愛し愛されることにあるからです
そして愛は豊かで安全だから、その余裕から与える何かではないからです
私は人間がどれほど深い奈落にまで沈むことができるものかを知った。
そして人間がどれほど崇高な頂にまで昇りゆくことができるものであるかを知った。
絶望について、それを体験し知っている者として話すことができた。
だが、希望についても知っていた。それについても話すことができた。
憎悪についても、だが、やはり愛についても。
神なき人間についても、だが、やはり神に生かされている人間についても語りえた。
私は悪魔的なものの力を知っていた。そして、聖霊のさらに大いなる力を知っていた。
アーネスト=ゴードン『クワイ河収容所』より
イエスさまは十字架にかかって死んでくださいました
その愛は尽きることのない希望として私たちの生を灯しています
イエスさまの十字架は、
アウシュヴィッツで仲間の身代わりになってガス室に進んでいったコルベ神父は、
クワイ河収容所の捕虜たちの多くは、
貧しき者として死にましたが
「一粒の麦」が死んで多くの実を結び、私たちの人生を照らしてくれていることを感じます
私たちが真におそれなければならないものは苦難や死ではないこともまた。
この書物が多くの方々に読まれることを願います
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